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『優しい時間・痛む傷 』
工藤・勇太1122)&ヴィルヘルム・ハスロ(8555)&弥生・ハスロ(8556)&(登場しない)

 薄曇の隙間から、太陽の光が差し込む。
 昨日から一層寒さを増した大気は肌を切るように寒く、北風に煽られて一層身に染みた。
 そんな寒空の下を、勇太は吐く息を白く小走り気味に目的の場所へと急いでいた。
「まったく、なんで直前になってあいつドタキャンすんだよ。せっかくお祝いだってのに……」
 厚手のコートの襟を両手で引き寄せながら、ポツリと愚痴る。
 今日は弥生とヴィルの産まれたばかりの赤ん坊をとお見舞いに行く予定で、勇太は近所の友人と一緒に行くはずだった。だが、友人は直前になって雲隠れしてしまい、連絡も取れないのだ。
 ムッと眉根を寄せて何度も電話を入れてみたがやはり何の音沙汰もない。これだけ連絡しても何もない事に勇太は堪りかねて、結局一人で病院へ行く事にしたのだった。
「今度あったら絶対文句言ってやる」
 寒さも相まって、足取りはますます速くなる。
 ようやく病院の前まで来ると、荒い呼吸を整えるよう深呼吸を繰り返し、そしてゆっくりと病院の入り口をくぐった。
 大勢の患者が診察を待っていたり会計を済ませたりする中、勇太は人々の間を縫うようにして入院病棟へ急ぐ。エレベーターで産婦人科のある階まで上がると、ナースステーションに向かった。
「すいません。弥生・ハスロさんの部屋は何号室ですか?」
「弥生さん? えーっと……503号室ですよ。面会の方はこちらに記載と、面会バッチを付けて下さいね」
「あ、はい」
 優しい笑顔で丁寧に教えてくれるナースに促されるまま、面会者の名前を置かれていた紙に記入し、面会バッチを受け取る。
 それを胸元に取り付けながら、広い病院の503号室を目指して歩き出す。
「503……503……。あ、あった」
 勇太は病室の入り口に記載されている名前で再度確認すると、緊張を落ち着かせる為に一度胸に手を当て大きく深呼吸してから病室に足を踏み入れた。
 大部屋だけに、空いているベッド以外は皆カーテンで仕切られていて、どこに誰がいるのか分かり難い。
 勇太はそろっと声をかけてみる。
「弥生さん……?」
「はーい」
 一番奥の窓側から明るい声が上がり、同時に引かれていたカーテンが開くとヴィルが顔を覗かせた。
「やぁ、勇太くん。来てくれたんだね」
「あ、はい」
 ヴィルの満面の笑みに出迎えられ、少しばかり緊張しながら近づくとベッドに腰をかけていた弥生もまたにこやかに微笑んだ。
「勇太くん。寒いのにわざわざありがとう」
「いえ……。あ、おめでとうございます」
 やや遠慮がちに頭を下げると、二人は口を揃えて「ありがとう」と微笑みかけた。
 その二人の幸せそうな微笑に、勇太の心が僅かにチクリと痛む。
 何だ。この痛みは……。
 勇太は密かに眉根を寄せ、そっと胸元に触れる。
「勇太くん、ここに座って。立っているのも疲れるでしょう」
 ヴィルはにこやかな笑みを浮かべたまま、傍に置いてあった丸椅子を引き寄せ自分の隣に座るよう促してくる。
 勇太はハッと我に返り、促されるままに椅子に腰を下ろすと、持ってきた果物の籠を差し出す。
「あの、これ良かったら食べて下さい」
「まぁ。美味しそうな果物ね。ありがとう。気を使わせてしまって申し訳ないわね」
「いえ。俺からの気持ちですから」
 ニッコリ笑って果物を渡すと、勇太は弥生の腕に抱かれている赤ん坊に目を向ける。
 赤ん坊はほんのりと石鹸の良い香りがし、僅かに上気したピンク色の頬をしてスヤスヤと抱かれ心地良さそうに眠っていた。
 その様子に、自然と勇太の目尻も柔和に微笑む。
「可愛いですね」
「今丁度授乳が終わって、眠ってしまったところなのよ」
 弥生は我が子を慈しむ優しい眼差しで見下ろしながら、そっときめ細かな頬を撫でる。すると、赤ん坊はピクリと片手を広げて反応を示した。
「ふふふ。可愛い」
「あぁ、本当だね」
 赤ん坊のちょっとした動きさえも、二人には可愛くて仕方が無い。
 勇太の目から見ても確かにどこか満足そうな顔で眠っているようにも見える。そしてとても愛されているのだなという事も。
 そう思うと同時にズキリと、また胸の奥を刺激する小さな痛みを覚えたが、勇太はあえて気付かない振りをして子供を見つめていた。
「名前は決まったんですか?」
「まだ決めてないんですよ。これからを生きるこの子に相応しい名前と言うのを、なかなか決められなくてね」
 ヴィルははにかむように小さく笑いながらそう応えた。それに続き、弥生も口を開く。
「名前は、その子の一生を左右する大事なものでしょう? ましてこの子は男の子だし、ちゃんとした名前にしなくちゃね」
 そう言って微笑む弥生の表情は、実に順風満帆なのだなという事が窺えた。
 あぁ、二人は本当に幸せの絶頂に立っている。これ以上ないほどの至福の中に、この赤ん坊は生まれたんだ……。
 勇太はどこか呆然としたように、そう心の中で呟いていた。
「勇太くん?」
 ふいに黙り込んだ勇太を気にかけて弥生が声をかけると、急ぎ取り繕うように目を瞬かせた。
「え? あ、すいません。ついボーっとしちゃって……」
 いつもと変わりない風に装ってニッコリと微笑んでみせる。だが、一瞬見せた勇太の陰りを、ヴィルと弥生が気付かないわけがなかった。
 勇太はサラリとその場を流すように、別の話題を振って来る。
「そう言えば今日はこれから雪が降るみたいですね」
「あら、そうなの?」
 何気なく窓の外に目を向ければ、先ほどまで薄っすらと日が差していた太陽は今はもう厚い雲に隠れてしまい、見えなくなっている。今にも雪が降り出しそうな感じを醸し出していた。
 時折窓を叩く北風が、より寒さを強調しているかのようだった。
「……」
 どうしようか……。
 勇太はふいにそう思った。
 この寒空の下、雪が降り出す前に帰るかどうかと言う模索ではなく、勇太の意識は別のところにある。
 見て見ぬ振りができれば良かった。だけど、これは思った以上に辛かったみたいだ……。
 窓の外を見やりながら、先ほどからズキズキと胸が痛んで仕方がない。言い表せない感情が溢れ出しそうで、思わずキュッと口を引き結ぶ。
「ふぎゃ………ふぇえええぇぇええぇっ!」
「!」
 背後から、突然泣き出した赤ん坊の泣き声に、勇太は驚いてそちらに目を向ける。
「あらあら……どうしたのかしら。急に泣きだすだなんて……」
「ほらほら、どうしたんだい?」
 弥生がうろたえたように赤ん坊をあやし、ヴィルがその傍らで同様にあやしている姿が目に映る。
 駄目だ……。
 勇太は堪らず、膝の上にあった手をきつく握りこむ。
 これ以上ここにいたら駄目だ……。これ以上、この家族を見ていられない……。この優しい空気に包まれていられない……。
 鼻の奥にチリッとした痛みがこみ上げてくる。自分の意思に反して自然と目頭は熱くなり、勇太は慌てて俯いた。
 今はまだ駄目だ。いつも通りの俺を演じなければ……。
 勇太は自分に言い聞かせるようにそう思い少し慌てた様子でガタリとその場に立ち上がると、弥生とヴィルは同時に視線を上げて見上げてきた。
 そっと深く息を吸い込みながら、もう一度自分に言い聞かせる。
 大丈夫。まだ、笑える……。
 俯かせていた顔を上げると、いつもと変わらない明るい笑顔を向けて二人に声をかけた。
「すいません。俺、用事思い出したんでもう帰ります」
「え?」
「急ですいません。でも、二人に愛されて幸せそうな赤ちゃんも見ることが出来たし、弥生さんも元気そうなので安心しました」
「勇太くん……」
 どこか驚いた様子の二人を前に、もう一度勇太は笑ってみせる。
「この赤ちゃんは、絶対幸せになりますね」
 何とかそう言うと、勇太は軽く頭を下げて少し足早にその場から立ち去っていく。
 どうしよう……。そんなつもりなど毛頭無かったのに、さっきの言葉はなんだか皮肉めいたように聞こえてしまっただろうか。
 ギリギリのところで堪えていた、目頭にこみ上げる熱い物が迂闊にもポロッと頬を伝い落ちる。
「勇太くんっ!」
「……っ!」
 病室を出る前に背後から呼び止められ、勇太はビクッと肩を震わせた。
「……大丈夫かい?」
 すぐ真後ろで声がかかり弾かれるようにそちらを振り返ると、心配そうな面持ちのヴィルの姿が飛び込んでくる。
「あ……」
 不覚だった。
 一度零れ落ちた涙は、もうどうやっても止められない。
 次から次へと溢れ出て、勇太の頬を濡らしていく。雫は顎を伝い床の上にこぼれていった。
 みっともない。こんな風に人前で泣くだなんて……。
 心の中は冷静にそんなことを考えているのに、体の方は正直に今の感情を表してしまう。
 勇太はすぐに顔を伏せると同時に瞳を閉じる。するとその肩にそっとヴィルの手がかけられた。
「すいません……。君には、少し辛かったですね……」
「……いえ」
 ゆるゆると首を横に振る。
 祝いたかったのは本当だ。彼らの幸せを心から祝いたい。そう思ったからここに来た。笑顔で最後までいられると思ったから……。
 でも、予想以上に心の傷は過敏に反応を示してしまってどうしようもなかった。
 自分と比べても仕方が無いことぐらい分かっている。赤ん坊は無条件で愛されて当然だ。ただそこにいるだけで皆を幸せに出来る、最大限のパワーを持っているのだから。
 そんな赤ん坊を相手に、嫉妬なんてみっともないことをするつもりなんか微塵も無かったはずだったのに……。
 勇太は自分に対する恥ずかしさと、抉るような切ない気持ちに肩が震えた。
 無条件で愛される……。なら、自分も、赤ん坊の時には愛されていた? あの二人に……。
「……ごめんなさい……俺……」
「……君が謝る必要なんてないんですよ」
 ヴィルが優しく声をかけると、勇太はゆるゆると首を振った。
「……自分も、こんな風に愛されていたのかな……って思うと、何か……っ」
 辛くて……。
 最後は言葉にならなかった。
 今自分に出来るのは、二人にこれ以上迷惑をかけないことぐらいだ。
 そう思った勇太は無理やり顔を上げて微笑むと、ヴィルも、そして赤ん坊を抱いたままベッドから降りてきた弥生もどこか辛そうに眉を寄せる。そしてふんわりと微笑みかけた。
「私は……ううん。私たちはそう信じてる。勇太くんがこの世に生まれて出会えたことを、嬉しく思っているはずだわ」
「親とは、皆そう思うものだと思いますよ」
 その言葉に、勇太は小さく頷いた。
 二人の言葉は胸に染み入る。だから、久し振りに入院している母の見舞いに行こうと、密かに心で思ったのだった。
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東京怪談
2014年02月10日

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