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『霧の鏡 』
青霧・ノゾミ8553)&フェイト・−(8636)&(登場しない)


 霧の都に1人、知り合いがいる。
 そんな事をフェイトがふと思い出したのは、あまりにも霧が深い夜であるからだ。
 ロンドンがそう言われるほど霧深い都市であるのかどうか、何しろ行った事がないのでフェイトは知らない。
 今夜、ロンドンはともかく、東京には霧が出ていた。まさに霧の都と呼ぶにふさわしい濃さである。
「あいつ、元気でやってるかな……」
 英国首都を拠点として多忙な日々を過ごす、若き大富豪。
 あの優雅で不敵な笑顔を思い出しながら、フェイトは身震いをした。
 寒い。気温が低いと言うより、霧が冷たい。
 黒いスーツが、うっすらと白くなっている。霜が、貼り付いていた。
 フェイトは足を止め、見回した。
 見慣れた公園の夜景が、ぼんやりとした冷たい白さに覆われている。
 これは、本当に霧なのか。
 少なくとも、自然に発生した霧ではない。
 明確な根拠もなく、そう感じながら、フェイトは拳銃を抜いた。
 霧の中で、光が点ったからだ。
 2つの、小さな青い光。
 眼光だった。青い瞳が、ちらりと向けられてくる。
 フェイトは一瞬、鏡を見ているような気分になった。
 冷たい霧の中に佇む、1人の少年。
 細い身体は、ほぼ黒一色の装いをしている。黒いジャケットにベスト、黒いズボン、黒革のショートブーツ。
 似ているのは服装だけではない、とフェイトは感じた。
「A6研の人かな。それともA5?」
 青い瞳の、その少年が、謎めいた事を言っている。
「何にしても一足遅かったね。ボクの仕事、横取りするつもりだったんだろうけど」
「仕事……ね」
 少年の足元に横たわるものを、フェイトはちらりと観察した。
 氷の塊……いや、凍死体に見えた。人間ほどの大きさの何かが、真っ白に凍り付いている。
 何であるかをフェイトが確認しようとした時には、それはキラキラと砕け散っていた。
「……どんなお仕事なのか、ちょっと訊いてみてもいいかな」
「研究所の人じゃないの……?」
 少年が、怪訝そうにフェイトを見る。
 その目が、はっと見開かれた。青い瞳が。フェイトの拳銃に向けられている。
「先生が言ってた。日本で、堂々と拳銃を持ち歩いてるのは……IO2だけ」
「名刺代わりになっちゃったな、こいつが」
 言葉と共にフェイトは、少年に拳銃を向けていた。
 この少年が何者なのかは不明だが、1つ明らかな事がある。フェイトが、直感した事がある。
 この霧の中では、自分は100%の力を発揮出来ない、という事だ。
 霧の冷たさが、全身にまとわりついて体内に浸透して来る。
 自分の力が少しずつ凍結してゆく。フェイトは、そう感じた。
 このまま戦いになったとしたら、自分は確実に負ける。今すぐ引き金を引いて、この少年を射殺しない限り。
 だがフェイトは引き金を引かず、言った。
「アメリカ暮らしが長くてね。人に銃を向ける事には、あんまり抵抗がないんだ。良くない傾向だとは自分でも思うよ」
 作り笑いを、浮かべてみる。
「アメリカのせいにしちゃあ、いけないかな……とにかく、ここで何をしてたのか教えて欲しい」
「安心して。人殺しをしたわけじゃないから」
 白く凍った肉片が、公園の地面にぶちまけられている。それを見下ろしながら、少年は言った。
「ボクたちが、不始末を後片付けしているだけ……IO2の人たちに、手間をかけさせるつもりはないから」
 霧が、濃くなった。
 その白い闇の中で少年が、ふわりと後退りをしている。
「どうか、余計な事はしないで……」
 霧が晴れた。
 少年の姿は、消えていた。
 言葉は、しかし残っている。少年の発した、ある1つの単語が、フェイトの心に突き刺さっている。
「研究所……か」
 本当に、嫌な言葉だった。


 一瞬。ほんの一瞬だが青霧ノゾミは、鏡を見ているような気分に陥った。
 路地裏で無様に尻餅をつき、怯えている男。衣服とも呼べないボロ布の下にある肉体は、今のところ辛うじて、人間の形を維持しているようだ。
 この男は、生ける兵器として造り出され、実験動物として扱われ、失敗作として廃棄処分を決定され、それに逆らって脱走した。
 同じ研究所にいながら青霧ノゾミは、素晴らしい先生に恵まれ、慈しまれ、今のところは成功作品として大切に扱われている。そして今、脱走した失敗作を狩る側にいる。
 何か1つでも間違っていたら、立場は逆転していただろう。
「だけど、それは……あなたを見逃す理由には、ならないから」
 1歩、ノゾミは近付いた。
 尻餅をついたまま、男は後退りをして、ビルの外壁にぶつかった。
「や……やめろ、やめてくれえ……」
 言語中枢は、まだ生き残っているようだ。
「わ、わからねえのか……お前だって、そのうち俺と同じになるぞ……モルモットみてえに扱われて、ゴミみたく捨てられて」
「同じ事を言わせないで。それは、あなたを見逃す理由にはならない」
 楽に死なせる。美しく、キラキラと粉砕する。
 この男のためにノゾミがしてやれる事は、それだけだ。
「だいたい、わかったよ」
 声がした。
 足音が聞こえた時には、もう銃口を向けられていた。
「あんたの言う研究所で、どういう研究をやってるのか……今のやり取りで、大体わかった」
「あなたは……」
 黒髪に、黒いスーツ。エメラルドグリーンの瞳。
 先日、公園で出会った、IO2の青年である。
 あの時と同じく、ノゾミに拳銃を向けながら、青年は言った。
「わかったけど、少し詳しい話も聞きたいな……その研究所ってのが、どこにあるのか。まずは、それから話してもらおうか」
「な、何でも話す! 俺が教えてやるよ、だから助けてくれよお!」
 ビルの外壁にしがみつくようにして、男が叫んだ。ノゾミが止める暇もなく、ある地名を口にしてしまった。
「俺みたいな奴が大勢、そこに閉じ込められて! ひでえ目に遭ってんだよぉおお!」
「だから逃げ出して、追われて、狩られてると。そういうわけか」
「15体」
 逃げ出した実験体の数を、ノゾミは仕方なく明かした。こうなった以上、ある程度の説明はしなければならないだろう。
「ここにいるのが、最後の1体……見ての通り、大した力は持っていないよ。IO2の人に手を貸してもらうまでもない、ボク1人で充分だから……帰って、くれないかな」
「俺も、お手伝いをしようって気はないんだ」
 エメラルドグリーンの瞳が、ギラリと発光する。
 同じだ、とノゾミは感じた。この青年は、自分と同じだ。
 無論、ホムンクルスではないだろう。母親の胎内から生まれ、だがその後間もなく……恐らくかなり幼い時期に、何かしらの開発実験を施された。
 そして、人間ではないものに造り変えられた。ホムンクルスの最高傑作、にも等しいものに。
 研究所の科学者たちが見たら羨むだろう、とノゾミは思った。
(先生への、お土産に……連れて帰ってみたいな)
「……道具だな、あんた」
 青年が言った。その口調に、緑色の眼光に、怒りが漲っている。
「物として、便利に使われてる。その自覚はあるのかな」
「あなたは……何をそんなに怒っているの?」
 ノゾミは、微かに首を傾げた。
「ボクが先生の道具なのは、当たり前じゃないか。先生はボクを、本当に大事に使ってくれる。ボクは先生の役に立ってる。誰も困ってはいない、誰かを怒らせる要素なんて1つもないと思うけどな」
「先生、ね……あんたたちみたいな生きる道具を、大量生産してるわけだ。その研究所では」
「それのどこに、あなたを怒らせてしまう理由があるのかな?」
 研究所では、皆が幸せに過ごしている。
 その幸せを感じられない者だけが、こうして時折、脱走するだけだ。
 誰も困りはしない。誰かに怒られる理由など、ないはずであった。
「IO2の人たちにとっても、有益な研究をしている所だよ」
「IO2とも、虚無の境界とも、繋がってた……そんな研究施設があったのさ」
 言葉と共に青年の瞳が、緑色に燃え上がる。鮮やかな、エメラルドグリーンの炎。
 綺麗だ、とノゾミは感じた。
 青い瞳が綺麗だ、と先生に誉められた事がある。が、この燃え上がる緑色ほど綺麗ではないだろう。
「虚無の境界がやってた研究を、いつの間にかIO2が引き継いでいたんだよ。だから俺は、IO2の上層部にいる連中を信用してない。あいつらが喜ぶ有益な研究なんて、認めたくはないな」
「ボクたちの研究所と、IO2が手を組めば、凄い力が生み出せるんだよ? 世界のみんなが、幸せになれる力さ」
「先生とやらが、そう言ったのか」
 青年が何を言っているのか、ノゾミは一瞬、わからなくなった。
「そういう言葉で、あんたを便利に使いこなしているわけだ」
「え……っと」
 ノゾミは、頭を掻いた。
「もしかして、今……先生の悪口、言った?」
「直接会って、悪口をぶつけてやりたい気持ちはあるよ。悪口だけで済ませられるかどうか、ちょっと自信ないけどな」
 この青年は、先生に危害を加えようとしている。
 それだけでノゾミは、両眼が青く激しく輝くのを止められなくなった。
 路地裏に、霧が立ちこめる。
 問題は、銃口がすでに自分に向けられている、という事だ。
 引き金を引かれる前に、この青年を凍結させ粉砕する事が、果たして出来るかどうか。
 絶叫が、おぞましく響き渡った。
 ビルの外壁にへばりつき、怯え震えていた男が、さらに激しく痙攣し、叫んでいる。
 その全身から、ボロ布がちぎれ飛んだ。
 剛毛が、筋肉が、凄まじい勢いで隆起している。まるで熊かゴリラのように。
 もはや人間の言葉を発声出来なくなった口が、大きく裂けながら巨大な牙を露わにした。
 そして、ノゾミに喰らい付いて来る。
 完璧な奇襲であった。許せない発言をした青年に、ノゾミは注意を奪われている。
 一瞬後には、食い殺される。覚悟を決めている暇すらない。
 銃声が、轟いた。
 緑の瞳の青年が、引き金を引いていた。銃口はノゾミに、ではなく獣と化した男に向けられている。
 熊かゴリラのような巨体が、フルオートの銃撃を叩き込まれて吹っ飛び、倒れ、だが起き上がって来る。
 そこへノゾミは、青く燃え上がる眼光を向けた。
 霧が凝集・凝結して水滴に変わり、凍り付く。
 氷の矢が無数、そこに発生していた。
 一斉に発射されたそれらが、獣と化した男の全身に突き刺さる。
 剛毛と筋肉で膨れ上がった巨体が、一瞬にして凍り付き、砕け散った。
 白く凍った肉片が、ガラスのようにキラキラと飛散する。
 ノゾミは一瞬、鏡を粉砕したような気分になった。
 何か1つ間違っていれば、こうして粉々になっていたのは自分の方なのだ。
「大したもんだ……あのまま戦いになってたら、俺がこうなってたかもな」
 そう思うなら今すぐ撃ち殺せば良いものを、それをせずに青年が言う。
 ノゾミは、ちらりと睨み据えた。
 青と緑、2色の眼光が一瞬、ぶつかり合った。
「あなたは、許せない事を言った……だけどボクを助けてくれた。今回は、それで帳消しにしてあげる」
 言いつつノゾミは、青年に背を向け、歩き出した。
 これ以上、睨み合っていたら、本当に戦いになってしまうかも知れない。
 今まで自分が始末してきた出来損ないの実験体、とは明らかに格の違う、この緑の瞳の怪物とだ。
「1つ、言っておこうかな……先生の敵に回るのなら、ボクは容赦しないよ。あなたがどんなにバケモノでも」
「俺からも1つ言っておく。こんなものを造り出すような研究は、たとえ何か正当な理由みたいなものがあるにしても、俺は絶対に許さない」
 燃え上がる緑の眼光を、ノゾミは背中に感じた。
「許さなきゃどうするのか、今はまだわからない。あんまり勝手な事は出来ないからな……ただ、許せないと思ってる奴が最低1人はいる。それを、先生とやらに伝えておいて欲しい」
「……ボクは、青霧ノゾミ」
 ノゾミは振り向かず、名乗った。
「……あなたは?」
「フェイト」
「覚えたよ」
 可愛らしく並んだ白い歯を、ノゾミは微かにギリッ……と噛み鳴らした。
「先生の敵の名前は……フェイト」
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東京怪談
2014年05月08日

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