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『悼みの亡骸 』
ファーフナーjb7826

 芯まで凍える冬だった。
 あたたかな暖炉の燈る部屋の中ですらきっとこの寒さをひとさじくらいは感じただろう、そんな冬。
 凍り付いた路面。布きれ一枚隔てて寝そべる体躯がつまさきまで冷えていく。襤褸い毛布は羽織るべきか、敷くべきか、それは詮無い話。
 身を切る寒さが身体と共に心をも強張らせていくのは自然だった。
 賑やかな喧騒から外れた路地裏で、ファーフナー(jb7826)は黙したまま身を横たえる。
 彼は、組織に身を追われていた。在籍していたのは過去の話。今となってはファーフナーは裏切者扱い、弁明も何も必要ない、向けられるのは口封じの為の追手ばかり。
 肌を裂くような寒さが四肢を蝕み、意識せずとも歯の根は震えた。
 ただただ、頭を過ぎるのは喪失感。がらんどうの空間。狂ってしまった歯車、欠けてしまった生。寄り添い歩いた幸福はもう無い――そう嫌でも確かめさせられるこの凍てついたアスファルトが痛かった。
 硬く冷たい地面。ファーフナーの今の心に、よく似ていた。



 眠れない日が続くある夜。
 寝床と呼ぶには些か貧相な襤褸毛布の隙間に、一匹の野良猫が潜り込んで来た。
 みゃあ。
 か細い鳴き声に気付いて覘き込むと、毛布とファーフナーの隙間で猫は丸くなっていた。よくよく見れば足先が欠損しており、生まれつきの奇形だろうということが判る。
「……捨て猫か」
 猫はファーフナーを警戒するでもなく、身を寄せてぬくもりを求めて来る。その人懐っこさが何よりの証拠。
 大人しく丸まった姿をじっと眺めていると、猫は視線を気にも留めずに眠りについた。中々に神経が図太い猫らしい。そうでも無ければ野良猫として生きていけないのやも知れないが。
 小さな息遣い、小さなぬくもり。
 久方振りに感じる自身以外の体温に、ファーフナーは僅かに目許を綻ばせた。
 遣る瀬無いことばかり起きるこの世界。立つ瀬無い場所ばかり増えるこの世界。それでも彼は生きていたし、この猫だって生きていた。凍える程寒くても、身を寄せ合えばそれなりにあたたかい。たとえそれが傷の嘗め合いだとしても、ぬくもりだけは真実だった。
 捨てられた者同士、熱を分かち合って眠る。

 ――それは、存外に悪くない時間だった。

 それから毎晩猫が訪れた。
 猫の飼い方など知るわけもない。それでも猫はやってきた。
 無骨な指で僅かに触れると、ぼさついた毛並の奥に確かなぬくもりが在る。
 炊き出しで得た僅かな食事を分け合うことに躊躇いは無かった。たかが猫と笑われるやも知れない。それでも、ファーフナーにとって、その猫は安らぎだった。
 例えば友であり、例えば家族であり、例えばパートナーだったのやも知れない。それはファーフナー当人にさえ判らない。
 みゃあ。
 猫にとっては気まぐれなのかも知れない。元来そういう性質の生き物だ。
 しかしながら、その気まぐれに彼は芯を灯した。
 毎夜、共に眠った。
 隣にぬくもりを感じる安心感に、強張る心が融けていく。
 人と較べれば先は長くない儚い命だと知っていながら、彼は猫と共に過ごした。
 猫が傍に居た。猫と共に居た。
 辺りに生えていた猫のじゃれる草を摘んで揺らしてやり、猫はそれに喜んで飛びつく。
 ファーフナーにとって掛け替えのない時間だった、と思う。



 幸福は長くは続かない。
 ある日唐突に、猫の訪れが途切れた。
 ――一晩目。怪訝に思い、眠れなかった。
 ――二晩目。猫を捜す気にはなれなかった。
 ――三晩目。芽吹いていた諦めは確信に変わる。
 野垂れ死んだか、他の居場所を見付けたか。
 元より猫は気まぐれだ。仕方ない。仕方ない。仕方ない。仕方ない、仕方ない、仕方ない、仕方ない、――そう脳では理解しているのに、眠気は一向に訪れなかった。
 目蓋は石のように重い。頭痛がする。一度ぬくもりを知ってしまった身体は、怖ろしい程に寒い。それなのに、眠れない。夜がこんなにも長く、孤独を感じさせるものだとは思ってもみなかった。忘れてしまっていただけなのかも知れない。
 気付けば、目の前で浮浪者向けの売人が笑っていた。
 何事かを囁いて来る男に向けた目はきっと濁っていたに違いない。
 手には薬が在った。幾ら支払ったのかも、幾ら購入したのかも判らない。
 ただ判ったのは、漸く眠れる――それだけだ。

 傍らで感じるぬくもりが恋しかった。
 聴こえる小さな寝息に確かな幸せを感じていた。

 あの日からずっとずっとひとりだった。
 他人の気配など煩わしいだけだったのに、

 ――みゃあ。

 あの鳴き声が、あのぬくもりが、どうしようもなく掻き乱す。

(止め処なく思考が巡る。巡る思考に雨が降る。その雨は鮮やかな血の色をしていた。水たまりの中にはむせ返るような幸福の亡骸。足が沈む。泥濘みにはいつか転がり落ちた約束が浮かんでは消えて、その石の輝きは色を失くした。)

 忘れようとすればする程、嘲笑うかのように鮮明に蘇る。
 ただ幸せだった日々。変わらない日常を愛して、確かに幸福だった。
 そのすべてがまやかしだと思い知らされ、砕け散った心。

 あの日、冗談だと笑い飛ばして欲しかった。
 けれどもう取り返しはつかない。
 消えてしまった。消してしまった。この手で、全てを。

(憎みたくない。憎んでしまえば楽になれる。)

 目まぐるしく思考を乱し沈んでいく思い出が、ささやく。
 憎みたくない想いは事実で、けれど憎めば楽になるのもまた事実で。
 砕けた心の破片は差し込む光を乱反射して、見える筈のものも、見えないものも、全部全部掻き混ぜた。

 潰えた想い。
 虚ろな眼差しが虚空を見上げる。
 黒く白く目映く鮮やかでああ何も見えない。



 薬に逃げて、砕けた心を靴底で磨り潰して、夜も朝も判らなくなった。
 この状態で組織に見付かれば、きっとひとたまりもないだろう。
 そんな、時。

 ――みゃあ。

 混濁する意識の中、声がした。
 夢かと思った。けれど、現実だった。鈍い意識、固い身体。
 不意に呼び戻される感覚に伝わるぬくもり。
 重い目蓋を開けると、そこにはつま先の欠損した猫がいた。見覚えがある。そして、その傍らには随分小さな仔猫。
「……親になったのか」
 直ぐに判った。同じ毛並、毛色、擦り寄る仔猫の鳴き声は母を慕う子のそれだった。
 母猫はつま先を引き摺って、ファーフナーの許へ近付く。
 そして、頭を擦り付けた。いつかのように。あの日のように。
 みゃあ。
 あの日と変わらぬ声で鳴いた猫の頭を彼は優しく撫で、そのぬくもりに目を細めた。眩しかった。まるで夢のような心地で、その体温に触れる。
 猫は小さく喉を鳴らし、ファーフナーを見上げる。つぶらな両の目。
 彼はふらつく身体を支えてゆっくりと立ち上がった。
 そうして、猫の鳴き声を背に受けながらも振り返らない。

 身も心も蝕む薬はすべて棄てた。
 姿を潜め、宵に紛れ、潜伏先を変える道を選んだ。
 長く住んだ街だ。幸福の甘露も、絶望の苦渋も味わった。
 様々な記憶に彩られた街に、漸く別れを告げる。
 心を砕いてもその場に居続けた理由は、彼自身にも判らない。

 ――ただひたすらに痛かった。そうして、居たかったのかも、知れない。

 表を歩むことが許されない。
 ぬくもりを得ることが生きて叶わない。
 それなら――、せめて、夢の中で和えかな熱を思い出そう。

 ささやかな幸福は、あの日、傍らで小さな息遣いと共に。

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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【jb7826 / ファーフナー / 男 / 52歳 / アカシックレコーダー:タイプA】

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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 いつもお世話になっております相沢です。
 WT依頼の方でもどうも有難う御座います! まだまだ至らない所がありますが、今後とも宜しければどうぞ宜しくお願い致します。
 今回はさまざまな色がざわめく過去ということで、いただいた情報から色々思い起こしながら書かせていただきました。気に入っていただければ幸いです。
 また機会がありましたら是非宜しくお願い致します! 本当に有難う御座いました!
snowCパーティノベル -
相沢 クリエイターズルームへ
エリュシオン
2015年01月26日

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