▼作品詳細検索▼  →クリエイター検索


『「めでたしめでたし」は未だ遠く 』
落花(ib9561)

 天儀歴2015年。
 アヤカシの脅威は激減し、天儀の人々にようやく平和が訪れた。
 世界には平穏と幸福が満ち、誰も彼もが笑顔になった。

 めでたし、めでたし。



「――げ、ぇっ ぐ」

 びしゃ、と。
 便器に吐瀉物が散った。
 はぁ。はぁ。げほ。落花(ib9561)はまるで斬首を待つ罪人の様に便器の前で項垂れたまま、胃酸の味がする喉に数度噎せるのを繰り返す。
(また……、吐き戻してしまった)
 ちり紙で口を拭き、落花はよろめきながら長屋の便所から自室に戻る。覚束ない足取り。自分の身体が自分のものではないような感覚。細い喉が苦しそうにヒュウヒュウと鳴っている。
「クス、リ……飲まないと……」

 ――幸せになった世界。幸福に満ちた世界。

 けれど落花は『そんな世界』から程遠く。
 世界はこんなにも幸せになったのに、不治の病が如く落花を縛り苛むのは過去の恐怖。
「災厄を運ぶ怨霊」――それを鎮める為の生贄だった落花。儀式の最中に幼馴染に救出され、その際に怨霊は退治された筈なのに、恐怖が、心に身体に記憶に染み付いた恐怖が、これっぽっちも薄れない。

 それどころか、だ。

 その恐怖は日を追うごとに強く濃くなり、落花の全てを蝕んでいた。
 幻聴、幻覚。今までは薬でなんとか抑えられていた筈なのに。
 いつしか食事も喉が通らなくなり、無理矢理詰め込んでも、先程のように吐き戻してしまうばかり。
 元々細身ではあった落花の体は今や骸骨の様に痩せさらばえ、ロクに眠れない目はクマが酷くなり、血色の悪かった肌はいよいよ死人のように青白く。やつれきった彼女は、少女であるのに老婆の骸の様な見た目になってしまっていた。
 不規則な生活、気力もなく、長屋に引き籠る日々が終わりなく続く。

 心も。体も。ボロボロで。
 まるで底なし沼でもがき続けるかのようで。

 自室にようやっと戻れた落花は敷きっ放しの布団の上にうつ伏せに倒れこんだ。まさに『倒れる』という言葉が相応しかった。
(水……)
 口の中が酸っぱい。口を漱ごうと思った。けれど、立ち上がる元気が出ない。
(つかれた……)
 今日はなんにもしてないのにね、と自嘲を付け加え。
 ぼーっと、落花は光のない真っ黒い目で、顔の横にある骨ばった自身の手を見つめていた。

 と――

(……まただ……)
 手の向こう側、部屋の隅。
 生じた闇。暗い色。暗い笑い。悪意を表したかのような。
 アレは己の命を狙っている。いつもの幻覚、そう、アレは幻覚だ。落花は己にそう言い聞かせながら、ソレを見ないように震える手を伸ばした。
 布団の傍に置きっぱなしにしてあった薬のビンを引っ掴む。早く早くと焦りながら蓋を開け、用量を無視して口の中にザラザラと流し込んだ。吐き戻しそうになりながら飲み込んだ。
(さぁ、もう、クスリも飲んだから、大丈夫、大丈夫、大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫――)

『なにがだいじょうぶなのさ』

 聞こえた幻聴を噛み潰し、落花は布団を頭から被る。
「大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫私の命は私のものだ」
 呪文のように繰り返す。
 呪文のように繰り返す。
 何度でも繰り返す。

『そんなのむだなのにね』

「大丈夫だからっ、大丈夫だからっ! 早くクスリ効いてよぉおおおッッ!!!」
 呻き、泣き叫び、掻き毟った頭を何度も打ち付ける。
 なのに『ソレ』は。
 布団の中、落花の足の下の暗闇から。
 ニタ、と笑っていたのだ。
「ヒ、ッい!」
 逃げようとした落花の足を影が掴む。
 暗い方へ、闇の奥へ、引きずり込んで殺そうと――
「嫌ぁああッッ!」
 遮二無二、掴んだのは食卓代わりの小机の足。落花は叫びながら闇の方へと机を投げつけた。

 ガシャン。

「――はっ、はぁっ、はぁッ……」
 机の上に置いてあった食器が割れる音。ぶちまけられた食事の残り。机で殴りつけた自分の足の鈍い痛み。
 気付くとアレはもういない。
「はっ、は、アハハハハ……ざまぁみろよ……」
 乱れた髪のまま落花は笑う。今日も勝ってやった、『死の誘惑』に。
 直後、彼女は薬の過剰摂取による副作用で激しい眠気に襲われ、気絶するように眠りに落ちてしまった。




 何処かで……
 落花の名を呼ぶ声がする。
 聞き覚えのある声だ。
 幼馴染の声である。

 落花はハッと目を覚ました。
 開いたその目に映ったのは――幻覚だった筈のアヤカシ。
 天井に張り付いたそれが長い長い腕を伸ばし、落花の首を絞めている。
「どうし……て……?」
 絶望に打ち砕かれた希望。
 アレは幻覚? ならば――なぜ感触がある?
「い、嫌ッ! 嫌ッ! 離して、嫌よ! 嫌だ、嫌だあぁああーーーーーーッ!!」
 落花は叫びながら、アヤカシの手を振り解かんと必死にもがいた。
 けれど、駄目だ。万力のようにビクともしない。
「くそ! 離せ、離せ離せ離せ離せ離せ! 私の命はあいつと私のもんだ! お前になんかやらない、離せよぉおお!」
 半狂乱で落花はアヤカシの手を引き剥がす為に爪を立てる。これでもかこれでもかと、爪が割れて折れて血が流れようと、涙を流し錯乱している落花は血だらけの指で抵抗し続ける。
 その間にもソレは指に少しずつ――まるで落花を嘲笑うかのように――力を込めてゆく。
「っ、かふ、あ、嫌ぁ……どうして……なん、で……」
 クスリを飲まなきゃ。酸欠の脳で思った。無駄だ。すぐに諦めた。そして理性は焦燥と恐怖に圧砕される。
 狭まる喉にやがて悲鳴は掠れた呼吸音に成り果てる。
 アヤカシの手を引っ掻いていた両手も、力なく投げ出されて。
(苦しい。息が出来ない)
 暗くなっていく視界。

 苦しいよ。辛いよ。怖いよ。痛いよ。もう嫌だよ。
 楽になりたい。もう怖いのは嫌だよ。

 死ねば楽になるのかな。
『死ねば楽になるんだよ』

 このまま死んだら幸せになれるのかな。
『このまま死んだら幸せになれるんだよ』

 でも――
 でも。
 私の命は。

「お前にはやらない!」

 落花の手の中には、いつのまにか短刀が握られていた。
 ギラリと輝く銀の刃を、落花は力の限り振り下ろす。叫びながら。叫びながら。突きたてた。突き刺した。すると、噴出したのは赤い赤い赤い――血だ。血だ。生温かく、鉄臭い。当たった。殺してやる。落花は刃を引き抜き再び振り上げた。そして何度でも突き下ろす。鮮血。鮮血。抉ってやる。何度でも。殺してやる。殺す。殺す。殺――

「……あ、れ?」

 その時落花は気が付いた。
 辺りを染めていた赤色は、鉄臭さは、生温かさは、全部自分の血だったという事に。
 そして自分が、自分の喉へ何度も何度も刃を突き立てていたという事に。

「ひっ――」


 怖い。







 目が覚めた。飛び起きた。真夜中だった。
「あ、あ……?」
 落花は思わず自分の首に手を触れた。傷はない。血も出ていない。その手に短刀も無ければ、天井には何もいない。
(夢……)
 酷い悪夢だった。なんだ、夢だったのか。未だ残る生々しい恐怖と、夢だったという安堵と、激しい動悸と息苦しさと、頭痛と眩暈。
 どこから夢だったんだろう。そう思って、ぶちまけられた残飯で酷い様相の布団を見、ああ、と呟く。
 深い溜息――落花は暗闇を睨みつけた。
 この命は、幼馴染が救ってくれたもの。
「だから……誰にもくれてやるものか」
 落花は両手で自身の体を抱きしめた。震える体。伝う涙。

 独りぼっちの戦いは終わらない。



『了』



━━OMC・EVENT・DATA━━

>登場人物一覧
落花(ib9561)
WTシングルノベル この商品を注文する
ガンマ クリエイターズルームへ
舵天照 -DTS-
2015年04月27日

投票はログイン後にできます。

ログインはこちら












©Frontier Works Inc. All Rights Reserved.