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『うさぎの檻 』
アルヴィン = オールドリッチka2378


 僕の一日は、寝室を抜けだすところから始まる。
 目覚まし代わりにドアがノックされる前の少しの時間、僕は部屋を抜け出しこそこそと、いい匂いの立ち始める厨房へ向かう。
 厨房の使用人は、僕を見つけると会釈で済ませてくれる。毎朝の事で慣れっこなのかも知れないし、僕に気を使っているだけかも知れない。けれど、そんなのはどちらでも良かった。僕も会釈を返すだけで済ませてくれるのは、有り難い。
 厨房の人達以外には見つからないように、僕はこそこそとする努力をした。理由は、なんとなく。
 きっと、侍女達に見つかっても何も言われないだろうとは思う。けれど僕は、なんとなくそうしていた。
 いい匂いのする厨房の脇を抜けて、裏口から出ると、人目にも付き難い、厩舎への最短ルートだ。大きくはない厩舎の片隅に、大きくはない兎小屋があって、僕はそこを目指す。
 狭い小屋には、長い耳の茶色が一人で住んでいて、彼が天藍石みたいな目で、小さな放牧地の芝生の緑を恨めしそうに見ているので、僕は朝の僅かな時間、彼の話し相手をし、彼の無聊を慰めるのだ。
 ピーターはいない。
 きっと、日中にここを訪れても、ホーランドに遊んでいる暇はないとか小言を頂戴する程度で、止められはしないんだろう。でも僕は、彼と秘密の時間を作るほうが良かった。彼には、小屋を出る自由は無いから。
 小屋の前でしばらく彼と話して、目覚ましのノックがされる少し前に、僕は部屋に戻る。それからベッドに入り直し、目を閉じて、オールドリッチ家の世嗣として、ベッドを出る。

 朝目覚めてから、夜眠りにつくまで、僕のスケジュールは全て決められている。
 貴族として、当主としての教育で埋め尽くされ、それを日々こなすことが、僕の今の全てだった。
 朝食を終えて、午前のまだ陽射しがやわらかい時間は、外で剣を振る。昼食をとって、午後からは座学。礼法から始まり、領内の経営、果てはナイフとフォークの置き方まで詰め込まれる。
 ようやく終わったと思ったら、侍女が寄ってたかって着替えさせ、晩餐の席に着く。父上と、二人だけで夕食の席になったことは、あれ以来無い。いつも必ず誰かがいて、「誰か」が知らない人の割り合いが増えて、それから、昔と較べて父上の配下の人数は減った。
 ベッドに入るまでこの調子で、僕には屋敷を出て、木陰で芝生に転がって昼寝をする自由は、ない。

「考えごとですか?」
 ホーランドに声を掛けられ、僕は顔を挙げた。ぼんやり窓の外を眺めていたのに気づかれたけれど、ホーランドは僕だけを相手に講義をしているので、当然だった。
「このところ、集中出来ておられぬ様子ですが、何か心配事でも?」
「そんなことはありません、陽気がいいので少しまどろみました、ごめんなさいホーランド」
 取り繕って笑顔を作る。すると途端に、ホーランドは両の眉を下げて淋しげな表情になった。
 小さい頃からよく見た、ホーランドの癖だ。取り繕うのはバレていて、哀しそうな顔をする。ウソをつくなと怒るべヴァレンとは対照的だけれど、よく知っている顔だ。
「……そのようなお顔をなさっては、何かあったのかと心配致します」
 ホーランドが何を指して「何か」といっているのかは判らない。けれど、僕の望まない事態はもう過去にあって、それから僕は、こうして作り笑顔をする。
「大丈夫です、講義に戻ってください」
 そうホーランドに告げると、彼はまた淋しげな顔をして、それから授業を再開した。
 僕の身に起こったことをホーランドは知っているから、心配してくれている。けれど、僕はこんなに笑っているのに、ホーランドはそんな顔をするなという。

 ホーランドも、それから母上もべヴァレン達も、エルフハイムの出だという。僕は小さい頃、彼らにエルフハイムの話をせがんだ。
 母上は子守唄代わりに暮らしぶりを聞かせてくれて、べヴァレンは力を付けて自分で見に行けと言い、ホーランドはちょっと困った顔をして、あんまり出入りは出来ないからと、申し訳無さそうにした。
 僕の世界は、母上と暮らしていた別邸と、今のこの屋敷程度で、外の世界といえば、馬車の車窓に流れる緑の景色くらいのものが全てだった。
 エルフハイムはあの森の向こうにあるのかと夢想したし、屋敷の高い壁の向こうにも行ってみたいと思っていた。
 けれど母上の置かれた状況と、オールドリッチの家とをよく理解していなかった、当時の幼心にも、そんなワガママを言える空気じゃないと思っていたし、世嗣という立場が加わった今は尚更だと思っている。
 ホーランドにお願いするくらいならいいのかも知れないけれど、きっとあの哀しそうな顔をするので、口には出さずにいた。
 僕の居場所は屋敷の中だけなのだ。
 けれど、近頃はその居場所も、他人の家みたいになって来ている。
 あの事件の直後、急激に空き部屋が増えて、父上の配下は減った。それから少しして、僕に会いに来る父上の配下が増えた。みんながみんな、ご機嫌はいかがですかと、それだけ聞いて帰る。また少しして、僕に会いに来る人の中に、知らない顔が増えてきた。ご機嫌伺いなのは相変わらずだけど、彼らは皆、オールドリッチ家の軍装の倣いとは違う装いなのだ。けれど、屋敷の外を知らない僕には、それがどこの軍装であるのか、分からなかった。
 居心地は、良くない。

 父上の横で、大袈裟な椅子に座り、跪いて礼をとる誰かの追従を聞いている。僕は、この誰かが喋り終わったら、笑顔を作って、ありがとうあなたには期待しています、とだけ言うことになっている。
 目の前の誰かは、何度か見たことがある。目つきが何を考えているか判らず、僕は嫌いだった。
 誰かが部屋を出てから、僕は立ち上がり、父上におやすみなさいと挨拶をする。
 それから、僕は客が出入りしていたのとは違うドアから出た。ちょうどホーランドがいて、僕が何か言い出す前に、声を掛けられた。
「こちらは使用人が使うドアです、控えて頂きませんと」
「ごめんなさい、座り通しだったので疲れてしまって」
 僕は笑顔を作って、ホーランドの顔を見た。
「言い訳にもなっておりません」
 ホーランドはそう言って、また哀しそうな顔をした。それを見なかったことにして歩き出す僕に、ホーランドは付いて来る。
「若君」
 すぐに背中から呼ばれて、けれど僕は歩くのを止めなかった。
「別邸からお遷りになられて、ご苦労も多かろうとお察しします」
 こうやって、歩きながらお小言を頂戴することはたまにある。あるけれど、少し様子が違う。
「母君は、私めなどを取り立てて、大変目を掛けて頂きました。べヴァレンは気心の知れた盟友でした。その私ですら」
 母のことをホーランドが喋りだしたので、僕はぎくりとして、足を止めるタイミングも、何か言うきっかけも、失ってしまった。
「私ですら、悲しみは拭えません。ですから、心中お察しして余りあります」
 そこまで言うと、ホーランドは少しだけ話すのをやめた。僕は足を止めなかった。
「若君、ですが、そのようなお顔をなさいますな」
 今度は足を止めた。僕の部屋の前まで来ていた。
「母君も、若君にお仕えしていた者らも、若君の苦しげなお顔を見ることは、望んではおりますまい」
「ホーランドも?」
「はい、私めも、同じ気持ちです」
 振り返らずに訊くと、ホーランドはそう答えた。それから、礼を取る気配があって、すぐホーランドの足音は離れていった。
 ぼくはこんなに笑っているのに、彼らはまだ足りないという。

「――前任者から、ご嫡男は感情表現に乏しい、と聞いていましたが。怒りと哀しみを忘れてらっしゃると――」
 それからすぐ、ホーランドは屋敷から姿を消した。
 朝、日課の厩舎横へ出るときに、侍女達がヒソヒソと、政争に巻き込まれただとか、派閥争いがどうのとか話していたのを思い出す。
 つまり、母上の、エルフハイムの伝手は、ぼくを残して、この屋敷から追い出されたのだ。
 ホーランドも、母上も侍従達も、それが愛だと言って、檻を残してゆく。
「――いい笑顔をしておいでです。無理やりに笑っておいでだと、前任のエルフは申していましたが、そんなことはない――」
 目の前の、目つきが何を考えているか判らない男は、新しい傅役らしい。男の話を、ぼくは聞いていない。
 顔を向けて、足りないと言われた笑顔を作って、男の顔のずっと向こうを見ている。
「――あるじたる者、狼狽を見せてはなりません。よいお心がけですぞご嫡男――」
 男の名前は覚えていない。
 ホーランドがどこへ行ったのか、教えてくれそうな人は、もう屋敷には残っていないだろう。
 ぼくの一日のスケジュールは目の前の男に書き換えられ、やがて、厩舎横の、長い耳の茶色に会いに行く自由も無くなった。


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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【ka2378 / アルヴィン=オールドリッチ / 男 / 28 / 聖導士(クルセイダー)    】
【NPC  / ホーランド         / 男 / -- / エルフ        / 傅役  】
【NPC  / ベヴァレン         / 男 / -- / エルフ        / 教育係 】
【NPC  / ピーター          / -- / -- / ネザーランドドワーフ / 親友  】
■WTアナザーストーリーノベル(特別編)■ -
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ファナティックブラッド
2015年05月27日

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