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『水底の揺り籠 』
理心(ic0180)

 天儀歴一〇一五年某日。

 初夏の日差しが燦燦と降り注ぐ。ガランドウの往来。ひとけはなく。
 理心(ic0180)は手入れが疎かな砂利道を踏み締め、顔を上げた。
(やっと、着いた……)
 眼鏡のレンズ越し、彼の紫瞳に映ったのは大きな廃墟。かつては立派なお屋敷だったモノ。腐食し崩れた木の門が、半開きのまま理心を迎えていた。
(……変わっていない)
 放置された年月の分、朽ちてはいるけれど。
 その屋敷は、理心の記憶にある姿の面影をそっくりそのまま残していた。いっそ、不気味なほどに。
 理心は一歩、割れた門の隙間から屋敷へと。
「只今帰りました」
 そう、独り言ちながら。

 その廃墟屋敷は、かつて理心が幼き頃に過ごしていた場所である。
 両親が他界し、身寄りのなくなった彼は親戚一家に引き取られ、彼等の住居であるこの屋敷にやって来たのだ。
 そして理心が十三歳の時、アヤカシにより親戚一家が惨殺されたことで彼はこの屋敷を離れ――それ以来、ここには帰っていない。

 実に十数年ぶりの『帰宅』だろうか。

 記憶を辿りながら理心は荒れ果てた庭を歩いていた。かつては隅々まで手入れがされていたところだが、今は雑草ばかりが生えている。
 理心の足は迷うことなく歩き続けた。
(変わって、いない……)
 細めた目。立ち止まる足。
 目の前には、古びた井戸。

 ――目を閉じる。

 そこは姉が眠る場所。
 過度の虐待を繰り返された己を庇い、死んだ姉。
 記憶に焼き付いて離れないのは、家人により井戸へと捨てられた姉の姿。
 そしてそれを、幼かった理心は、隠れて見ているしかできなかった。

「いるんだろう?」

 呟いた。はやる気持ちを抑えながら。
 すると井戸から現れたのは――理心の記憶そのままの姿をした、彼の姉。濡れた長い髪。生気のない青白い肌。虚ろな瞳。……アヤカシ。
 理心はそれをじっと見つめる。目を離さない。

 そう、あの時――物陰から見ているだけしかできなかった時のように、弟は姉を見つめ続ける。
 けれど、あの時とは違う。もう隠れない。どこかにいったりなんか、しない。

「さぁ、姉様。俺はもう、逃げも隠れもしない。俺はここだ、ここにいる」

 吐く言葉は恍惚と。捧げる視線も恍惚と。強い敬愛。深い愛情。
 理心は手を広げた。まるで愛しい人を抱きしめんとするかの如く。けれどその手にあったのは、不気味な雰囲気を漂わせる呪本が一つ。

 ――『井戸から現れるアヤカシ討伐』。
 それが理心が請けた依頼であった。
 彼はそれに一人で赴きたいとどうしても願い、そして、その望みは果たされる。

 二人きり。
 そうだ、もう……二人ぼっち。二人だけ。

 理心は死霊の式を召喚し、アヤカシの脳内に呪いの声を響かせた。
 けれどアヤカシは顔色一つ変えることなく、濡れた髪をザワリ。腐った藻のような黒髪が四方から男へと襲い掛かり、その身体を深く切り裂く。
 鮮血。理心の衣服に赤いシミが広がる。あちこちに。まるで曼珠沙華。死人花、地獄花、幽霊花の花畑。季節はずれのその花に込められた言葉は、「悲しい思い出」「再会」「想うはあなた一人」……。

「俺が逢いたかったのは……多分、ずっと……貴女だけだったのだろうな」

 滴る血、けれどうっとり目を細め。
 彼はアヤカシ――とりわけ美しい女性型のそれに奇妙なほどの強い敬愛を抱いていた。それを『愛する<殺す>』ことに幸福すら覚えていた。
 その理由は他ならぬ、彼を庇い死んだ姉のアヤカシに助けられたことに起因する。

 そうだ、ずっと、ずっと……理心は姉の姿を、追い求めていたのだろう。
 理心の心、深層心理の奥底にある時計の針は、姉が井戸に捨てられたあの瞬間から止まったまま。
 過去という時計の針に縫い止められた、そのまんま。

 どうして真っ直ぐ帰って来れなかったのだろう。
 思えば随分、回り道をしてしまった気がする。

「貴女はずっと、ここにいたのに」

 再び揺れるアヤカシの濡れ髪が理心を裂き、その首に絡み付いた。
 きりきり。絞まる。酸欠。暗くなる視界。首筋に伝う、赤い川。
 ボンヤリ。無酸素の視界で理心が仰いだのは青い空。青い、青い――。

「ずっと……、独りぼっちにさせてしまったな。すまなかった……」

 暗くて冷たい、水の底。多分、きっと、この酸欠の暗い空に良く似た風景なんだろう。
「辛かっただろう。寂しかっただろう。もう、……大丈夫だ」
 ぽとり。理心の手から呪本が落ちた。指先から、流れた血も滴っている。
 じっと。弟は姉を見る。優しい眼差し。震えながら、伸ばした手。
「もう、俺はどこにも……どこにも、行かないから」
 微笑んだ。言下。その手に握られたのは赤潤の刃。黒い刃に赤い刀紋。
 振るうそれがアヤカシの濡れ髪を断ち切った。理心の首を絞めていた髪が剥がれ落ちる。
 刹那に男はアヤカシへと、一直線に走り出す。
 理心の目に映るのは、彼へ幾本も向かってくる濡れ髪の槍。それは彼の体を切り裂き、突き貫き――それでも理心は止まらない。

 姉様。
 姉様。
 今、行くから。

 腕が一つ、刎ねられた。けれどもう片方の手の刃は離さない。
 飛び散る赤い色。曼珠沙華がまた一つ。最早痛みを感じなかった。
 ガクンと足の力が抜ける。それでも無理矢理、男は走った。ひたすら走った! 愛しい姉のもとへ!

 そして、
 彼は――遂に姉を抱き締める。

「これからはずっと、一緒だ……」

 深く。深く。もう二度と離れないように。
 理心は刃で己ごと姉を貫いた。
 吹き上がる黒い瘴気が二人を包む。
 男の背中から突き出た刃は、二人分の血に塗れていた。
「姉、様……」
 ごぼり、血を吐き出しながら。赤く濡れた彼の唇は、けれど、幸福の形に吊り上がっていて。
 刃を放した片方の手で、彼はアヤカシの髪を撫でる。愛おしそうに……。

 ぐら、り。

 一つになった二人の身体が、揺らいだ。
 傾いたその先には、ポッカリ口を開けた井戸。
 まるで、吸い込まれるように。


 ――落ちる。落ちる。落ちてゆく……


 重力。永遠のように、感じた。
(姉様も、こんな感じだったんだろうか)
 遠ざかる空、澄んだ青。
 我知らず、理心はその手を伸ばしていた。
 遠い丸い空に思い出すのは、小さな二つの背中。
 どうか元気で。いつまでも幸せでいて。自分が出れなかった自由な世界へと進む背中に、理心は小さく笑んで。

 空は、眩しい。
 自分には不釣合いだと、男は視線を空の逆へと向けた。
 迫る、迫る、冷たい水面。暗い水面。
 理心は瞳を見開いた。
 見える。見える。冷たい水面の、暗い水面のその向こう。

「父様、母様……」

 微笑んだ両親。手招いている二人。その背には、嗚呼、懐かしい、幸せだった頃の、自分達の家が、見える。あの頃のままじゃないか。あの頃――なにもかもが幸せだったあの頃。

「……あぁ、これで……帰れる」
 
 あの家へ、家族の元へ。
 今度こそ自分は帰るのだ。姉と二人で手を繋いで、両親の元へ。皆の家へ。
 もう離れ離れになったりしない。
 もう、皆、ずっと一緒だ。
 これからはもう、ずっとずっと一緒なんだ……。

 幸せで。嬉しくて。
 嗚呼、良かった。
 やっと。
 やっと。

 やっと、俺は。

 理心は笑みを浮かべていた。
 そして最後の意識を手放した――暖かな感覚と共に。


「只今帰りました」


 ――男は、幸せな揺り籠に沈む。



『了』




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理心(ic0180)
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舵天照 -DTS-
2015年06月08日

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