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『旅のはじまり 』
翡翠ka2534


 見上げた空にはもう、初夏の気配。
 翡翠は行きつけの食堂で、いつもの窓際の席に座る。
 窓の外には自分ではない誰かの生活がある。
 今の翡翠は――『翡翠』と名乗っている自分は――いつでもそこに出て行って、物売りから何かを買ったり、走り回る子供達に話しかけたりできる。
 当たり前の、けれどかつては遠かった世界。
 けれど混じり合う生活の音は、どこか木々のざわめきにも似ていて。
 ほんの暫くの間、翡翠の思いは故郷へと飛ぶ。


 部屋に満ちるのは香の匂いと静寂。
 集まった村長やその他の大人達は、神妙な顔つきで神の言葉を待ちうける。
 祭壇の前に佇む巫子の、長く豊かな髪に縁どられたまだあどけない面差しは、少女のようだ。
 巫子が動くたびに、白い装束はさらさらと心地よい衣擦れの音をたてる。
「……今年は少し冬が早いようです」
 大人達はその言葉を一言も聞きもらすまいと真剣なまなざしを向けた。
「干し肉の準備は早めに、それから集落の周りの柵の修理を手分けして……」
 巫子は穏やかな笑みを浮かべながら語り続ける。

 生まれたその日に『神の啓示』を受けた村の巫子が後継者に指名してから、翡翠は『巫子』として生きることを定められた。
 物心ついて以来、修行と勉学とお勤めの日々。
 村人皆が彼に傅き巫子と崇めるが、実の両親とも離れて暮らし、友達らしい友達もない巫子の生活。それでも翡翠は自分の境遇を受け入れて来た。
 実際、彼には素質があったのだろう。
 既に師は引退していたが、翡翠の祈祷や占いはずっと村長たちを満足させてきた。
 彼は問われた事に対し、いつも正しく応えることができた。
 悲しい結果を告げたくなくて嘘をつきたい時もあったが、それはダメだと何処かから声が聞こえた。
 他の人にはそれが聞こえないというのだから、彼はまさしく巫子だったのだ。

 村長たちが帰り、神殿の中はしんと静まり返っていた。
「僕は部屋で少し休みますね」
 侍者や巫子見習い達に声をかけ、建物の二階にある自室に戻る。
 翡翠は窓縁にもたれ、外を見た。
 爽やかな風が吹き抜けて行く。
 外からは見えにくいように木立が囲んでいるので、ここでは彼も『巫子』の顔を忘れて物思いにふけることができた。
 この近くで騒ぐ者はあまりいないが、それでも小さな村の小さな神殿である。
 使用人達の話し声や、近くを行き交う人々の声は流れ込んでくる。
 翡翠はそんな声を聞くのが好きだった。

 みんなが『巫子』の前では畏まり、固い表情になる。
 聖別は隔離に似ている。翡翠は時々自分が、既に人としては死んでいるのではないかとすら思うことがある。
 だから遠い夢のように、普通の人々の生活に思いを馳せ、それに少しでも触れたくて耳を澄ます。

 不意に翡翠が窓枠に手を掛け、身を乗り出した。
 切ないような表情で木立の隙間を見つめる。
「見えないなあ……何をしてるんだろう」
 聞こえてきたのは子供の声だった。それもおそらくは、翡翠と同じ年頃の少年達。
 弾けるように笑いながら互いの名を呼びあい、走り回っているようだ。
「誰だろう。もうちょっと近くまで来てくれないかな?」
 だが翡翠の願いはすぐに断ち切られた。
「こらっ! 神殿の傍で何を騒いどる!!」
「少しは巫子様を見習って勉強でもしなさい。お前達と変わらない御年なのに、あんなにしっかりしていらっしゃるんだよ!」
 そんな声に追いやられて、少年達は遠ざかって行ってしまった。
 翡翠は痛い程に掴んでいた窓枠から手を離した。


 ある日のことだった。
 いつも以上に真剣な表情で、村長達が神殿に集まった。
 異世界から現れた巨大な船が漂着し、同盟領の島は大騒ぎになっているという。
「凶事の前触れではないかと、皆恐れております。ご祈祷を」
「わかりました。心を静めてお待ちください。明日にはご神託をお伝えできると思います」
 そう言って翡翠はいつも通りの穏やかな笑みを返す。

 だが翡翠は、誰よりも心を躍らせていた。
 リアルブルーという世界からやってきた人々。島を覆う程に大きな船。人型の機械。不思議な食べ物。
「どんな船なんだろう」
 カラカラの喉から、言葉がこぼれ出す。
「どんな人たちなんだろう」
 そもそも村人以外を見た事がないのだから、翡翠には想像もつかない。
 ただ、彼の鋭い勘が告げていた。
 世界は、変わる。
 彼らの村だけではなく、この世界そのものが変わっていく。
 翡翠の目には混沌が見えていた。
 賑やかで恐ろしく、美しくて醜い。けれどそれは忌避すべきものでは無く、生そのものの姿。
「見てみたいな」
 熱に浮かされたように翡翠が呟く。

 祈祷所をそっと抜け出し、翡翠は自室に戻った。
 本以外はほとんど何もない部屋の片隅に、そっと置かれた箱を開ける。誰かが忘れて行ったきりの、古ぼけたストールが入れてあった。
 翡翠は長い裳裾の巫子の服を脱ぎ捨て、肌着にストールを巻きつけてベルトで形を整える。長い髪を紐で結わえ、古着を裂いてロープを作る。
 それから少し考え、書き物机に向かってペンを走らせた。

『何も不吉なことはありません。全ては良い方向に向かいます。
 けれど見極めたい事がありますので、少しの間だけ巫子の身分は師にお返しいたします』

 そうしているうちに、開け放した窓からは朝の気配が忍び寄っていた。
 翡翠は窓から古着のロープを垂らして、下りて行く。
 だが急ごしらえのロープはあと少しというところで千切れ、地面で腰を打ってしまった。
 それでも痛みと悲鳴を堪え、翡翠は神殿を後にした。


 今でも翡翠ははっきりと覚えている。

 まだ明けきらない空には、細く白い月が見えていた。
 思い切り腕を振り、大地を踏みしめ、どんどん翡翠の足は早くなっていった。
「あは……はぁ……はは、は……!!」
 荒い息を吐きながら笑った。
 なんだか無性におかしくてたまらなかった。
 森は怖かったけれど、それでも何故か笑っていた。
 突然、太い樹の根に躓いて転ぶ。
「うわあ、泥だらけだ……みんな見たらびっくりするだろうな……!」
 そう言って尚も笑いながら、柔らかな草の上に寝転がった。
 大きく息を吸うと、胸一杯に満ちる土の香り。草の匂い。


 あのとき胸の中の神様は、ダメだと言わなかった。
 行きたい所へ行き、やりたい事をすべきだと言ってくれた。
 そう信じたかっただけかもしれない。
 けれど世界の混沌を知ることは、きっと無駄ではないはずだ。
 少なくとも今の翡翠は、本当の痛みや恐れを知っている。
 いつかあの村に帰る日が来て、神様がまだ翡翠の胸の中にいたなら、不安を抱えた人に前よりもきちんと寄り添うことができると思うのだ。
 言われたとおりにご祈祷するだけの、あの頃の自分よりも――。

「でも帰ったら、ものすごーく怒られるかもしれないね」
 小さく笑って翡翠は食後のお茶を飲みほした。
 まだまだ見たい物も、見なければならないことも沢山ある。
 彼の旅は、まだ始まったばかりなのだから。


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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【ka2534 / 翡翠 / 男 / 14 / エルフ / 聖導士】

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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この度は大事なエピソードをお任せいただいて、本当に有難うございます。
膨らませた部分が、ご依頼のイメージから大きく逸れていないようでしたら幸いです。
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樹シロカ クリエイターズルームへ
ファナティックブラッド
2015年06月08日

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