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『水無月の陽 』
青霧・カナエ8406)&ヴィルヘルム・ハスロ(8555)


 日差しの眩しい昼下がりであった。
 季節は6月、そろそろと梅雨前線が近づいても良い頃でもあるのだが、ここ最近は異常気象とも取れる現象が続いていた。
「……暑い」
 思わずの言葉が自分の唇から漏れ出る。
 真夏のような陽の光の下、青霧カナエは一本の道を歩いていた。
 どこかの制服かとも思える、黒に青のラインが入ったベストとジャケット。中のシャツ以外は黒の衣服で身を包んでいる彼には、容赦なく照り付ける太陽が酷なようにも見える。
 歩みを止めて手のひらを額に当て、指を僅かに開いてゆっくりと天を仰ぐ。
 陽光だけで視界が眩みそうだ。
 その、数秒後。
「!」
 トン、と左肩が何かにぶつかった。
 そちらに視線をやれば、大きな紙袋を抱えた背の高い男の影が視界に入り込む。
「す、すみません。お怪我はありませんか」
 男は慌てながらそう言った。
 どうやら抱えている袋に視界を遮られていた為か、カナエの姿を確認出来ていなかったようだ。
 彼が足を止めた直後であった事もあり、その勢いもあったのかもしれない。
「……いえ、こちらは大丈夫です」
 カナエが静かにそう答えた。
 すると紙袋の向こうから覗く姿に、思わず目を瞠る。
 アジア圏では見かけることの少ない、欧州を思わせる整った顔立ち。こんな所で大きな紙袋を持ち、前を歩く人にぶつかるような雰囲気など微塵も感じないオーラを持った男であった。
 茶色の髪に緑色の目。衣服に隠れてはいるがしっかりとした体躯と、長い足。
 実に恵まれた外見なのだろうとカナエは思った。
(……もっとも、『一般人』というカテゴリの存在を、僕が多く知るわけではないですが)
 そんなことを心で呟いていると、男の持った紙袋がかさりと存在を示した。
 釣られるようにしてカナエが顔を上げれば、優しい笑顔が視界の中に入り込んでくる。
「今日は暑いですね」
「……まぁ、そうですね」
 男の予測もつかない言葉の切り出しに、ナカエの眉根が寄った。
 暑いと感じていたことは事実だが、他人に指摘されるほど表に出していただろうかと考えてしまう。
「この先に、私が経営している喫茶店があるんです。宜しければ、涼みにいらっしゃいませんか?」
 唐突の誘いに、カナエは素直にぽかんとした表情になった。水のような青い瞳が一瞬だけ揺れて、直後に瞬きを数回繰り返す。
「すみません。日差しに溶けてしまいそうだな、と思ったものですから」
 男はそう言ってまた、微笑んだ。
「……つまりは、わざとぶつかってきたんですね」
 カナエは思わずそう言葉を発してしまう。
 それでも男は微笑みを崩さなかった。
 日差しは相変わらず容赦がない。そんな中でいつまでも腹の探り合いを続ける事も無意味だと感じた彼は、一つの溜息の後、「では、お邪魔します」と続けて頷いてみせた。

「いらっしゃいませ……おかえりなさい、マスター」
 店に辿り着くと、従業員らしき若い男がそんな曖昧な言葉を並べて表情を歪めた。
 落ち着いた雰囲気の店内と、レトロを思わせる作りの椅子やテーブル。数点置かれた観葉植物が演出を一層彩っている、いかにも『通』が通いそうな喫茶店だとカナエは思った。
「どうぞ、お好きな席へ」
 いつの間にかカウンターの向こう側に入っていた男がそう言った。今更だがまだ名前も知らない。自分も告げてはいないが、ただのマスターと客の間柄であればそのままでもいいのかとも思う。
 そしてカナエは、傍にあったカウンター席へと見を滑らせた。
 日当たりの良いテーブル席のほうには数人の客が収まっていたからだ。
「マスター、例の商会さんからお電話頂いてましたよ。新しい茶葉が手に入ったそうです」
「ああ、そうですか。ありがとう」
「それから……あ、いや、後でいいです。お冷出してきます」
 店の隅でそんな会話があった。
 男と従業員のごく普通の話である。
 従業員が途中で話を止めて、カナエのほうに氷水とおしぼりを運んできてくれた。
「ご注文はお決まりですか」
「あ、あぁ……では珈琲を」
「当店ではサイフォンとフレンチプレスをお選び頂けますが、いかが致しましょうか」
 従業員の無表情、棒読み気味な言葉遣いが多少引っかかったが、目の間に差し出されたメニュー表に視線を落とすとサイフォン抽出とフレンチプレスの説明が図解で乗っていたために、そちらへと興味が持って行かれて数秒悩む。後者のものが気になった。自分の知っている限りでは紅茶に使われるものだと思っていたが、どうやらそうではなさそうだ。
「では、フレンチプレスでオリジナルブレンドを」
「分かりました。それでは、少々お待ちください」
 従業員はオーダー表に書き込みつつ、そう言ってから軽い会釈をしマスターの元へと向かった。
 なんとも言えない、不思議な感覚を覚える存在だと感じた。
「――まだ不慣れなもので、すみません」
 カウンターの向こうからそう声を掛けてきたのは先程の男であった。胸元にネームプレートが付いており、『ヴィルヘルム』と書かれている。
「ああ、そういえば名乗りもせずに不躾でしたね。私はヴィルヘルム・ハスロと申します。この場に店を設けて、やっと半年ほどが過ぎました」
 お湯を沸かし始める音が聞こえた。
 コーヒーカップとソーサーが用意される。
「……カナエです。青霧カナエ」
 シンプルで真っ白な、コーヒーカップ。それを中身の無いまま差し出されたのを見ながら、カナエは自分の名をヴィルヘルムへと告げる。
 数秒後、砕かれた状態の珈琲が入ったフレンチプレスがカウンターの上に置かれた。
「これって、紅茶を入れるときに使うものではないのですか?」
「私も最初はそういうものだと思っていましたが、元は珈琲を抽出するものとして作られたらしいですよ。名前の通り、フランスが発祥ですね。前に置きますから、抽出具合をご覧になって下さい」
 ヴィルヘルムはそう言いながら、ガラスポットにお湯を注いで、それをカナエの目の前に静かに置いた。
 銀色の蓋にはフィルターを下ろすためのつまみが上げられたまま付いており、ポットに被せられる。
「3分ほどお待ち下さいね。カナエさんは珈琲がお好きですか?」
「……僕の場合は、上司が珈琲好きなんです。だから、淹れ方とか味の違いに興味があります」
「そうでしたか。私の店にはこれといった特別なものは無いのですが、少しでもお役に立てたら嬉しく思いますよ」
 フランス発祥と聞いて、らしいなと思いつつ、目の前のポットに視線を移す。
 じんわりとお湯に広がる粗挽きの珈琲豆。
 静かに抽出されていくそれを見ていると、不思議と心が暖かくなるのを感じた。
「アメリカだと、スチームパンク式というものがあるそうです。あとはウォータードリップなどは、地域展開をしているコーヒーショップで見かけますね。砂時計のように落ちる珈琲は、面白いですよね」
「詳しいんですね」
 穏やかな物腰で話すヴィルヘルムを見上げながら、カナエは聞いたことを知識として刻んでいく。
 カナエの言葉を受けたヴィルヘルムは、少し困ったような笑みを作りながら、また唇を開いた。
「お恥ずかしい話ですが、全部、他の方からの受け売りです。私はこういった物には実は疎くて……うちでは紅茶も広く扱っているんですが、そちらの知識も縁のある方から教えて頂いたものなんですよ」
「そうなんですか……」
 だったら何故、とさらに問いたくなったが、カナエはギリギリのラインで言葉を飲み込み、無難な返事をした。
 そして再び、ガラスポットに視線を戻す。
「そろそろ時間ですね。どうぞ、お召し上がりください」
 ヴィルヘルムがそう言った。彼の手元には外された腕時計があり、3分をきちんと測っていたようだ。
 蓋のつまみを底までゆっくりと押し込んでから、目の前のカップに珈琲を注ぎ入れる。
 鼻孔を擽る独特の香りが、今までに体験したことが無く、自然に表情も和らいだ。
「フレンチプレスは豆のオイルも一緒に引き出してくれるので、独自の味わいを一層楽しめるんですよ」
「なるほど……。では、頂きます」
 砂糖は簡素なスティックタイプではなく、陶器に入った角型のブラウンシュガー。ミルクもありふれたコーヒーフレッシュなどではなく、きちんとしたミルクピッチャーが用意されている。
 経験も浅い方で知識も深くないと謙遜はするが、店も人も大事にしているという現れが十分に溢れているのではないか、とカナエは思いながらカップを手にして一口を静かに飲んだ。
 柔らかな甘味をゆっくりと感じ取れる、優しい口当たりの珈琲であった。
 女性にも好まれるようにとブレンドされたものなのかもしれない、と感じる。
 まるで、この店主そのものをイメージしたかのような味だ。
「とても美味しいです」
「有難うございます」
 素直な気持ちでそう告げると、ヴィルヘルムは嬉しそうに微笑みながらの返事をくれた。
 それだけであったが、さらに心が温かくなったような気がした。
「……どうぞ、お茶請けです」
 隣からそんな声とともに、差し出されたものがある。リーフ型のココナッツクッキーであった。
 もちろん、カナエは頼んではいない。
 いつの間に、と思いながら視線を動かすと先ほどの従業員がぺこりと頭を下げて、また離れていくところであった。
「サービスです。妻の焼いたものなんですが、宜しければどうぞ」
 ヴィルヘルムが笑みを絶やさずにそう言う。
 若い従業員と言えば、既にテーブル席へと足を向けて、追加注文を受けていた。
「……不思議な店ですね」
「それでも、あなたの癒しになればと思っていますよ」
 思わずの言葉にも、ヴィルヘルムは優しく答えてくれる。
 穏やかな空気、柔らかい場所と美味しい珈琲。
 一人の温かい店主と、風変わりな従業員のいる店。
 偶然の出会いから生じた出会いと経験であったが、カナエにとっては良きものとなったようだ。
「いつでも、いらしてください。歓迎しますよ」
「有難う、ございます」
 そんな言葉を交わした後、店内の奥にある古い柱時計がボーン、と刻を告げた。
 造りに馴染んだ良い光景だと思う。
 梅雨の気配を遠くに感じる水無月の或る日。
 カナエは季節外れの暑さとともに不思議な出会いをした。
 それが必然となるかどうかは、まだ、解らない。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
涼月青 クリエイターズルームへ
東京怪談
2015年06月09日

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