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『カラフルステップ 』
矢野 胡桃ja2617


 通勤ラッシュを終えて、席に余裕のある電車。矢野 胡桃がいくつかの路線を乗り継いで駅を出る頃には、朝に降っていた雨は止んでいた。
 大きなトートバッグを肩に掛け直し、胡桃は薄曇りの空を見上げる。
 部屋を出た時に感じた厭な湿度は散っており、天気予報に従うなら午後からは無事に晴れとなりそうだ。
「ん、いいお天気、ね」
 水たまりを飛び越え、少女は通い慣れた道を行く。
 慌ただしいビジネスマン、行く宛てはなくても楽しげな若者たちの間を縫って、その足取りに迷いはない。
 同じ年頃の少年少女とは、少しだけ遅い『一日の始まり』。
 赤の他人からは色彩に欠いているように見えるかもしれないが、とっておきに彩られた一日の始まり。




 カララン。
 10時の開店と同時にドアベルを鳴らすのは、いつも決まって同じお客様。
「ご機嫌よう、ヴェズルフェルニル」
「いらっしゃい、胡桃。今日のマフィンはなんだい?」
「バナナとチョコチップ、よ。半分ずつ、ね」
「かしこまりました」
 肩の上でピンクプラチナの髪をふわりと揺らし、小さなお客様はカウンターの端へ座る。
 店ではカラスという名で通しているわたしを、本名の『ヴェズルフェルニル』と呼ぶのは彼女くらいだ。
 それから、手製の菓子を持ち込んで、店内で温めて食べるのも。
「今日も良い匂いだね。なるほど、バナナはキャラメルソテーしてあるのか」
「えぇ。ほんのり苦め。チョコレートの甘さと、よく合うと思うの」
 ――家庭科は得意なの。でも、課題が出ることはすくないから、自習を手伝って?
 悪戯っぽく少女が言ったのはずいぶん前だが、その頃から、こうして何くれとなくお菓子を作っては店で食べ、半分は店主へ差し入れてくれるようになった。
 一度だけ菓子以外にはないのかと訊ねたが、途端に不機嫌になったので、美味ければいいかと納得している。
 マフィンを温めている間に、彼女用にアレンジしたホイップクリームたっぷりのココアを出す。
 鍋でよくかき混ぜて作るココアは、普段なら多少の待ち時間が出来るものだけど、開店ジャストに訪れる彼女にはタイミングを合わせて用意ができる。
「ありがとう。ふーっ、雨上がりだから、体が温まっていいわね」
「そろそろ、夏向けにメニューも増やすつもりだけど、店内は冷房も効かせるしね」
 カップを両手で握りしめ、少女はうっとりしては目を伏せる。
「夏、……ね。あっという間だわ」
(学校は、それまでに一度くらいは行くのかな?)
 わたしは、浮かんだ疑問が愚問であると胸に沈める。
 胡桃が行きたくなったら行くのだろうし、必要が無ければ行かないのだろう。
 中学三年生、15歳。多感な頃。
 登校代わりに喫茶店へやってきて、カウンターで自主勉強をしていく少女。
 気が付けばすっかりと常連となっていた。この空間の大切なピースの一つだろう。
「それでね、ヴェズルフェルニル。聞いてほしいのだけど」
「問題集の答えなら教えないよ?」
「ちがもの。答えじゃないもの。国語でね、例文に使われている小説の――……」
 落ち着いた声音。それから時々見せる、年相応の表情。
 カラフルな胡桃姫のお相手は、案外と楽しいひと時だ。

 


 おかえりなさい。
 まるで、そう言っているかのように感じることがある。
 一日の半分までも行かないけれど、長い時間を過ごす喫茶店。
 思わず『ただいま』と言ってしまいそうになる空気。
 ドアを開けると、甘いココアの香り。何も言わなくたって、カウンターに座ると出て来るクリームたっぷりココア。
 温めてくれる持ち込みのお菓子、他愛ない会話。
 肩ほどの黒髪を首の後ろで一つに結い、分けた前髪から金色の眼をのぞかせる店主は、穏やかな気配の後ろにどこか時折、鋭い空気を忍ばせる人。
 問えば答える、はぐらかすこともある。
 こちらが厭と感じることへは、深入りしてこない。
 接客業の基本なのかなとは思うけれど、それは程よい距離感だった。
 自主勉強のテキストを開く。好きな科目はじっくりと、嫌いな科目は駆け足で。
 理科と数学を爆発させる方法を訊ねてみたら、ヴェズルフェルニルはココアの原材料から仕上げまでの過程を理系的に説明してくれたので、思わずティースプーンを投擲したくなったのも良い思い出。
「――貴方は、どう思う?」
「そうだねぇ」
 開店して30分くらい経つと、一見さん、常連さん、そういった他のお客様の姿も見え始める。
 カフェが、コーヒーやフードの香りや音で彩られ始める。
 濡羽の君は私だけのものではなくなって、その代わり、私はゆっくりと店内を観察する。
 木製のインテリアとダークグリーンを基調としたカラーリングは落ちついていて、耳に馴染むジャズがBGM。
 通りに面して小さなガーデンスペースがあって、そこにはいつも小鳥が羽を休めている。

 街中にあって、どこかひっそりとした雰囲気。秘密の隠れ家。そんな店を見つけたのは偶然だったけれど、きっと私は運がよかった。
『なんでもいいわ、甘いものが食べたい気分なの』
『ココアとパンケーキ、はちみつたっぷり。いかがでしょう?』
 ランチタイムなのに閑散とした店内。
 入り口のボードにはランチメニューが書かれているにもかかわらず問うた私に、彼は愉快そうに答えた。
 その日から、この店のココアは私のお気に入り。

「うん、やっぱり美味しいね。前回とはマフィン生地の配合を変えたね?」
「色々と、試しているの。バナナは水分が多いし、チョコチップだと硬めの食感が合う、でしょう?」
 仕事の合間に、ヴェズルフェルニルは私が作ったお菓子を食べる。ブラックコーヒーと一緒に。
 私は甘いものが好きだけれど、彼の淹れるコーヒーの香りは嫌いじゃない、と思う。
「感想を、聞かせてね。今回は、家庭科のレポートとして提出する予定だから」
「やれやれ、カフェも形無しだなあ」




 通勤ラッシュはとうに終わった。
 ランチに向けて、人々の波が動き始める時間帯。

「おはよう、ヴェズルフェルニル」

 約束をしているわけじゃない。
 それが『決まり』というわけじゃない。
 でも、なんだか、落ちつかない。
 朝一番に扉を開けるのが『彼女』じゃないなんて――……
「やあ、おはよう。いらっしゃい、胡桃」
「父が熱を出して、夜通し看病したけれど下がらなくて、朝、ようやく……それで、えっと」
 肩に掛けているトートバッグはいつもと同じ、だけど膨らみが違う。
 胡桃は申し訳なさそうに視線を泳がせている。『いつもの』ものが入っていないのだとわかった。
「ココアとパンケーキ、はちみつたっぷり。今日は、これでどうかな?」
「……えぇ。それが食べたいと思っていたわ」
 ふわり。花開くように、彩り豊かに彼女が笑う。
 そこでようやく、わたしは『普段通り』に戻ったと感じた。
 約束でもルールでもないのに、気が付けば『日常』へ滑り込んでいた存在。
「敵わないわね、濡羽の君」
「それはどうかな?」
 敵わないのは、どちらだろうね?
 いつも通りにカウンターの端へ座る胡桃を見下ろし、わたしは心の中で肩をすくめた。


 こうして、わたしたちの一日は始まる。

 


【カラフルステップ 了】


━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【ja2617 / 矢野 胡桃  / 女 / 15歳 / 中学三年生】
【jz0288 /カラス(ヴェズルフェルニル)/男/28歳/カフェ店主】

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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ご依頼ありがとうございました。
IF設定でカフェでのひと時、お届けいたします。
楽しんでいただけましたら幸いです。
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佐嶋 ちよみ クリエイターズルームへ
エリュシオン
2015年06月10日

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