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『狼狩り 』
フェイト・−8636)&龍臣・ロートシルト(8774)


 いつ頃から、であろうか。人間が、犬にしか見えなくなったのは。
 もちろん犬は可愛い。テリアも、スパニエルも、ダックスも柴犬も、プードルも、シェパードやマスティフ、雑種の野良も皆、愛すべき生き物たちである。
 だが、人間の形をした犬は可愛くない。
 組織の犬、国家権力の犬。裏通りを歩いていると寄って来て金品をせびる野良犬。その中には、端た金で飼い犬になるような輩もいた。
 そんな愛らしさの欠片もない犬どもを始末するのが、龍臣ロートシルトの仕事である。
 何故、始末しなければならないのか。
 そういった犬どもが、龍臣の主に、汚らしい牙で噛み付こうとするからだ。
 主は、音楽界においては世界的に高名な人物で、楽聖あるいは神童などと呼ばれている。
 それは表の顔で、いくつもの大銀行を配下に持つ、欧州経済界の重鎮でもある。
 命を狙われるのは、日常茶飯事と言ってよかった。
 それほどの大人物が、コンサートを開くためにアメリカ・ニューヨークを訪れた。
 会場を警護してくれたのは、IO2である。
 主を守るのは無論、護衛たる龍臣ロートシルトの任務であるが、IO2による警護は確かに心強かった。
 龍臣に言わせれば、IO2とは、高度に訓練された戦闘犬の集団である。いくら心強くとも、所詮は犬だ。
 犬の群れの中に、しかし1匹だけ狼がいた。
 初対面の際には、お互い和やかに名乗りあっただけだ。
 龍臣が自分の名を言った後、その狼は名乗った。フェイトです、と。
 コンサートそのものは、つつがなく終わった。
 主は今もIO2の、そこそこは頼りになる戦闘犬たちに警護されている。一時的にであれば、龍臣が護衛から離れても問題はないであろう。
 なので、自由時間をもらった。
 ゆっくり羽を伸ばしてくるといい。主のその言葉に、龍臣は甘える事にした。
 主の目の届かぬところで実戦を行い、護衛としての腕を磨く。
 龍臣にとって、羽を伸ばすとは、そういう意味だ。
「神様なんてもの信じた事はないが……もしかしたら、本当にいるのかも知れないな」
 龍臣は呟いた。
 ニューヨークの、特に治安の悪い街並の一角である。
 そこへ、見覚えのある黒いスーツ姿の青年が歩み入って行くのを、見かけてしまったのだ。
 見るからに非力そうな、細身の日本人。
 だが、その黒スーツの下では、そこいらの欧米人アスリートを遥かに上回る身体能力が息づいている。
 ただ歩いているだけの動きからも、それが見て取れる。
 先進国で最も引き金が軽い国の、こんな場所で、フェイトと再会する事が出来た。
 神の存在を信じても良い、程度の幸運ではある。龍臣は、そう思う。
「犬を撃ち殺すのも飽きた……狼を、狩らせてもらうぞ」


 野良犬でも撃ち殺したと思え。
 犬がかわいそうだと思うなら、まあドブネズミでもゴキブリでもいい。
 とにかくだ。人間を殺した、なんて考えてたらIO2の仕事はやってられないぞ。
 とある先輩のエージェントが、そんな事を得意気に語っていたものだ。
 今、フェイトの足元に横たわっているのは、しかし野良犬の死体ではない。ドブネズミやゴキブリの死骸でもない。
 数時間前か、あるいは数日前か。とにかく、かつて人間であったものの残骸だ。
 ニューヨークの、この特に治安の悪い区域で、まさに野良犬あるいはドブネズミの如く生きてきた男である。
 そんな小悪党が、自分の所属していた組織のボスを殺害し、その護衛たちを皆殺しにした。
 押し寄せて来た警官隊を虐殺し、ホームレスや売春婦を手当たり次第に殺して回りながら、ニューヨークの裏通りを彷徨っていた。
 フェイトが駆け付けた時には完全に、人間ではないものと化していた。
 念動力を宿した銃弾のフルオート射撃で、有無を言わさず撃砕するしかなかったのだ。
 おかしな薬物が出回っている、という話はフェイトも耳にしていた。
 常習者は肉体に変調を、と言うより変異をきたし、やがて異形の怪物としか表現し得ぬものに成り果ててしまうという。
 虚無の境界が広めたもの、と言われている。
 そうであるならば、流通を断ち切るのは並大抵の事ではない。
 射殺したばかりの怪物の屍を、フェイトはじっと見下ろした。
 それは急速に腐敗し、腐臭を発しながら干からびてゆく。
 とっさに、フェイトは跳躍した。
 銃声が轟いた。干からびた怪物の屍が、砕け散った。
 路地裏に転がり込みながらフェイトは、左右2丁の拳銃を構えた。
 銃声の起こった方向に、目を向けたりはしない。敵が、いつもまでも同じ場所にいるわけがないからだ。
 自分が敵であれば、フェイトを仕留めるために、この場でどう動くか。
 頭の中で何通りかのシミュレーションを行い、その1つを選択しながら、フェイトは振り向いた。
 崩れかけたビル2棟の間の、路地裏である。片方はより破損がひどく、外壁の一部が完全に崩落し、巨大な穴となっている。
 そちらに向かってフェイトは、左の拳銃をぶっ放した。
 銃弾の嵐がフルオートで迸り、大穴の縁をガリガリと砕く。コンクリートの粉塵が舞い上がり、煙幕を成す。
 だがフェイトは、見逃さなかった。
 大穴から現れ出ようとしていた人影が、それを中止して身を翻し、ビルの内部へと駆け去って行く様を。
 フェイトは追った。
 崩落した外壁の内側へと飛び込み、転がり、身を起こしながら左右の拳銃を周囲に向ける。
 廃墟と化した、ビルの内部である。卑猥な落書きをされたコンクリートの柱だけが、立ち並んでいる。
 どこかに、敵が潜んでいる。
 何者かは不明だが、銃撃を受けた今は、敵と認識するしかない。
 追って仕留める必要など、ないのかも知れない。
 任務はすでに完了したのだ。余計な戦闘は避け、撤退する。それがIO2エージェントたる者の在り方とは言える。
 だが、とフェイトは確信していた。
 逃げた瞬間、間違いなく背中を撃ち抜かれる。
 それは、根拠のない確信ではあった。
 フェイトは、柱の陰に身を潜めた。
 すぐに、そこから飛び出した。
 気配が感じられる、と共に銃声が轟き、コンクリートの柱が火花を散らす。
 ほんの一瞬前まで、フェイトが頭を寄りかからせていた位置である。恐ろしく正確な射撃だ。
 敵の姿を確認せぬまま、フェイトは地面に転がり込み、引き金を引いた。
 左右2丁の拳銃が、轟音を発し、火を噴いた。
 フルオートの銃撃が、何本もの柱を薙ぎ払う。コンクリートが穿たれ、砕け、あちこちで鉄骨が剥き出しになる。
 ひたすら引き金を引きながらフェイトは、信じられないものを見た。
 吹き荒れる銃弾の嵐の真っ只中を、こちらに向かって悠然と歩いて来る人影。
 もう1人の自分。フェイトは一瞬、そんな事を思った。
 東洋人の、若い男である。髪は黒く、着用しているスーツも黒い。
 日本人のように見えるが、瞳は青い。もしかしたら混血かもしれない。
「龍臣……ロートシルト……!」
 フェイトは名を思い出した。
 数日前、とある人物の護衛任務で知り合った男である。
 あの人物が、まさかフェイトを始末するよう命令でも出したのか。
 問いただしたところで答えてくれるはずもなく、龍臣ロートシルトは微笑んでいる。
 青い瞳は、しかし笑っていない。殺意に等しい闘志を漲らせ、禍々しく輝いている。
 そんな龍臣の全身あちこちで、黒いスーツがちぎれた。微量の鮮血がしぶいた。
 フェイトのぶっ放す銃撃の嵐が、龍臣の身体をかすめ、だが直撃はせず、虚しく吹き荒れる。
 フェイトがわざと外している、わけではない。
 龍臣も、かわしている、ようには見えない。
 銃弾の通り道を、あらかじめ知っていて、最初からそこを避けて歩いている。そんな様子だ。
「まさか予知能力……いや、弾道を見切ってる!?」
 フェイトは銃撃を止め、横に跳んだ。
 龍臣の右手で、拳銃が火を噴いたのだ。
 横に跳んでかわした、はずのフェイトの左腕から、鮮血が飛び散った。
 深刻な負傷ではない。二の腕の肉が、いくらか削り取られただけだ。とは言え、少しでも位置がずれていたら、心臓を撃ち抜かれていたところである。
 フェイトが横に跳ぶ事を、計算に入れての射撃。
(格が違う……俺みたいな、フルオートの数撃ちゃ当たる射撃とは……)
 そう思っても、しかし数任せの射撃を止めるわけにはいかない。
 左腕の痛みに耐えながら、フェイトはひたすら引き金を引いた。
 銃撃の暴風が、虚しく吹き荒れる。龍臣の姿は、すでにそこにはない。
 左の拳銃が、虚しい音を発し始めた。弾切れである。
 グリップから、空になった弾倉が排出される。
 右の拳銃を油断なく構えたまま、フェイトは念じた。
 スーツの内ポケットから、小さな箱型の物体が飛び出し、浮遊する。予備の弾倉。
 それが念動力によってグリップに差し込まれる、寸前で火花を散らし、弾け飛んで行った。銃声と同時にだ。
 龍臣が、少し離れた柱の陰からユラリと姿を現し、引き金を引いたところだった。
 その拳銃が、もう1度、火を噴いた。
 フェイトの右手を、衝撃が襲った。油断なく構えていたつもりの拳銃が、撃ち落とされていた。
 弾倉の入っていない拳銃が、左手に残っているだけである。もはや丸腰も同然だ。
 龍臣が躊躇なく、引き金を引いた。
「……ズルさせて、もらうぞ!」
 フェイトは叫び、念じた。両眼が、エメラルドグリーンの光を発する。
 龍臣の銃弾が、フェイトの顔面に突き刺さる寸前で止まり、跳ね返り、どこかへ消えた。
 念動力の防壁に、跳ね返されていた。
 眼前で散った火花を睨みながら、フェイトは左の拳銃を真横に向けた。弾倉の入っていない、拳銃をだ。
 龍臣ロートシルトが、そこにいた。
 一体どのような身のこなしで回り込み、距離を詰めてきたものか、全く見当がつかない。
 とにかくフェイトの拳銃は、龍臣の顔面に突きつけられている。
 龍臣の拳銃は、フェイトの側頭部に押し当てられている。
「こんな言葉は使いたくないが……」
 龍臣が言った。
「……引き分け、だな」
「……俺の銃には、マガジンが入っていないんだぞ」
 フェイトは呻いた。
「このまま2人同時に引き金を引けば、俺だけが死ぬ……あんたの勝ちだよ」
「うまい具合に、こっちも弾切れでな」
 龍臣は笑った。
「弾の入っていない銃など、武器としては棍棒以下……一方お前は、弾の入っていない拳銃でも人を殺せる。違うか?」
 フェイトは、睨んだ。
 確かに、このまま念動力を銃弾として撃ち出す事は、不可能ではない。
「いわゆる能力者って連中と戦ったのは、初めてじゃあない」
 龍臣が、拳銃を下ろした。
「だが、お前ほどの奴はいなかった。いい実戦訓練、させてもらったぜ」
「……そのために、俺を殺そうとしたのか」
「お前を試したかった。俺の力も、試してみたかったのさ」
「冗談きついよ……ま、冗談じゃなかったのかも知れないけど」
 フェイトは、溜め息をついた。
 龍臣は、すでに背を向け、歩き出している。
「フェイトとか言ったな。お前、この国に来て何年くらいになるのかは知らんが……アメリカ人の戦い方に、すっかり染まっちまってるなあ」
 振り向きもせず、龍臣が言う。
「質より量……無駄弾を、撃ち過ぎだ。だからすぐに弾切れを起こす」
 彼の右手で、拳銃から何かがイジェクトされた。
 弾切れを起こしたはずの拳銃から、空薬莢が排出されていた。
 それを龍臣が、親指で弾く。
 弾かれ、飛んで来たものを、フェイトは右手で掴み止めた。
 空薬莢、ではなかった。未使用の拳銃弾である。
 フェイトはそれを、握り締めるしかなかった。
 龍臣ロートシルトが、本当に自分を試すだけのつもりであったのか。あるいは殺すつもりであったのか。最後の最後で、思いとどまってくれたのか。それはわからない。
 そんな事は関係ない、とフェイトは思った。認識せざるを、得なかった。
「要するに、俺は……死んだ、って事か」 
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2015年07月10日

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