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『はじまりのダンス 』
矢野 胡桃ja2617


 この路線を使うのは、随分と久しぶり。
 ほんの少し高い建物の増えた街並みが、車窓に流れてゆく。
 矢野 胡桃は、ほんの少し昔のことを思い出し、自然と口元に笑みを浮かべていた。

 雨上がりの空気。虹のかかる空。
 あの頃は色んなものが曇って見えた。その中の、数少ない『彩り』へ、逢いにゆく。
「ん、いいお天気、ね」
 そう呟く言葉は当時と同じだけれど、年月を重ねた横顔は、大人の女性のそれだった。




 懐かしい道を辿る。
 学校へ通うことを拒否していた頃、そこで自主勉強をするのが密かな楽しみだった。
 軽やかなステップ、足跡にはまるで花が咲くかのよう。
(たぶん)
 当時の感情に名前を付け、音にはしないで、胡桃はゆっくりゆっくり、歩いていった。


 時の流れはめまぐるしく、少女の腕を引いてゆく。
 中等部から高等部へ、大学、卒業、就職……
 大切な場所だったのに、気づけば遠ざかってしまっていた。

『おかえりなさい』
 
 ふと、声が聞こえた気がして、胡桃は足を止める。
 ガーデンスペースで羽を休めていた小鳥たちが、さえずりと共に晴天へ羽ばたいていった。
 ――変わらない。
 変わらない、あの頃と。
 優しいグリーンに彩られたカフェ。
 入り口のブラックボードには本日のランチメニュー。
 木製のインテリアとダークグリーンを基調としたカラーリングで落ち着いた佇まいは、少しだけ、年月相応に古びているだろうか。

「ご機嫌よう、ヴェズルフェルニル」

 いつかのいつものように、胡桃は扉を開け、店主へと呼びかけた。
 カララン。ドアベルの音も、変わることなく。


 金色の眼の店主は、憎らしいほど変わりがない。
 記憶の中そのままの姿、濡羽色の髪を首の後ろで結い、黒シャツにダークグリーンのネクタイとカフェエプロン姿で胡桃を振り向いた。
 ヴェズルフェルニルと呼ばれたその人は、目を見開いたのも一瞬で、すぐに笑顔を作る。
「カウンターへどうぞ。美味しいココアを淹れましょう」
「それからパンケーキ、ね。はちみつたっぷり、バニラアイスも」
 通り名のカラスではなく、本名であるヴェズルフェルニルと彼を呼ぶのは、相変わらず胡桃だけなのだろうか。
 店を満たすコーヒーの香り、ココアを煮立てる香りが、歳月の壁を溶かしていった。




 嬉しいことがあったのかい。
 パンケーキを焼きながら訊ねるヴェズルフェルニルの声は優しい。
「あら、どうして?」
 思い返せば、社会人になって以降も胡桃がここを訪れる時は気持ちが沈んでいることが多かった。
 温かいココアと甘いパンケーキで、ぐずぐずの心に元気をもらった。
 頻繁に来れなくなった時だって、へこたれそうになったらカフェへ足を運んだ。
 元気をもらう。勇気をもらう。
 笑顔を取り戻して、胡桃はカフェを後にする。
 最後に訪れたのはいつだったか……
 ことん。
 辿る記憶を止めるように、カウンターへ蜂蜜の入ったボトルが置かれる。
「胡桃は、顔に出るからね」
「……そうかしら」
「何年の付き合いだと思っているんだい。こーんな小さなときから見ているんだよ」
「そこまで子供じゃなかったわ」
 自身の腰のあたりを手で指し示すマスターへ、常連客は頬を膨らませた。
「でも…… そうね。長いのよね……。7年くらいになるのかしら」
 自分を偽ることなく素をさらけ出せる、数少ない憩いの場所。
 深入りするでなく、突き放すでなく、見守ってくれていたマスター。
「ふふ。あのね、ヴェズルフェルニル」
 ココアのカップを受け取って、ふわふわ浮かぶ生クリームを見つめながら、胡桃は言葉を続ける。

「私、ね。明日、結婚するの、よ」
  
 どうしてか、喉の奥に何かがつかえたような感覚。緊張している?
「……それは、……おめでとう」
 パンケーキの皿を差しだすヴェズルフェルニルも、さすがに驚いていた。
「知らなかったな、そんな良い人がいたなんて。連れてくればよかったのに」
「いやよ。ここは、私だけのお気に入りだもの」
「それはそれは」
 大切な人が居ても、特別は変わらない。
 そう言われて悪い気はしない、マスターは笑う。
「胡桃姫が永遠を誓ったのは、どんな男性だろうね。泣かせるような男だったら、お兄さんが殴ってあげるのに」
「父は既に殴ったわ」
「さすが」
 話にしか聞かない胡桃の父という人は、それはそれは子煩悩。
 胡桃も、父をとても大切にしている。
 そんな二人のこぼれ話を、ヴェズルフェルニルはいつだって楽しげに聞いていた。
「……気づいていたかもしれないけれど。時効だから、話すわね」
 バニラアイスをスプーンですくい、ひんやりした甘さを堪能してから胡桃はちらりとカウンター向こうのマスターを見上げた。
「私の初恋は、貴方だったのよ?」
「おや」
「……そうやって、しらじらしい」
「『初恋』だとは思わなくってね」
「もう!」
 視線には気づいていたと、マスターは肩をすくめては笑う。
「子供なりに……一生懸命だったのよ?」
「子供だったからね。すぐに冷めると思っていたよ」
「……意地が悪いわね」
「今更?」
 知っていただろうに。
 ええ、知っていましたとも。

 談笑する二人の後ろ、ガラス窓の向こう側。ガーデンスペースへと小鳥たちが羽休めに戻ってくる。
 穏やかな昼下がりは、ゆっくりと時を刻んだ。
 



 『特別』が、あったわけではなかったかもしれない。
 ただ――
 子供扱いをする一方で、きちんと話を聞いてくれるとか。
 手が届きそうで、ひらりとはぐらかされるとか。
 追掛けても、きっと縮まらないだろう見えない距離だとか。
 色んなものが曇って見えた少女にとって、彼の存在は貴重な彩りの一つだった。
 どきどきしたし、やすらぎもした。時には怒った。
 薄らぎがちな感情を、くるくる、ダンスのように引き出してくれた。

(憧れに近い、初恋)
 
 名前を付けるなら、そうなのだろう。
 宝石箱にしまっておきたい、大切な感情の一つ。

「落ちついたら、いつでも遊びにおいで。お腹の子も一緒にね」
「!!!」

 いつもの笑顔で、彼は見送る。
 いつものように、『ヤラレタ』と彼女は振り返る。


 そしてまた、いつの日か、いつものように、この店を訪れるのだろう。きっと、小さな手を引いて。
 胡桃は初恋の場所を後にして、はじまりの一歩を踏み出した。




【はじまりのダンス 了】


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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【ja2617 / 矢野 胡桃  / 女 / 明日は結婚式】
【jz0288 /カラス(ヴェズルフェルニル)/ 男 /カフェ店主】

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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ご依頼ありがとうございました。
ジューンブライドの前日のお話。ここだけのお話、お届けいたします。
楽しんでいただけましたら幸いです。
水の月ノベル -
佐嶋 ちよみ クリエイターズルームへ
エリュシオン
2015年07月24日

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