『● 』

ザラーム・シャムス・カダル（ja7518）

　ぼう……。
　光の差す音すらも聞こえるような静けさだった。
　この瞬間を数えるのも何度目だろう。
　覚えている限りで、耳にした音はいくつだろう。
　光の音、衣擦れの音、食器の音、自分の――そして誰かの足音、呼吸の音。
　一番耳障りなのは、鎖の音だ。
　重い。重苦しい。体は簡単に動くのに、この手枷が、足枷が、鎖が、重くて重くてたまらない。
　いつしか腕は擦り切れ血は滲み、苦痛だけがこの身を現世に留めているのだと教えてくれる。
　暗く冷たいこの場所で、ただこの身がここにあることだけを確認できたとしても、そこにどんな意味があるのかは理解できない。生きているという感覚すら、うっすらとしたまどろみのようだ。
　妾は、いったい誰？
　どうしてここにいるの？
　分からない。分からない。分からない……。

●
　カダル家に子が生まれたとの知らせは瞬く間に広がり、親戚一同盛大に祝福した。
　まだ目も開かぬ赤子は、女の子だという。シャムスの子であるから、その名を継ぐ最初の子となる。
　どのような名が良いか、様々な案が浮かんでは消え、この赤子の将来を占う大事な名を決めることを、誰もが楽しんでいた。
　いくつかの有力な候補が上がったまま最終決定にはなかなか至らず、一週間ほどが過ぎた。
　初めて子を産んだ母親は、無事に我が子を授かることができたと神に感謝する日々。
　赤子が泣く度に、何もかも放り出してあやす。そんな時間が、苦労に尽きないとはいえ幸せだった。
　その日。深夜に赤ん坊が泣いた。
　お腹が空いたのだと、母親経験が短いなりに直感できるようにはなっていた。
　重たい瞼を擦りながらも、愛する我が子を腕に抱き、乳房を露わにする。
　旦那はほんの一瞬覚醒したようだったが、知らぬフリをして枕に顔を埋めている。
　そんな様子に嘆息したのも束の間。
「あ゛……ッ」
　激痛。
　我が子の吸い付いた乳房に、感じたこともない熱を感じた。
　それは次第に強くなり、このままちぎれるのではないかと思わせるほど。
　まだ前歯も生えていない我が子が、恐ろしい力で乳房を吸っているのだ。
　耐えかねた母は、夫シャムスを起こし、助けを求める。
　一度引き離した方が良いだろう、とシャムス。我が子に手を触れようとした瞬間。
「なッ」
　振り払われたのだ。
　赤ん坊のそれとは思えない、屈強な男に叩かれたような痛みだ。
　いったい何が起こっているのか。
　この日だけの、不思議なできごとであった。

　と、済ませられたら良かったのだが。
　同じようなことは何度も続き、人の子ならざる力を発揮する赤ん坊。やがて両親をして「この子は悪魔だ」と考えるようになった。
　彼女の名はザラーム。ザラーム・シャムス・カダル。
　闇を名として与えられた、哀れなる力の持ち主。

●
　ある日、声を聞いた。
　ここにお姉ちゃんがいる、とか、そんな言葉だった。
　妾のことだろうか。妾には、弟や妹がいるというのだろうか。
　何故聞こえたのかは、分からない。
　ただ、閉ざされた牢の中に食事が放り込まれたのは、その直後だった。
　見たこともない弟妹が、妾の存在を知って、近くまで来たのだろうか。……分からない。
　だけど確信した。
　外には、世界がある。妾の知らないことがたくさんある。たくさんの人が生きている。
　何故ここにいなくてはならないのか？
　何故外に出ることができないのか？
　そんなことはどうでもいい。
　そんな理由など関係ない。
　天窓から差し込む光に手をかざし、願った。
　外へ出たい。外の世界を知りたい。外の人々に出会いたい。
　ここではないどこかへ、ここ以外のどこかへ。こんな窮屈な場所から解放されたい！
　じゃらりと鎖が鳴る。
　肌を滑る枷が傷を抉る。
　その痛みも、その重みも、何もかも放り投げて、ただ強く、強く強く願う。
　外はいったいどんなところなんだ、どんな人がいるんだ、ここよりももっと明るいのか、ここよりもずっと暖かいのか。
　教えてくれとは言わない。この目で見たい。この肌で感じたい。
　誰でもいい。どんな条件でもいい。
『そうか。外へ出たいか』
　声だ。
　誰かが妾の声に応えた。
　弾かれたような心地で、見まわす。天窓、壁、格子、床……誰もいない。
　無造作に置かれた手つかずの食事だけが置いてある。
『生涯この食事を受け入れるつもりはないのだろう』
　どこから聞こえるのか、分からない。
　夢でも見ているのかと思った。それにしては、あまりにも鮮明に、声は響く。
　恐怖を感じないでもない。この不思議な感覚に対して、そして外に出ることに対して。
　渇望したというのに、外に出ることを今更恐れている。
　五感を全く刺激しない食事に、未練はない。けれど、外の食事はいったいどんな味なのだろう。果たしてそれを受け入れることができるのだろうか。
　否。そんな不安を抱えたまま、幻想に縋って生きていく。そちらの方がよっぽど怖い。
　そう思った。
『ならば、我が名を口に、約束せよ。ここには飽いた。我に娯楽を与えよ』
　声は妾の心を見透かすように、語り掛けてくる。
　娯楽？　それなら、いくらでも探してみせよう。
　それこそ、妾の求めるもの。手にしたいものに他ならないのだから。
「楽しみにしておれ、おぬしがドン引きする位の娯楽とやらをくれてやる」
　不意に笑みが漏れた。
　今、何を以て娯楽とするのかイメージできるわけではない。
　しかし確信はある。満足のいく……いや、満足の域を越え続ける、最上の娯楽は、必ず見つかると。
　さぁ、目覚める時だ。自由を求め、耳打ちするこの悪魔の名を、口に。
「『ダウゥ』」

●
「んーっ、よう寝たのう」
　朝日の眩しさに、ザラームは大きく伸びをした。
　いくらか心がスッキリしたような目覚め。集めに集めた安眠グッズのおかげだろうか。
　いつものごとく、外は朝から賑やかだ。
　光の差す音は、聞こえない。

■ＷＴアナザーストーリーノベル（特別編）■

追掛二兎

エリュシオン

2015年10月13日