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『なじかは知らねど、心わびて 』
弥生・ハスロ8556)&八瀬・葵(8757)


「ああ安心してね。こんな人気のない所に、若い男の子を連れ込んで……いけない事しようってワケじゃないから」
「はあ……」
 とりあえず、そんな返事をするしかないまま、八瀬葵は周囲を見回した。
 倉庫、のようである。
 コンテナらしきものが、いくつか置いてある。中身が入っているのかどうかは、わからない。
 自分は今、雇用主の奥方である女性と2人きりで、こんな静かな寂れた場所にいる。
 落ち着かなかった。
 もちろん奥方本人の言う通り、大恩ある雇用主を裏切るような事をしようというわけではない。雇用主本人も了解の上で、奥方は自分をここに連れて来たのだ。
「この倉庫はね、私の知り合いの持ち物なの。ちょっと頼んで、貸してもらったんだけど」
 弥生・ハスロ。葵が働いている喫茶店の、マスターの奥方である。
「最初に言っておくわね。これは葵君のためにやる事じゃあないから。私が魔女として……葵君を、ちょっとした黒魔術の実験台にしようとしているだけだから」
 葵をじっと見つめたまま、弥生は言った。
 黒い瞳の中で、葵は何やら落ち着かなげにしている。相手の目を見て会話をするのは、やはり苦手だ。
「結果、葵君の身に……何か良い事が起こったとしても感謝してくれる必要はないし、悪い事が起こったら恨んでくれればいいから。これはね、私が私のためにやっている事」
「は……はあ」
「魔女としてはね、葵君みたいな子を放っておくわけにはいかないのよ。ちょっと意地になっちゃってるかもね、私」
「改めて……お世話になります」
 葵は、頭を下げた。
 弥生は、自身の事を魔女と言う。彼女は確かに時折、魔法としか言いようのない力を、葵の目の前でも使って見せる。
 何やらわけのわからない生き物を、使い魔として召喚した事もある。
 黒魔術、であるらしい。独学で修得したものであるという。
 弥生が、葵の歌と言うか能力を、黒魔術方面から解析してくれる事になったのだ。
 災いをもたらす歌。それが本質的に、いかなるものであるのかを、自分は知らなければならない。
 もちろん、知ったところで贖罪にはならない。償いなど、出来るわけがないのだ。失われた命は、何をしても戻っては来ない。
 だが、と葵は思う。愚かな期待である事は、わかっている。
 弥生が解析してくれた結果、救う手段が見つかるかも知れない。何かの糸口は、掴めるかも知れない。
 心を壊され、ぼんやりと歌を歌う事しか出来無くなってしまった彼女を、救う手段の糸口が。
 そんなものが見つからなかったとしても、その結果を自分は受け止めなければならない。
(俺が……自分で、向き合わなきゃならない……)
「じゃあね葵君。ちょっと、この真ん中に立ってくれる?」
 床に、謎めいたものが描かれている。奇怪な図形や数字や判読不能な文字を内包した、直径数メートルの真円。
「いわゆる魔法陣よ。心配御無用、葵君を生贄に悪魔を呼び出そうってわけじゃないから……ただね、ちょっと嫌なものを呼び出しちゃうかも知れないけど」
 弥生は言った。
「それも魔界から、とかじゃなく……君の中から」
「俺の……?」
「これはね、時を遡る魔法陣……っていうのは大げさだけど、キミのご先祖様にアクセスする程度の事は出来るわ。葵君の歌、もし呪いの類なら、何代も前から受け継いだものである可能性が高いと思うの」
 自分の先祖になど、思いを馳せた事はない。
 まず、父親に嫌われていた。祖父母に関しては、父は葵に何も語ってくれなかった。
 祖父母の前に、どのような人々がいたのかなど、知る由もない。
 ただ、懐かしい誰かはいる。
 兄と呼ぶ青年がいた。葵の記憶の中で、彼と一緒に誰かがいる。
 祖父、ではないだろう。その人は、よく思い出せないのだが、少なくとも老人ではなかった。
 大人ではない、ような気がする。今の葵よりずっと年下の、少年ではなかったか。
「まず、葵君のルーツを探らせてもらおうと思うの。結果、ちょっと嫌なものが出て来ちゃうかも知れないんだけど」
「……構いません。何が出て来ても、俺は……そいつを、しっかり見据えてやらなきゃいけないと思ってます」
「そう……じゃ、歌える?」
 弥生が何を言っているのか、葵は一瞬わからなくなった。
「え……歌う、んですか……?」
「キミの歌を解析するわけだから、歌ってもらわないと」
 一瞬の沈黙の後、葵は言った。
「弥生さんは……知ってますか? 俺の歌を聞いたら……」
「大丈夫! 何てったって魔女だもの」
 弥生は、にっこりと笑った。
「だから頑張って……好きな歌、歌ってね。葵君の負担にならないように、なる早で終わらせて見せるから」
「……好きな歌、ですか」
 歌わなければならない曲は1つしかない、と葵は思った。
 好きな歌、であるはずがない。
 だが自分が向き合わなければならないのは、まずは、この歌とだ。
 葵は、目を閉じた。
 音源も機材もない。頭の中で、イントロを流すしかなかった。


 好きな女の子が、自分ではない男と結ばれた。
 それを祝福している。本当に、くどいくらいに祝福している。
 祝福の根底にあるのは、未練だ。弥生は、そう感じた。
 未練が、憎悪へと至る、その1歩手前の危ういところにある心を、葵は歌っている。
(これは……一般受けしないわ。だって恨み節に近いもの)
 そんな事を思いながらも、弥生はつい聞き入っていた。
「……っと。いけない、いけない。私は私で、やる事やらないとね」
 1つ咳払いをしてから、弥生は念じ、唱えた。現在ある地球人類の文字では表記不可能な言葉をだ。
 歌い続ける葵を囲む魔法陣が、淡い光を発する。まるで舞台装置のように。
 その光の中で、たおやかな人影が揺らめいた。葵の影でも、弥生の影でもない。
 倉庫に、誰かが入って来たのか。誰も入れぬよう、魔力で施錠してあるはずなのだが。
「……誰!?」
 弥生の声に、その人影は何かを答えた、ように見えた。
 聞き取れない。どうやら、外国語だ。そして女性の声である。
(これは……ドイツ語?)
 今のところ人影としか認識出来ない、その女性が、弥生に向かって微笑んだ……ように見えた。
 葵は、ドイツ語などではなく日本語で歌っている。
 いや、本当に葵が歌っているのか。弥生はふと、そんな事を思った。
 歌っているのは、今は人影でしかない、その女性ではないのか。
 彼女が今、八瀬葵の口を借りて、強烈な未練を歌い上げているのではないのか。
 ある伝説を、弥生は思い出した。
 その伝説を詠った詩を、口ずさんでみる。
「漕ぎゆく舟人……歌に憧れ、岩根も見やらず……」
 その少女は、恋人に裏切られてライン川に身を投げたという。
「仰げばやがて、浪間に沈むる……人も、舟も……」
 そして川の妖精となり、岸壁に佇んで髪をくしけずり、歌を歌うという。
「くすしき魔が歌……謡う……」
 その美しい歌声を聞いた者は、ことごとく遭難し、ライン川に沈んだという。
「大切な人に、裏切られて……だけど、その人への未練が捨てられない。それは、よぉくわかったわ」
 ドイツ語らしきものを話す女性に、弥生は日本語で語りかけた。通じようが通じまいが、これだけは言っておかなければならない。
「……そんなものに、葵君を巻き込むのはやめなさい」
 人影でしかない女性が、こちらを見た。弥生は、はっきりと眼光を感じた。
 眼光を灯す人影が、ゆらりと動いた。人影が、人影ではなくなりつつあるのか。
(……出て来る? まさか……)
 弥生は半歩、後退りをした。
 戦いになるのか。
 戦いになったとしたら、下手をすると葵に向かって攻撃魔法を放つ事にもなりかねない。
 弥生がそう思った瞬間。何かが、視界の片隅で翻った。
 和服、のように見えた。茜色の、着物であろうか。
 着物に細身を包んだ何者かが、ふわりと弥生の方を振り向いた。
 顔は、よく見えない。
 戦いを、止めようとしている。弥生は、そう思った。
「葵君……!」
 弥生は、駆け寄った。
 葵の細い身体が、揺らいでいる。
 よろり、と倒れかけたその細身を、弥生は支えた。
「あ……弥生さん……」
 我に帰ったかのように、葵が弱々しい声を発する。
 消耗している。
 やはり、あの人影の女性によって、歌わされていたのであろうか。
「葵君、大丈夫!?」
「弥生さんこそ……」
 葵は言った。
「俺、この歌……あの時と、同じような気持ちで歌ってました……歌ってるうちに、あの気持ちになっちゃったんです……」
 この歌を、葵は動画サイトに投稿した。
 それを聞いた人々が、様々な不幸に見舞われた。怪我人や死者も出た。
 その中に、葵の個人的な知り合いもいた。
 全て弥生が、葵本人の口から聞いた事である。
「俺が、何か気持ちを込めて歌を歌うと……良くない事が起こるんです……弥生さん、大丈夫ですか?」
「私は平気。だけど普通の人が聴いたら……ちょっと、やばかったかもね」
 言いつつ、弥生は見回した。
 茜色の着物を着た誰かも、眼光を灯す人影だけの女性も、いなくなっている。消えた、と言うより最初からいなかったかのように。
 葵が、どうにか自力で立っていられる事を確認しながら、弥生は顎に片手を当てて思案した。
 死の歌を歌う、ライン川の妖精。
 あの人影を見た自分が何故、その伝説を思い浮かべたのかは、上手く説明出来ない。直感、としか言いようがない。
 ともかくライン川に身を投げたのは、少女である。乙女である。伝説が正しければ、恋人に裏切られて未婚のまま死んだのだろう。
 子孫など、残してはいない。血統がこの世に残っているはずはない。
 だが何者かが、ライン川の妖精となったその少女から、禍々しい力を受け継いだのだとしたら。
 葵の代にまで、受け継がれてしまったのだとしたら。
「あの、弥生さん……何か、視えましたか……?」
 葵が、当然の問いかけをした。
 弥生は答えられなかった。根拠に乏しい仮説の段階である。軽々しく口に出来る事ではない。
 1つだけ、弥生は言った。
「葵君はね……守られてるわよ」
 茜色の着物に身を包んだ、誰か。恐らくは女性。
 彼女は間違いなく、八瀬葵を護っている。
「キミを護ってくれている人がいる。だから……安心して、って言うのは変だけど」
「俺を……」
 葵は俯いた。
(キミは1人じゃない、だから頑張って、負けないで……なぁんて言えたらいいんだけどね)
 弥生は頭を掻いた。
 そんな無責任な事を言う前に、もう少し解析を進めるべきであろう。
 八瀬葵の先祖に、ただならぬ何者かが存在する事はわかった。
 八瀬家の血統を、詳細に辿ってみる必要がある。
 辿った先に、存在するかも知れないのだ。あの人影の女性が。
 ライン川の妖精から『くすしき魔が歌』を受け継いでしまったのかも知れない何者かが。
(ただ、ね……葵君って確か御家族の方と、うまくいってないのよねえ……)
 夫から聞いた話である。特に父親に、ひどく嫌われているらしい。
 葵本人の口から、八瀬家の血統に関して何か聞き出す事は、どうやら出来そうにない。
(葵君の……お祖父様にでも、会えればね……)
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東京怪談
2015年12月07日

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