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『痛みの螺旋に揺れる面影 』
(ib8931)

 馨(ib8931)がその酒場を訪れたのは、ひどく久しぶりの事だった。
 もっとも、酒場、と言ってもそれはあくまで表向きの話。五行の外れにあるその店は、裏では馨のような後ろ暗い生業に手を染める者たちを相手に、依頼を斡旋する仕事場でもある。
 その、裏と表の顔を持つ、けれども表向きは確かに酒場に過ぎないその店は、だから酒肴を楽しもうと思えばそれなりに楽しむことも出来た。ゆえに今宵の馨もまた馴染みの仕事仲間と卓を囲み、並んだ酒肴に舌鼓を打っていて。
 近況から思い出話まで、あちらこちらと彷徨う話もひと段落した頃、とん、と馨は手にした酒杯を卓に置いた。そのままカタンと立ち上がり、黒の単の上に黒の羽織をするりと羽織る。
 そうして、愛妻が手づから拵えてくれた黒のマフラーを巻きながら、何事かとこちらを見ている50代ほどの男に少し、笑って言った。

「俺はそろそろ。マスター、勘定を頼むよ」
「なんだ、もう帰るのか?」

 紡いだ馨の言葉に、紡がれた男であるところの店主はまだ来たばかりだろう、と大仰に目を見開いてみせる。それにひょいと肩を竦めてみせると、今度はわざとらしいしかめ面になった。
 まったく、と怒ってみせる口調はけれども、面白そうな笑いを隠し切れて居ない。ざっと卓の上に視線を走らせながら、紡ぐ文句もからかい調子。

「結婚してからこっち、すっかり付き合いが悪くなっちまって」
「本当にねぇ」

 店主の傍らで共に酒杯を傾けていた、婀娜な女も口元を押さえ、ころころとした笑い声を響かせる。けれどもその眼差しは、巧妙に伏せられ馨とは交わらない。
 心が、痛んだ。その巧妙な仕草に――その寸前、ほんの一瞬だけ見せた女の寂しげな笑みに。
 それに、気づかないふりをしたのは自分のためでもあり、女のためでもあった。つまらない感傷、たとえまだ割り切れてはいないとしても、そう呼ぶべき感情に不用意なまま触れるのは、互いにとって不幸なことだろうから。
 気付かぬ風を装って、あくまで仕事仲間に向けるそれとして唇の端に笑みを引っ掛け、告げる。

「お前も飲み過ぎるなよ」
「余計なお世話よ」

 そんな馨の気遣いとも言えぬ気遣いに気付いていたものか。あるいは彼女もまた彼女なりの思考で同じような結論に至ったものか。
 はん、と婀娜に笑ってこれ見よがしに酒杯を掲げてみせる、女に笑って背を向けた。突き刺さるような女の眼差しを、痛いほどに感じながら。



 勘定を済ませて店を出ると、辺りには凛とした夜気が漂っていた。秋と言えども、すでに冷たい冬を感じさせるその空気を、胸いっぱいに吸い込んで、ほぅ、と大きく大きく吐き出してみる。
 そこに込められた感情が何だったのか、馨自身にも解らない。ただ、色々な物を吐き出してしまいたい、そんな衝動に駆られたのだ。
 気持ちを切り替えるように、黒いマフラーを口元を隠すようにかきあげる。ふと、手首に揺れるモルダバイトの腕輪に眼差しを落とす――これもまた、妻から贈られたもの。
 ――女の寂しげな表情が、蘇った。
 彼女とは10年もの付き合いになる。出会った頃はまだ20歳を超えたか超えないかの、娘盛りを僅かに過ぎた年頃で、そうして今よりもなお荒んだような、世の中というものに斜に構えているような、そんな眼差しを持つ女だった。
 おおよそ、まともな理由でこの稼業に足を踏み入れる者はほぼ居ない。馨がそうであったように、情報屋の顔を持っていた彼女もまた過去に傷を持ち、心に傷を負い、その傷に抗うように――けれどもどこかしら、傷を抱え込むようにして生きていた。
 その、過去を知り。互いに抱く傷を理解して。――なんの救いにもならないことを知りながら、それでも刹那の救いを求め合うように、傷を舐め合うように幾度も、幾度も身体を重ね。
 女と共に過ごす時間は、救いはなかったが、楽ではあった。彼女は馨を理解して、馨は彼女を理解していた。踏み込んではいけない場所を識り、決してそこには触れぬようにして、心のどこかに常に在る欠落を互いの存在で埋める術を知っていた。
 救いでは、なかった。もしかしたら慰めですら、なかった。互いの傷は永遠に癒えることなく、けれどもこのまま時間を重ねれば少なくともこれ以上の傷を負うことはない、そういう相手だと互いに理解し、納得し、割り切っていた。
 そんな似た者同士の2人だったから、長い付き合いの中で結婚を考えたことだって、ある。それなりの情はあったし、何より彼女となら少なくとも、あれ以上に心を乱される事のない時間が過ごせただろう。
 ――故郷で妻を見かけたのは、ちょうどそんな折の事だった。もちろんその当時は結婚もして居らず、彼女はただの幼馴染に過ぎず、どころかあらゆる意味で馨とは縁の遠い相手であったのだけれども。
 彼女は馨には気付かぬまま、誰かと話をしているところだった。よくは見て取れなかったものの、それが男だということははっきりとわかり。
 困惑、した。

(その男は誰なんだ‥‥?)

 咄嗟に込み上げてきたのは、不快感のような胸のざわめき。覚えているあの頃よりもずっと綺麗になった幼馴染が、その男に何やら話しかけられて笑っていて。
 その光景になぜ不快を覚え、心がざわめくのかと――困惑、したのだ。
 自分には結婚を考えている相手もいるし、そうでなくとも女には困らない。幼馴染よりも美しい女は何人も知っていて、それらの女の中にも馨に色香を使ってくる者はいる。
 だが――

(俺は、ただの人殺しだ‥‥)

 ふと胸に去来する、空虚な想い。あの、幼馴染と男が居る明るい場所から、自分の場所はひどく遠くて、きっと霞んでしまうことだろう。
 だが、それがどうした? 確かに自分は人殺しだ、だがおかげでこうして満足に、どころかそれなり以上に暮らせている。仕事にも、女にも困って居ない。その、どこが悪いというのだ。
 心のどこかがそう言って、けれどもやはり自分はただの人殺しに過ぎないのだと蔑む声が聞こえてくる。あの2人にどうこう思う資格はない――否、そもそも自分は幼馴染に恋慕など抱いても居ないのだ――だが男の存在が、男に笑いかける幼馴染の笑顔がチリチリと胸を妬く――
 くるり、2人に背を向けた。明るい場所から逃げ出した。
 そうして逃げて、逃げて、逃げて――けれども、チリチリと胸を妬く想いは薄れるどころか次第にしっかりと根を張り始めて。そんな自分自身の気持ちに、馨は戸惑い、翻弄されることになったのだった。



 ふと、足を止めた。惑った日々、悲しませた仕事仲間の女――それらはすべて『あの日』に起因しているのだ、と思う。
 『あの日』。馨が左眼を喪った事件が起こった、永遠に忘れられない日。
 馨の母は美しく、優しく聡明な女性だった。幼心に馨はそんな母を誇らしく思い、自慢に思っていたものだった。
 だから、その母が父が仇討ちに遭って亡くなって以来、その死を深く嘆いて正気も定かではない風情になり始めたのが、馨にはひどく心配で。どうにかして元の母に戻って欲しいと、ずっと心を痛めていたから。
 あの日、骨董市に並んでいた花柄の茶碗を見つけた時、馨はとても嬉しくなった。だってそれは、母が好きなものだったから。
 この茶碗を贈ったら、母は喜んでくれるだろうか。かつてのような笑顔を見せてくれるだろうか。
 そう思いながら、決して多くはなかった小遣いでその花柄の茶碗を買い求め、大事に大事に持って帰った。そうして、その日も変わらず父の、夫の死を嘆いて暮らす母に、期待に胸を躍らせながら馨がそっと差し出した茶碗は、確かに母の心を動かしはした――悪い方向に。
 母はその茶碗を見た瞬間、声にならない叫びを上げたかと思うと表情を一変させ、馨の手から茶碗を引っ手繰ると傍に居た侍女に投げつけたのだ。きゃぁ、と小さな悲鳴が上がり、茶碗の割れるガチャンという音が不吉に響く。
 ぎょっとして、慌てて馨は母と侍女の間に割って入った。なんとか母の凶行を止めねばならないという必死の思い、その中にはどこか、自分相手であれば母は止まってくれるに違いないという期待も、あって。
 しかし、馨の期待は儚くも破られた。母は、間に割って入った馨の左眼に、掴んでいた割れた茶碗の破片を躊躇いなく突き刺したのだ。
 その瞬間、響いた悲鳴が誰のものだったのか、もはや馨にはわからない。想像を絶する痛みで視界が真っ赤に染まり、自分が立っているのか倒れているのかすら分からず、それなのにその瞬間の母の、狂気に染まったような表情だけは昨日のことのように覚えている。
 確かめるように、そっとあの時の傷を掌で覆った。母に刻まれた刻印が永遠に消えはしないように、あれ以来馨の胸に渦巻いた怒りは、それ以上に胸を引き裂いた悲しみは、今なお癒えることはなく、これからも消えることはないだろう。
 そう、思っていた。今もどこかでは、そう思っている。

(――でも)

 そんな自分自身の心に告げるように、馨は小さな息を吐き、ゆるゆると首を振った。すべてが始まった、変わってしまった、『あの日』が元凶であることは変わりはしないけれども。
 妻子を得た今では、あの頃の母の悲嘆が少し解るような気も、するのだ。突然に愛する夫を失った、奪われた母が襲われた悲しみは、苦しみは如何ばかりのものだっただろうと、想像を巡らせることも出来なくは、ない。
 今の馨が妻を、子を失ったとしたら――そんなこと、想像してみるのも忌まわしいくらいに、絶対に起こっては欲しくないことだ。絶対に、何があっても、どんな理由だったとしても許しがたいことだ。
 だが、母にはそんな忌まわしい出来事が、現実に起こってしまった。馨が居たのにとそれでも恨み言を紡ぐ余地はあれど、愛する伴侶を失ったというそれだけで彼女が心を壊すには十分だったのかもしれないと、同情することは出来なくはない。
 ――それでも、仕方なかったのだとすべてを許す気には、まだなれないのだけれども。
 ふ、と何度目か知れない息を吐き、馨は再び頭を振った。今度こそ思考を振り切り、確かな足取りで月の下を歩き出す。
 愛する妻子の元に早く帰ろう、そう思った。





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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職 業 】
 ib8931  /  馨  / 男  / 30  / 陰陽師

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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いつもお世話になっております、または初めまして、蓮華・水無月でございます。
この度はご発注頂きましてありがとうございました。

息子さんの過去を想う夜歩きの物語、如何でしたでしょうか。
お言葉に甘えて、アドリブというかアレンジというか、思う存分綴らせて頂いてしまいました。
色々な過去が在られつつも、今がお幸せ――とは言い切れないのかも知れませんが、帰るべき、帰りたい場所があるという事は幸いなことだと思います。
もしイメージと違うなどあられましたら、いつでもお気軽にリテイクをお申し付けくださいませ(土下座

息子さんのイメージ通りの、過去の痛みを抱いて進むノベルであれば良いのですけれども。

それでは、これにて失礼致します(深々と
ゴーストタウンのノベル -
蓮華・水無月 クリエイターズルームへ
舵天照 -DTS-
2015年12月14日

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