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『これ以上なく高貴な石 』
シリューナ・リュクテイア3785)&ファルス・ティレイラ(3733)

 名工、と呼ばれる者が刻みこんだその彫刻は、今にも呼吸を始めるのではないかと思うほどの繊細さがあった。
 大振りのカメオブローチに彫り込まれているのは、女性の姿。軽やかに風を孕んだ髪のなびく様も、艶かしささえ感じられる美しい肌も、弾力さえ思わせるその薄く開いた唇も。月長石から削りだされた女は窓から身を乗り出していて――その窓枠さえ、同じ石から削りだされている――窓越しに恋人を待つ、有名な悲恋劇をモチーフとしたものだとはひと目で分かる。敵対する家に生まれたばかりに、最後には死に行く恋人たちの物語。だけどその彫刻の彼女は微笑み、幸せそうで、未来に待ち受ける悲劇など知らないと見える。
 うっとりとした瞳でそれを見つめていたシリューナ・リュクテイアは、ほう、と感嘆のため息を漏らした。
 なんて美しい彫刻だろう。物語に由来させたのか、魅了の魔法と死の呪いが籠められているのも好感を持てた。今は身に付けるものがいないから、それらの魔力は発動していないのだけれども。
 魔法薬の材料を仕入れに行った先で偶然手に入れたブローチだったが、こういう装飾品や美術品を眺めるのは、シリューナが好むことのひとつだった。
「本当に、この間の仕入れは当たりだったわ。こんな掘り出し物まで手に入るだなんて――あ、いけない」
 はたと思い出したことがあって、シリューナは顔を上げた。
 彼女は魔法薬屋として魔法の効力を封じ込めた液体を主に扱っているが、そのすべてが他者から仕入れたものというわけではない。
 かすり傷程度の治療に使うような物であれば作るのも簡単なのだが、高度な魔法薬や呪薬となれば、精製するのも一仕事だ。
 液体に魔法を込めて精製する方法には様々なものがある。液体に直接魔法をかけるものだったり、特殊なインクでマジックスペルを書いた紙を燃やした灰を溶かしこむものだったり、月明かりを一晩浴びせた水である種の魔術的な薬草を煎じる方法だったり――変わった物の中には死刑囚の血だけを使って七年育てたマンドラゴラを十年浸す、などというものもある。
 つい先日仕入れた材料は、少し面倒な方法でつくる魔法薬に使うものだった。それを使って新しい魔法薬を作っていたのだが――途中の工程で、少々厳密な封を必要とするのだ。
 魔法的な精製の作業の一環として、密封した場所で三日三晩をかけて魔力を染みこませる必要があるのだが、その途中で空気や光に触れてしまうと魔力が散逸してしまうのだ。もう一度やり直せばいいだけのことではあるが、多少面倒なのは否めない。
 だからこそ蓋が外れることのないように、魔法の重石も使って厳重に密封しておいたのだが。
「ティレは好奇心旺盛だし……一応、注意しておこうかしら」
 小さく呟いて、立ちあがる。本来ならどうということはないのだが、今日はいつもと少し勝手が違った。
 精製場所としても使っている魔法薬屋の倉庫。その整理を、弟子の仕事としてファルス・ティレイラにお願いしていたのを思い出したのだ。かつり、かつりと高めのヒールで床を鳴らしながら、シリューナは倉庫へと向かう。

「ティレ? そこにある封印のことなんだけど――」
「ち、違うんですお姉さま。こ、これはその」
 案の上、手遅れだった。
 重石は確かに密封した木箱の上に乗っていたけれど、シリューナが自ら施した封印だ。
 一度外したものを形だけ戻して誤魔化しただけの、その形跡に気づかぬ道理はない。
「勝手に開けちゃいけないのはわかってたんですけど、あの……」
 弟子の方とて、師である彼女が一瞥で欺瞞を看破した事に気づいたのだろう。先ほどから冷や汗一杯の涙目で、あわあわと言い訳を取り繕う事に余念がない。もっとも、ほとんどが「違うんです」とか「わざとじゃなくて」「気になって」で構成されているあたり、まったく取り繕えていないわけだけれど。
 シリューナは薄い微笑みを浮かべ、木箱を指差して言い放つ。
「開けたわね?」
「ええと……」
 もう一度、ゆっくりと繰り返す。
「開けたわね?」
「あの、違うんですお姉さまっ、私、その封が気になったんじゃなくて、そんな封をする中身ってどんなものかなって!」
 そのふたつに大きな違いはないように思えるが、好奇心旺盛な妹分は自分が何を口走っているのかきっとよくわかっていない。
(ふふ、可愛いわね)
 普段は妹のようにかわいがっているティレイラの慌てふためくその様子は、正直に言えば愛らしくて仕方ないのだけれど――魔法の師匠としては、勝手な事をした弟子にそれなりのお仕置きは必要だろう。
「……そうね」
 思いついた、弟子の可愛らしさとお仕置きと、何よりシリューナの趣向を満足させる妙案。
 その、抑制されつつもどこか楽しそうな声に、ティレイラははっとしてシリューナの顔を見た。
「あああ、あの。その反省! 反省してます! から! ……ぁぇ?」
 言い訳を続ける弟子の表情が先ず驚きに、そして恐怖に染まった。
 それはそうだろう。自分の身体が見る見るうちに色を変え、質感を変えていっているのだから。
 ティレイラの髪と同じ漆黒の、黒曜石に。爪先から徐々に無機物へと変質していく感触に、ティレイラは怯える。
 身動きをとれなくなることへの恐怖と悲嘆には、決して慣れることはない。
 今までにも、幾度か姿を変えられたことはあったけれど――だからといって次も解呪してもらえるかどうかは、わからないのだ。
 次にこの目で光を見ることができるのは、明日か、明後日か――数年後になるのか、数千年の遠くになるのか。
 それとも――もう二度と、そんな日は来ないかもしれない。
「お姉さま、や、やめ、て、くださ、い……!」
 懇願しようと、縋り付こうとしたのだろう。ティレイラはシリューナに向けて手を伸ばす。助けてくれとでも言いたげに。けれどもう半分以上石と化した彼女の身体は、ただぎこちなく動くだけ。
 優しく微笑むと、シリューナはさらに深い術式を編み上げる。些細な事で間違って解呪されたりすることのないような、彼女自身でもないと解けないほどの強い呪術。
「ご、めん、なさ……」
「その言葉を最初にいえば、許して上げたかもしれないのにね」
 もはや完全に石像とかした弟子の目を覗き込みながら、そんな風に言ってみる。
 嗚呼――そんなの、嘘だ。
 完全に石と化した弟子の言い訳が止んで、倉庫の中はすっかり静まり返っていた。
 シリューナは己が昂揚している事を自覚して、嫣然と笑う。
「ああ、なんて可愛らしいのかしら……」
 美しい。その言葉がこんなにも似合うこの石像と比べれば、カメオブローチの細工なんて児戯に等しい。
 倉庫整理の途中で捲り上げられていた袖から伸びる腕も、請うように伸ばされた指先の繊細さも、暮らしの邪魔にならない程度の飾りしかない清潔感ある私服も、身悶えたせいで乱れて波打つ髪も、開いた唇の中で漂う舌先も、一本一本が長い睫毛に覆われて今にも震えながら許しを請おうとしそうな瞳も――人間の手にはとても削りだすこと能うまい。
 ティレイラの狼狽と恐怖。赦しを乞う媚態と愛嬌。もしかしたら、師である彼女への信頼と愛情。そんな情動を含んだ一瞬、その瞬間だけしか見られないはずの、可愛らしい一瞬。
 それを切り取りとどめた姿は、どのようなオブジェよりも遥かに美しく、可愛いらしい。シリューナはそれを今こうして目にしていることで確信している。
 硬質化したティレイラの頬に指を触れる。
 黒曜石の肌はひんやりとして、滑らかで、なぞるようにすべらせた指先がひっかかることもない。
 躍動感あふれるティレイラの姿をそのままとどめて、だというのに硬く、柔らかそうに見えるのに決して沈み込んだりしない。
 髪の束一つとっても、その細い一筋ずつが決して動くことなく、それでも指に絡めてしまえそう。
 シリューナは手のひら全体でティレイラの頬を包み込むとそのままほっそりとした顎を、そして張りのある首筋を、瑞々しさにあふれる全身を、撫でるようにして触れ回る。
「この肌触り……ああ、素敵……」
 その感触が、美が。
 普段の、感情の起伏が少なく落ち着いているシリューナの心を蕩かせる。
 昂揚に紅潮した彼女の肌に籠もった熱を、黒曜石が奪い冷ましていくけれど――それさえも今は、心地良い。
「どんな装飾品より、彫刻より、最も美しい。そして、可愛いわ……」
 スタチューフィリア的なまでに陶酔し、恍惚の表情で呟くシリューナ。
 頬を寄せ、像のすべてにくまなく触れて、堪能する。
 ああ、これこそが――どんな宝石よりもずっと価値のある黒曜石。
 竜族の趣味の時間は、しばらく続いた。

「――さて」
 倉庫の整理そのものは終わっていたらしく、封印以外には特に問題なさそうだった。
 改めてシリューナは木箱を開け、魔力が散逸しきっているのを確認する。もう一度やり直さなければならない。
 中の材料に異常がないことを確認すると、木箱の中を魔力で満たして封をする。これで時間とともに馴染んでいくはずだ。
 ありきたりな方法ではあるのだが――ありきたりだからこそ、ティレイラにはまだ教えていなかった。
「罰が終わったら、その材料を使った魔法薬の作り方を教えてあげようかしらね」
 中身が気になった、と言っていたのを思い出す。
 封印の規模と質がかならずしも一致するわけではないが――念には念をと厳重にしすぎてしまったのが、ティレイラの好奇心を刺激したのもあるだろう。
 中身を理解していれば、そういう失敗も起こすまい。
「でも、しばらくはそうやって体でおぼえてなさいね、ティレ」
 木箱の上に立たせたティレイラに向けて、シリューナは微笑む。
 師の言いつけに、弟子は応えない――応えられない。
 だってそこにいたティレイラは、黒曜石の美しい石像だったのだから。

<了>
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2016年01月29日

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