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『香りに愛を込めて 』
エル・クローク3570

 私にとって、お香というものは特別な意味を持つ。
 それは言葉にしてしまえば実にシンプルなものだ。だから口にはしない。
 一日の始めに、一日の終わりに、仕事の前に、ふと時間が空いたときに、嬉しいことがあったときに、嫌なことがあったときに。
 私はお香を焚いて、気持ちをリセットするのだ。

 今では当たり前となったこの習慣は、しかし始めてそう長いわけでもない。むしろ半年やそこらの話だ。
 クロークさんの店のことを知ったのも、そのくらいの頃である。

 クロークさんのお店は、『香り』を扱う一風変わった店だ。
 喫茶店のような設えではあるが、『香り』にまつわるものなら何でも置いてある。お香、香水、ポプリ、紅茶やお菓子、見方によっては節操がないとも取れるだろう。
 私はここで、お香をいつも買っている。
 クロークさんのお勧めに従って、色々なものを試している。外れたことは、一度もない。

 クロークさんは黒い衣装が印象的な美形だ。鮮やかな金髪とのコントラストが美しい。
 穏やかな人となりで、一緒にいると落ち着く。例えるなら時計。当たり前のようにそこにあって、針の音が心地よく、知りたいことを教えてくれる。
 けれどもいつまでも距離は埋まらず、そういうことかと理解しつつ、どこか納得しきれなかったりで、そのもどかしさすら心地よい。
 要はそういう事だ。
 星は見上げるもので、隣に並ぶものではない。これは一時の熱病で、決して叶うことはない。そのくらいは弁えている。


 弁えていたはずだった。
 だから、私個人へのプレゼントとして香炉が渡されたときは、随分と驚いたものだった。
 天地がひっくり返ったような感覚に陥って、細かいことを考える余裕なんてなかった。

 だから、香炉を持ってきたのがクロークさん本人ではなかったこととか、屋外にも関わらず『すぐにでも楽しんで欲しいと言っていた』なんて言葉とか、そういった諸々に疑問を差し挟む余地もなく、私は薬品に火を付けて、

   …

 ざしゅ、ざしゅ、ざしゅ。

 クロークさんがわらってる。
 あいしているよとわらってる。

 ずき、ずき、ずき。

 おなかがいたむ。
 だいじょうぶかいとクロークさんがかなしんでいる。

 ごん、ごん、ごん。

 わたしはしあわせ。
 とってもしあわせ。

 あいしてもらえて、とってもしあわせ。

   …

 死ね。

   死ね。

     死ね。



 さあさあと雨が降る。この具合だと、今日中は晴れそうにないだろう。
 街は灰色にけぶり、いつもの活気は見る影もない。
 今日は商売にならないな、とエル・クロークは独りごちた。
 こんな天気では路地裏に入ってくる物好きがいないというのもあるし、もう一つ。

 ずうん、と店の空気を重たくしている要因が、カウンター席に鎮座ましましているからであった。

「それで、どのようなご用かな?」
 クロークはカウンター席に腰掛けた男に話しかける。物々しい雰囲気を纏っており、『お客』でないことは誰の目にも明らかだった。
 男は重苦しく口を開いた。
「先日の事件について、事情を伺いに来た次第です」

   …

 先日、隣町で痛ましい事件が発生した。いや、発覚したと言うべきだろう。
 路地裏の廃倉庫で、滅多刺しにされた男性の死体と、犯人であろう女性が発見された。
 女性はすぐに確保されたものの、心神喪失状態であり、どうやら『香炉を使う』違法薬物を吸引していたであろうことが判明したのだという。

「あらかじめ言っておくけれど、僕はその件については今知ったばかりだよ」
 クロークは淡々と、しかし僅かに眉を顰めながら言った。
「存じております。ただの確認ですので、ご協力頂ければ」
 男も淡々と答える。彼は事件を捜査する立場だというから、用件とはそのことなのだろう。
 ――『被害者の女性がかつての常連だった』とか、『発見された香炉がかつて出していたものと瓜二つだった』とか、そういった事情が重なればクロークに聴取をするのは当然と言えた。

 クロークは女性については名前と容姿くらいしか覚えがない。常連の一人、程度の認識だ。
 強いて言うなら時折クロークを見る目が熱を帯びていたから、まあ『そういうこと』なのだろうと感づいてはいた。そしてそれ以上詰めてくる様子もなかったから、敢えて気づかないふりを続けていた。
 彼女はそれなりに美人の部類に入ると思う。愛嬌があって、健全な男なら放っておかない程度には――
「男はどうやら、以前より彼女をつけ回していたようですね」
 そして、違う意味で不健全な男に目を付けられたらしい。

   …

 事情聴取はすぐに終わった。クロークは事件に無関係、むしろ利用された被害者である、ということを裏付けしにきたということだった。
 あらかたの話が済むと、男は早々に立ち去っていった。そして静寂が訪れる。
 店内はがらんとしている。この調子では、今日は早々に店を畳んでもいいかもしれない。
「――――」
 クロークは一つ息を吐くと、安息効果のある紅茶の香りを店に漂わせた。店に落ちた重苦しい雰囲気が中和されていくような感覚がある。

 ――関係がない、と言ってしまえばそれまでである。
 しかしそんな風に割り切れるほど、クロークは冷徹でもないつもりだった。

 要するに。
 『クロークに憧れていた女性を』、『ストーカーがそれを利用して』、『違法薬物を使い拉致監禁していた』ということになるのだ。
 あの男は詳細をぼかしていったが、それがつまりどういうことかが分からないクロークではない。
 因果応報、悪因悪果、自業自得。
 被害者――いや、加害者の男は当然の結末を迎えたわけだ。
 ただ、それが女性自らの手によって、というのが報われない。最終的にその手まで汚してしまった。女性に落ち度はどこにもなく、どこまでも理不尽な、痛ましい事件である。
「――――」
 クロークは一つ息を吐く。

 ――せめてその薬物とやらを中和するくらいなら、協力するに吝かではないのだけれど。
 そう独りごちると、クロークは今日の営業を取りやめることにした。
 流石に、そんな気分ではなかった。

 時計がかちりと音を立てる。時は誰にも等しく進んでいく。街は雑多に、善意も悪意も渦巻いている。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
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聖獣界ソーン
2016年02月08日

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