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『今ここにあるものは 』
アリサ・シルヴァンティエ3826)&アレクセイ・シュヴェルニク(3828)

 二人の姿は、どこからどう見ても初々しいカップルそのものである。

 小奇麗な身なりをした穏やかな表情を浮かべた青年と、その腕に腕を絡める黒髪の女性は、二人が揃って整った顔立ちに、揃いも揃って見る人間すら微笑ませてしまいそうな程、幸せそうな笑みを浮かべているものだから、街中なら間違いなく人目を惹いたに相違ない。とはいえ、場所は少し街の中心からは離れた郊外の教会の、その裏手の丘の上だ。人目は決して多くない。せいぜいが、教会で職務に励む老齢の夫婦が時折、窓から丘を見て微笑むくらいのものである。
「アレクセイさん」
 小鳥の声が響くばかりの麗らかな晴れた午後。風には微かに緑の匂いがしていた。そんな中、呼ばわれた青年は顔を上げた――眼前には、黒目がちな大きな瞳が心配げに彼を覗き込んでいる。
「アリサさ、ん?」
「眉間に皺が寄っていましたよ。…考え事ですか? 難しい顔をしていましたけれど」
 白い指先が青年――アレクセイの眉間にとん、と触れて、そのまま軽くぐいと押される。皺を伸ばすような所作を前に、不穏な思考に耽り続けることは難しかった。知らず頬を緩めて、近づいてきたアリサの白い頬に彼は指先を当てる。あら、と、思いのほかに近い距離にアリサが身を離そうとするが、素早くアレクセイはその背中に反対の腕を回した。
 彼女の黒髪からは、少しだけ消毒液の匂いがする。それからハーブと、僅かに甘い香りは何だろうか。
「どうしたんですか? ここのところ、お忙しかったみたいですけど、お疲れですか」
 驚いた様子だったアリサだが、常と少しばかり様子の違うアレクセイに思うところがあったのだろう。そのまま大人しく彼に体を預ける。
 しばし、そのまま。
 木陰で二人は寄り添っていた。時折近い場所で視線がぶつかり、気恥ずかし気に目を伏せ、しかしおずおずとどちらからともなく距離を詰める。アリサが僅かに背伸びをし、互いの唇が近付く――
 だが、それが触れるか触れないかという距離で唐突にアレクセイが目を開いた。アリサの背に両腕を回し、そのまま押し倒すように草むらへ倒れこむ。らしからぬ大胆さ――等とアリサが顔を真っ赤にしたのは一瞬のことで、即座に彼女も表情を引き締めた。アレクセイはいつの間にか彼女に背を向けて腰に刷いていた剣を抜き放っており、その顔に、一度は取れた眉間の皺がまたしても寄っていることにアリサは気づく。
 ギン、と。
 鈍い金属音はアリサの間近に響いた。見れば、アレクセイの足元に鈍色の短剣が落ちている。いずこからか投擲されたそれをアレクセイが手にした剣で弾いたのだと、ようやくそれで知れた。アレクセイが、低い声をあげる。
「そこに居るんだろう?」
 険しい表情、唸るような警告の声色はアリサの聞いたことのない、ものだった。唐突な襲撃よりもアリサはそちらの方に驚いて、目を瞬かせる。
「…アリサさん。下がっていてください。恐らく狙いは貴女です」
 ただ、そう告げるアレクセイの声は常の調子だった。気のせいだったかな、とアリサは内心に首を傾げつつ、無言のまま一歩下がる。
 なにぶん、出自の関係も相まって、こうして狙われること自体は一度や二度ではない彼女は、突然の襲撃に悲鳴を上げたり戸惑ったり、そうした手間はかけない。今すべきことはアレクセイの足を引っ張らないことだ――それくらいは直ぐに判断ができる。だが。
「おっと。動くなよ?」
 そんな若い男の声と同時、アリサは足を止めた。足元の草むらの中、何かが蠢いている。それが好意的な存在ではないことは、足を出そうとしたアリサに噛みつくようにとびかかってきたことからも分かる。がちりと硬いものがかみ合う音だけを残して、小さなそれは草むらに再び隠れてしまった。気が付けば、辺りからはガサガサと小さなものが動き回る音が響き渡り、
「…囲まれてる…?」
「みたい、ですね」
 アレクセイの独り言に、アリサは応じて胸元に手を当てた。
「ごめんなさい。私のせいで」
「そ、そんな! アリサさんは何も悪くありません。悪いのは――」
 アレクセイの言葉が途中で途切れ、また甲高い音が鳴る。草むらからとびかかってきたのは、鼠のような魔物で、それがアレクセイの剣に噛みついたのだった。それを剣から振り払い、アレクセイが一点を睨む。緊迫を孕む数瞬の沈黙の後、彼の睨んだ一点から不意に、鋭い風音が響いた。アリサが身を縮める暇すらない。
 何かが飛んできた――アリサに認識できたのはそこまでだったが、アレクセイの反応は素早かった。剣を持ち替え、何事かを小さく呟くと、襲ってきた何かは彼の左手の手前で弾かれ、失速する。草むらに落ちたのは紙切れにも見えた。
「…最近嗅ぎ回ってた狗はテメェか」
 ぼそりと低い声が、先までアレクセイが睨んでいた繁みから響く。対してアレクセイは構えを解かず、緊張を見せたままで応じた。
「最近アリサさんの周りをうろついていたのはあなた方ですか」
「まーなー。その嬢ちゃん譲ってくんね?」
「断ると言ったら」
 アレクセイの言葉に答えるように繁みから現れたのは、青年だった。目深にかぶったフードの下から、僅かに三白眼の黒い目がアリサを一瞥する。口元には笑みが浮かんでいた。
「そう言ってくれた方が俺は嬉しいね。抵抗する奴をぶちのめして言うこと聞かせる方が好みだから」
 言うなり青年は懐から、紙束を取り出す。
「黄道の十二、正道を行く優等生なんざ横から蹴飛ばせ!」
 乱雑な言葉が呪文だと、即座にアレクセイは判断したらしかった。構えが変わる。そこへ、
「黄道の門は銀の鍵で閉じよ、正道を歩く者は皆誘惑に耳をふさげ。っていうか閉店時間だぞー」
 横から更に乱暴な呪文と、
「よいしょお!」
 いささか間の抜けた気合いと共に、人が降ってきた。酷く小柄なその人物はフードの青年に組み付こうとして、その直前で見えない何かに弾かれ、そのまま着地する。舌打ちを一つ。
「ちょっと師匠、ちゃんと閉門したの? こいつの結界、まだ活きてるわよ」
「…あー、ったく、めんどくせぇ狗が増えた…」
 ローブの青年が唸る。小柄な人物を追うように着地した、眠たげな眼をした人物がその青年を一瞥して眉根を寄せた。
「狗だとよ、愛弟子。どうする?」
「イヌって多分そこに居る色男でしょ。それっぽいし」
「え、僕ですか!?」
 突然指をさされたアレクセイは毒気を抜かれて目を白黒させる。そうしつつも、アリサを背後に庇うことだけは忘れない。その様子を見た「愛弟子」と呼ばれた小柄な女性は腕組みをして、しみじみと、横に立つ長身の男性へ向き直った。
「…師匠。一般的にあれが正しい恋人同士の在り様だと思うの、如何?」
 その言葉は無視した様子で、「師匠」と呼ばれた男性がアレクセイを振り返る。
「おい、あれ、ぶん殴っていい相手だよな」
「できれば捕縛して背後関係を洗いたいところです」
「なるほど。…愛弟子、出来るか?」
 出来るもできないもなかった。愛弟子と呼ばれた女性は言われた時には既に動いている。ローブの青年の背後にいつの間にか飛び込み、低い位置から掌底を突きあげ――だがその背後から、先程まで草むらで蠢いていた物体が飛びかかっていく。慌ててアレクセイは口の中で呪文を詠唱しようとしたが、それより先んじて「師匠」の方が動いていた。
「閉店だっつってんだろ」
 低く物憂げな呟きは到底呪文だとは思えないが――間違いなく呪文だ。アレクセイにはそれが分かった。その証拠に、彼の呟きによって次々と、蠢く「何か」が消えていく。舌打ちをしてローブの男が後ずさったのを、背後に回っていた少女が阻んだ。拳を握り、鋭く突き入れる。その少女がちらとアレクセイに目線をくれたので、彼は意を得て頷き、意識を研ぎ澄ませた。
 彼の魔術は、ごく一般的に普及している雷属性と風属性の魔術だ。手の中に、雷電の気配が集まるのを感じ、それを形にしていく。背後で歌うように、だがどこか寝言のように物憂げに、青年が言葉を紡ぐ。
「ナイフとフォークは外側から。銀よりも鉄の方が伝導率はいいからそっちで」
 意味があるのか無いのか、どうにも聞いていて緊張感の削がれる呪文であったが。確かに力はあった。アレクセイの手の内で雷の気配が濃厚になり、一気に形作られる。
「…はっ!」
 掛け声と共に放たれたのは、雷で象られた短剣だ。まっすぐにローブの男を狙う。当然男はかわそうと、あるいは魔術で減衰しようとしたか。動こうとしたところに、
「太陽はまだ出てるわよ、お星さまはとっくに門限!」
 ――何だってこの師弟の呪文は二人揃って気が削がれるような内容なのか。それはさておき、男の術はどうやら彼女によって疎外されたようだ。結論。雷は男のローブに直撃する。
 尤も、手応えはなかった。ひらりと黒いローブが地面に落ち、そこにはもう何もいない。端から虚像をよこしていたのか、こちらの気付かないタイミングで入れ替わっていたか――それすら定かではない。
 ともあれ、どうやら目の前の危機は脱したか。アレクセイはようやく緊張を解いて、乱入者の二人を見た。
「ありがとうございます。助かりました」
「いーえー、どーいたしましてー。お礼はご飯とかでいいわよ、あと情報」
 少女の物言いに、アレクセイは苦笑して背後を見遣った。その背に庇われていたアリサも安堵し、あるいは彼女の言葉に笑みでも零しているかと思ったが、その視線の先の表情が硬いことに気が付いてぎくりとする。
「アリサさん? どこか怪我でも…」
 先の襲撃から、守り切れていなかっただろうか。アレクセイの言葉に、はっと我に返った様子でアリサは慌てて首を横に振った。
「ああ、いいえ、その、問題ありません。大丈夫です。…今の人は…私を狙ってきた、みたいでしたね」
「そのようですね」
 そのこと自体は、残念ながら珍しいことではなかった。生贄向きの条件が揃っている為、アリサは何かと外法を扱う魔術師に狙われやすい。
 とはいえ、度々ある経験とはいえ、慣れるようなものでもないだろう。そう思い至り、アレクセイは安心させようと彼女に手を伸べた。
「いったんは撃退しましたし、しばらくは僕がアリサさんと一緒に居ます。心配しないでください」
「馬鹿を言わないでください。私の為にアレクセイさんが怪我をしたら、私、とっても心配します」
「じゃあ怪我をしないようにしますので…」
 難しいかもしれないが。内心でそう付け加えつつ言えば、「無理をしないでくださいね」ときっぱりと告げられた。こういう所はいかにも彼女らしい。自然に笑みが零れ、何か言葉を続けようとして、アレクセイは背後からの咳払いに振り返った。
 先の師弟が、一人は興味なさそうに、一人はうんざりしたような顔で、彼らを見ていた。




 たまたま通りかかった冒険者であるという二人を加え、お礼代わりにお茶を振る舞う。十二分だと、二人は口を揃えた。冒険者というのは色んなタイプが居るとアリサは経験上よく知っている。襲われている女性を助けないタイプもいれば、興味本位で首を突っ込むタイプもいて、要するにこの二人は後者だろう。
「アリサっつったっけ?」
 お茶を用意していると、弟子と名乗った少女の方が台所にひょこりと顔を出した。
「あら。座っていてください、お客様なんですから」
「いや、教会ってどーも慣れないんだよね。落ち着かなくって。なんか手伝わせてくれない?」
 身体を動かしていた方が落ち着く、ということらしい。そういうことならとアリサは周りを見渡したが、そこへ彼女の遠慮のない言葉が差し込まれて動きを止めた。
「ところでさー、アリサ、あのカレシ君何者?」
「え?」
「随分とお行儀の良い剣筋だったからさ。たぶん、ちゃーんと剣を教えてくれる先生についてたんだろうし。んでもってウチの師匠にいわせりゃ『正統派の魔術の遣い方』らしいから、ってことは魔術の勉強もしてるってことでしょ?」
 剣なり、魔術なり、どちらかだけ学んでいるなら多くはないが珍しいものではない。だが、「きちんとした」基礎から教わる、となると、そこらの冒険者から聞きかじった――町の日曜学校で教わった――そういうレベルの話ではい。しかもそれを両方ともに。それは、生活に困らずに教育だけを十二分に受ける環境に居ることが前提だ。
「……。え?」
 アリサのリアクションに、彼女はあれ、と目を丸くする。
「…、カレシ君の素性、知らないとか?」
「……」
 言われてみれば。
 言われてみれば、アリサは彼の過去を知らない。この教会で、何かのトラブルに巻き込まれたらしく、毒に蝕まれていた彼の治療を行い――それが初めての出会いで――それより前の彼のことは。
「ごめん。あたし余計な火種蒔いたわ」
「え…いいえ…」
「あー。忘れて、っつっても、無理だよね…」
「それは…」
 もやもやとした感情が胸を渦巻き、アリサは頭を抱えたくなる。そこへ、
「アリサさん? 大丈夫ですか」
 準備が遅いので心配したのだろう。話題の中心、アレクセイが顔を覗かせたもので、アリサは驚きのあまりに手を滑らせてしまった。茶器が落ち――幸いにして割れる直前で、横に居た少女がそれを受け止めていたが。
「えっと…その。カレシ君。ごめんね。あたし、お茶用意してくるからごゆっくり」
「え? あ、はぁ…?」
 状況が飲み込めないまま呆然とその背中を見送るアレクセイを前に、アリサはもじもじと、エプロンの裾を握った。
「アリサさん?」
 人をほっとさせる笑みを浮かべて、首を傾げてこちらを伺う彼はいつも通りだ。泣きたいくらいに。アリサの知っている彼そのものだ。だが、先の少女の言葉が胸に刺さって、アリサはいつも通りにその呼びかけに答えられない。
「…アレクセイさん」
「はい。あの、大丈夫ですか? やっぱりああいうのは、慣れるものじゃないですよね…良ければ僕がしばらく、護衛になりますが」
 違うんです、とアリサは泣きそうになった。懸命に彼女を安心させようとしている彼は、アリサの良く知っているアレクセイだった。どんな生まれで、どんな経緯でこの街へやってきたのか、それは分からないが、今ここにいるアレクセイについてならアリサは良く知っている。
 不安を押し鎮めるように、アリサは笑みを浮かべた。うまく笑えていることを胸中で祈りながら。
「…大丈夫、大丈夫です。――お茶にしましょう、アレクセイさん」
(私は今、ここにいるアレクセイさんを、知っている)
 それだけで、どうして充分だと思えないのだろう。
 自分が酷く我儘な子供になってしまったようで、アリサはほんの少しだけ笑みを引っ込めて、唇を噛んだ。


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2016年03月14日

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