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『 バースデイ・キス 』
弥生・ハスロ8556)&ヴィルヘルム・ハスロ(8555)


 それは、春先の特別な一日。
 太陽の光が暖かく、緩い風が気持ち良い。まるで天もこの日を祝福しているように思えてしまうのは、厚かましいだろうか。
 ヴィルヘルム・ハスロの今日の仕事は休み。大切な女性(ひと)と幼い息子のためにすべての時間を使うつもりだった。


 3月15日――それは愛するひとがこの世に生まれ落ちた日。ヴィルヘルムにとって大切な日のひとつである。


「んー……」
「弥生、まだ気にしているのかい?」
 だが、家を出た彼女――弥生・ハスロの表情は冴えない。同時に彼らの側にはいるべき存在が見当たらなかった。
「誕生日というだけで気を使わせてしまって、申し訳なくて」
 苦笑を浮かべながら弥生はヴィルヘルムの顔を見上げる。そう、事の発端はつい先程のことだ。

『家族で出かけるのも良いけれど。特別な日に偶には2人きりでデートも良いんじゃない?』

 元々3人で出かける予定だったハスロ一家の元に現れたのは弥生の身内。今日は弥生の誕生日だからと気を使って、息子を預かると申し出てくれたのだ。しかしそれは申し訳ないと弥生は固辞して。けれども最終的には。


『今日一日2人で過ごしなよ』


 そう言われ、半ば強引に家を追い出されてしまったのである。
 確かに息子が生まれてから夫婦二人で何処かへ出かける機会なんて殆ど無かったけれど、生まれてきてくれたことに涙をながすほど感謝した息子と3人で過ごすのが、もはや自然となっていて。
「どうしても連れていけない事情がある場合なら、私だって預かってもらうのは嬉しいけれど」
 別に今日、息子を預かってもらえることが嬉しくないわけではない。ただ、自分の誕生日というそれだけで気を使わせてしまったことが申し訳なくて、後ろめたく感じるのだ。
「弥生」
 そんな弥生にヴィルヘルムは穏やかに語りかける。
「ここは素直に甘えよう。申し訳なく感じすぎるのは、逆に失礼だよ」
「……そうね」
 せっかくの気遣いをそんなふうに感じ続けているのは、確かに気を使ってくれた身内に失礼だ。弥生はヴィルヘルムの言葉に表情を緩め、そして彼の腕に自分の腕を絡めた。
「ふたりきりのデートなんていつぶりかしら」
 彼女の顔に笑顔が戻ったことを確認し、ヴィルヘルムの表情も柔らかくなった。



 街行く人々は、腕を組んだ美男美女のふたりを素敵なカップルだと評するだろう。子どもと一緒に出かけるつもりだったから、おしゃれもささやかなもので、それよりも子どもを連れ歩くのに適した格好寄りだけれど――美醜としての意味だけでなく『美しい』人たちは、何を着ても美しいものだ。
「ねぇヴィル、あれ見て。特集のコーナーができてるわ」
「ああ。喜びそうなものが沢山だね」
 だがしかし、ふたりでデートしているというのに引きつけられていしまうのは、息子が好きなキャラクターもののお店。息子の月齢で買い与えるならどれがいいか、母子手帳ケースなども息子の好きな柄にしてもいいかもしれない。スマホケースや口にはいらない大きさのキーホルダーなんかもぐずった時にあやすのに使えるかもしれない、そんな話に花が咲く。
 道ですれ違う幼子連れがついつい目に入ってしまう。子連れは結構多く、抱っこやおんぶで頑張っているのも身を持ってわかる。ベビーカーを押しながら上の子を連れていたり、ちょこまかと動く子ども目を配るのに苦労している親がいる――自分が子を持つ前は、世の中に幼子連れがこんなに多いなんて気づかなかった。気にならなかったのに。
「そうだ、ヴィル、寄りたいところがあるの」
「どこでも」
 そんなふたりが次に立ち寄ったのは、デパートの子供服売り場。ちょうど買い足したいものがあったのだ。
「この服かっこいいわね、似合いそう」
「その隣もいいんじゃないか」
 展示されている服を見ては、息子がそれを着たところを想像して。予定にはなかった服をつい購入してしまった。
 デートのはずなのに、息子のことを常に考えてしまう。これじゃあ、いつもと変わらない――そう気づいた二人は顔を見合わせて、頬を緩める。たとえ息子がここにいなくとも、自分たちは彼の父親であり母親であるのだ、そう、強く感じて。そうである自分たちに、すこしばかりの誇りを持った。


「お土産は全員分買えたかい?」
 その後もいくつか気になる店を回って。今は喫茶店で一休みしていた。おひさまのたくさん降り注ぐこの日は、歩きまわるとすこしばかり汗ばんだ。頼んだアイスコーヒーで喉を潤す弥生に、向かいに座るヴィルヘルムは問う。
「そうね、あとはお茶菓子でも買おうと思うのだけど……ヴィル? 喉乾いてないの?」
「いや……そんなことはない」
 アイスコーヒーに手を付けていないヴィルヘルムを彼女はしっかりと見ていて。ヴィルヘルムは何事もなかったかのように汗をかいたコップに手を伸ばしてごくりと一口。さすがに用意してきたプレゼントをいつ渡そうかと考えていたことまでは、見破られていないようで少し安堵した。
「一休みしたら、もう一軒寄ってもいい? 雑誌に載っていたお菓子屋さんが気になっているの。お土産にいいかなって思うのだけど」
「ああ、もちろん付き合うよ」
 結局振り返ってみれば、買ったのは子どもを預かってくれた弥生の身内と、息子へのお土産ばかりだった。自分たちのものは何一つ買っていないのに、それでも、不思議と幸せなのだ。



 晴れた日の夜は、夜景も綺麗に見える。窓の外に広がる光は人工的なものだけれど、それでも美しいと感じるのは不思議だ。大自然の星空とはまた別種の、つくりものならではの美しさがある。
「乾杯――誕生日おめでとう」
「乾杯――ありがとう、ヴィル」
 そこは前から気になっていた、夜景の素敵なレストランだった。幼子連れではいることはできない雰囲気であるため、いつか機会があったらと思っていたのだが、思ったより早くその機会は訪れた。
「でもヴィル、いつの間に予約したの?」
「企業秘密」
 弥生の身内が息子を預かってくれると決まったあと、弥生は息子の世話に必要なアイテムの置き場所や説明、ぐずった時の対処法などを教えていた。その間にヴィルヘルムは電話を一本入れただけである。
「お料理も美味しいし、夜景も素敵。ここにいると、なんだか子どもが出来る前に戻ったみたいね」
 決して息子を産む前に戻りたいと願ったことなどない。初めての育児はままならぬことがたくさんで辛い時もあるけれど、弥生には支えてくれる夫がいる。そして何よりも、息子が笑えば、幸せそうに眠っていれば、自分も多幸感で満たされてしまうのだ。
 でもこうして、子どもが生まれる前のようなデートをするのも悪くはないと思っている。息子のことをひと時も忘れられないのは今の弥生と前の弥生との決定的な違いだけど、でもこうして愛する人と二人で夜景を眺めると、彼を思っていたあの頃の思いがこみ上げてきて、不思議とより一層彼を愛しいと感じるのだ。
「弥生」
 コトン……テーブルクロスの上に差し出されたのは、綺麗に包まれてリボンで飾られた小さな箱。
「バースディプレゼントだ」
「ありがとう。なにかしら……開けても?」
 もちろん、とヴィルヘルムが頷いたのを見て、弥生は包みをほどいていく。すると中から現れたのは、弥生が前からほしいと思っていた口紅。
「ヴィル……」
「気に入ってもらえたかな?」
 口紅をじっと見つめる弥生に、ヴィルヘルムは小さく首を傾げるようにして問うた。ちらっと視線を上げて、弥生は彼の表情を見る。
(……ヴィルは知らないのね)
 実は、男性からプレゼントされる口紅には『(キスで)少しずつ返して欲しい』という意味があるのだ。だが贈った当人は、その意味を知っているようには見えない。
「ありがとう、とても嬉しいわ」
 弥生は口紅を手で抱いて、嬉しさゆえの笑みを見せる。
「いつもありがとう、ヴィル」
 そしてその笑みは、彼だけにしか見せぬとっておきのものに変わって――。
「――ああ」
 夫が満足気に返したのを聞きながら、弥生は心中で一つの企み事を練り始めた。
(お返し、いつにしようかしらね?)
 口紅一本分のお返しにはどのくらいかかるだろう。けれどもこれまでも、これからも共に寄り添って生きていくつもりだから、機会はいくらでもある。


「行こうか」
 会計を終えて店から出てきたヴィルヘルムに、弥生は振り向いて。
「どうかしら、似合う?」
 その唇を、先ほど贈られた口紅が彩っている。先に店を出ていた弥生は化粧室コンパクトミラーを使って、食事で落ちてしまった口紅を塗り直したのだった。
「ああ、君によく似合う」
 その言葉に、弥生は口の端をきゅ、とあげて。
「じゃあ、最初のお返しね」
 柱の陰で二人の影が重なる。
 悪戯っぽい彼女の不意打ちに、ヴィルヘルムは少し驚いたように目を見開いて。
「これからも少しずつ、返していくから」
 ヴィルヘルムがその意味を知ったのは、また後日のことである。

 同じ道を歩いて行く二人。
 これからも、弥生は少しずつ口紅を返していく。
 その相手は、ヴィルヘルムの他にはいない。



                         【了】



■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■

【8556/弥生・ハスロ様/女性/26歳/魔女】
【8555/ヴィルヘルム・ハスロ様/男性/31歳/傭兵】



■         ライター通信          ■

 この度はご依頼ありがとうございました。
 お時間を余分に頂いてしまい、申し訳ありませんでした。
 お子様を預かる身内様の続柄を特定しきれなかったので切り口に迷ったのですが、結果はご覧のとおりです。
 知らないうちに子どもの好きなものばかりが目についたり、子連れに目が行くようになった、というのは私自身にも経験があります。
 子どもを生む前には戻れない、戻らないけれど、それでも二人で過ごした日々を思い出すと、想いが強くなる――そんなイメージで書かせていただきました。
 少しでもお気に召すものとして仕上がっていることを願いつつ。
 この度は書かせていただき、ありがとうございましたっ。
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東京怪談
2016年05月26日

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