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『 膨らみ増す不安 』
満月・美華8686


 洋館の一室。朝早くから差し込むのは清浄なる光。薄いレースのカーテンをすり抜けて、朝日がベッドルームに降り注ぐ。外では木々に集う小鳥たちがピィピィと朝を喜ぶように囀っていた。
 その時、寝苦しさを緩和するために少しばかり開けておいた窓から、はたはたと羽ばたいて迷い込んできたのは一羽の小鳥。花瓶の置かれた出窓に一旦着地し、花瓶の下に敷かれていたレース編みに爪を引っ掛けて不思議そうに首を傾げながら足を動かす。
 しびれを切らしたのか、小鳥はバサッと勢い良く飛んだ。そのおかげで引っかかっていた爪は外れ、小鳥はベッドの上の白い山へと降り立つことができた。ゆっくりと羽を休めて毛づくろいを始めた小鳥。しかし――。

 のそっ……。

 白い山が鳴動するように、そして胎動のようにのっそりと動いた。だが、体の小さな小鳥にとっては十分に驚くべき動きで。

 ――ピチチチチッ!!

 怯えるように悲鳴のような鳴き声を上げ、バサバサと羽を鳴らして逃げ出そうとする。入ってきた窓の隙間が細すぎてわからないのか、小鳥は壁や窓に数度ぶつかり、そのたびにギャ、ギャ、と耳障りな声を上げた。
 のそ……のそ……。白い山がゆっくりと動く。その気配を察してか、小鳥はより一層あちらこちらへとぶつかりつつも、なんとか元入ってきた隙間から外へと飛び出していった。
(……小鳥は無事に外に出られたのね)
 白い山――否、満月・美華は小鳥が無事に外に出られたことに安堵した。自分の肥大化した腹が、自分が動いたことが小鳥を驚かせてパニック状態にしてしまったことを申し訳なく思いながら。
 美華のお腹はあれから膨らみ続けていた。ガイアの書の数字は『30』で止まったものの、彼女の身体は恐ろしく肥満化し、お腹は両手で抱えねば歩けないほどになっていた。
 当然、市販の夜着など着用できるわけもなく、特注の、下半身を収めて余裕のある形のネグリジェを着用していた。パジャマとなるとやはりおなかが邪魔をしてとてもじゃないが着用できない。ネグリジェのように下半身を縛るもののない形のほうが、お腹も楽だった。
 今日のように仰向けで寝ることもあったが、時折苦しくなるので普段は横を向いて眠っていた。上手くリラックスできるようにと、抱き枕のような物を抱いて。
 起き上がる時も、仰向けの状態から腹筋運動のように起き上がることはできない。横を向いてベッドに手をついて、重い上半身を押し上げる。ベッドの縁から足をおろし、手の届く距離においておいた、木でできたたアンティーク風のハンガーラックから、これも特注のドレスを引きずり下ろした。立ってお腹を抱えたままでは着替えるのは難しすぎる。美華はベッドに腰を下ろしたままなんとかネグリジェを脱ぎ、たっぷり時間をかけてドレスへと着替え終えた。
 それからお腹を抱え、踏み外さないようにゆっくりと階段を降りて厨房へと向かう。そして肥大した身体を揺らしながら食事の準備をするのだが、立ったままでは足腰に負担がかかり、手もお腹を抱えていて自由にならないので椅子に座って台所仕事をする。身体が大きくなっていくごとに、次第に食事は簡単なものへと変化していった。座っていても、台所仕事をするのが辛いのだ。
 次へ向かうのは浴室。ありがたいのはこの屋敷の浴槽が広いことだ。普通の家や賃貸住宅の浴槽では、今の美華は入れない。入っても無様に浴槽にはまって出られなくなってしまうことは想像に難くない。
 たっぷりためたお湯の中では浮力が働き、少しだけ楽になるのだ。
 幸いこの屋敷で暮らしているのは美華だけ。行儀が悪いが浴槽に浸かったまま頭を洗ったり身体を洗ったりしても誰も文句はいわない。今の美華にはこうして風呂にはいるのが一番負担のない方法なのだ。

「……ふぅ」

 入浴を終えて苦労して着替え、身体の火照りが静まらぬままに美華は居間のソファーに腰を掛けた。腰を下ろすとソファのスプリングがぐん、と沈み、キィ……と悲鳴のような音を鳴らすのにも慣れた。
(このままでは……)
 重い息を吐き、美華は沈んだ表情で居間の壁に飾られている鏡を見やる。ソファーに沈んでいる今、映っているのは美華の一部だけだが。
(私は、ただ『生きているだけ』の肉塊になってしまうわ)
 あれだけ欲していたスペアの命は手に入れた。だがそれと引き換えに、美華はたくさんのものを失い、そしてたくさんの制限を受けている。彼女自身が自覚している通り、今の彼女はまさに『ただ生きているだけの肉塊』。それ以上でもそれ以下でもない。
 だがその状態を誰よりも憂えているのは、美華自身であった。
(スペアの命を手に入れようとしたことが間違っているの? ――いえ、私は死ぬのが怖い。この『命』がなくなったら、私は……)
 新しく手に入れた『命』は、確かに美華の『死』への不安を和らげてくれた。でも。

「このままでは、死んでいるのと同じだわ……」

 ここの所ずっと考えていた。このまま『生きているだけの肉塊』でいるのか、それとも――。
 恐怖とも戦ってきた。この『命』がなくなった時のことを考えると、襲ってくる恐怖と――。

 そして美華は決めた。ゆっくりとお腹を抱えてソファから立ち上がり、居間を出る。



 大きなお腹は足元を隠す。階段を降りるのも怖いが、上るのも大変だった。つま先でなぞるように階段を確かめながら一段。次の段にかけた片足に力を入れ、手すりにもたれかかりながら重い身体を引き上げる。降りる時と同じくらい、否、下手すればそれ以上時間をかけて美華は二階への階段を登った。息が切れて小さな休息を何度も挟んだ。この身体になってから、何をするにも時間がかかる。こんな時、時間の束縛のない暮らしをしていることを良かったと感じざるを得なかった。
 階段を登り切り、よたよたと、足を引きずるようにしながら絨毯の敷かれた廊下を行く。向かうのは、書斎だ。
 扉を開け、横向きになってなんとか室内へと入る。そして向かったのは、ガイアの書の元。
(術式の解除はしたくなかったけれど……)
 このままでは明らかに美華の最初の目的とは違うモノが出来上がってしまう。いや、最初に書いた数字が増え始めたことに気づいた時に決断していればよかったのかもしれない。でもあの時は、折角手に入れた『命』を失いたくない気持ちでいっぱいだった。
 だから、今、こんなことになっているのだ。
「もう……」
 美華にとっては苦渋の決断である。ガイアの書を手に取り、魔力の流れを感じつつ解呪の言葉を唱える――だが。

「解除できない!? どうしてっ……!!」

 ガイアの書が、美華の魔力を、魔力に流れる命令を受け入れない。

 バチンッ!!

 強い電気が弾けたような衝撃で、美華はガイアの書を落としてしまった。絨毯の上に落ちた書は、どこかのページを開いた状態で――美華が確認できたのはそこまでだった。
 強烈な光が、美華の全身を包み込む。反射的に目を閉じた彼女。眩しくて、とてもじゃないが目を開けてなどいられない。


 眩しい、眩しい、眩しい――何が起こったの……?


 そう思ったことだけは覚えていた。



 寝室の窓から、清浄なる朝の光が差し込んでいる。窓の外では小鳥たちが楽しそうにおしゃべりしていた。

「えっ……」

 思わず声が漏れた。
 自分は、書斎でガイアの書に解呪を拒まれて、そして光りに包まれた――はずだった。
 なのに今彼女がいるのは、自分の寝室のベッドの上。
 朝日が差し込んでてる――朝?
(うそ……あれは夢だったの?)
 夢にしてはリアルな時間を過ごした。けれども自分がいつの間にか寝室のベッドの上で寝ている以上、夢だったとしか思えない。美華は身体の向きを変え、いつもの様に腕に力を入れて上半身を起きうがらせる。その時。


 どくんっ……!!


「っ!?」


 おもわず美華は動きを止めた。かすかではあったが、またお腹が脈打った気がしたのだ。
「……気のせい、よね……」
 弱々しくつぶやき、美華はゆっくりと巨大な腹をなでた。





                         【了】





■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■

【8686/満月・美華/女性/28歳/小説家・占い師】



■         ライター通信          ■

 この度はご依頼ありがとうございました。
 私事でお届けが大変遅くなりまして申し訳ありません。
 続きをかかせていただけて、とても嬉しいです。
 細かいご指定のなかった部分はこちらで創造させていただきました。
 少しでもお気に召すものとして仕上がっていることを願いつつ。
 美華様がこれからどうなっていくのか……気になっています。目が離せませんね。

 この度は書かせていただき、ありがとうございましたっ
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2016年07月06日

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