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『孤月と、盃二つ 』
ka3319


 茫、と。男の瞳は空を見上げていた。
 深々とした静けさの募る、黄昏も過ぎた宵の口のことである。

 依頼を受けて訪れた街で、鵤(ka3319)はほう、と息を吐く。使い込んだ足が、熱と疲労を訴えていた。

 けれども。

 ――それはもう、見事な月だったのだ。夜闇に明るく光を放つ、柳眉の如き月の姿。
 土地勘がないこんな場所で、安酒を呷る気や、疲労感など吹き飛んでしまった。

「どうかしたのか?」
「……と」
 呼びかけられた事に気づいて、自然、懐へと手が伸びていたことに気づく。
 硬い感触が、鵤自身の熱をともなって返ってくる。
「やぁー、なんでもないよぉ」
 振り返り、にへらと笑ってそう返した。手は、白衣の懐にいれたまま。
「悪ぃけど、今日は疲れたから先に返っとくわぁ」
 月に背を向け、今宵の安宿へと、歩を進めたのであった。



 硬い音が二つ、狭い部屋にこぼれて落ちた。窓辺に椅子を置いた鵤が、二つのぐい呑みを窓枠に置いた音である。田舎だけあってか、夜は早いのだろう。辺りはすっかり静まり返っていた。
 だから、というわけでもないのだろうが、鵤の所作も静かなものだ。いっそ不自然なくらいに物音一つも立てずに椅子に座ると酒を注ぐ。
 身を預けると、不平を零すように軋み鳴る音に対して鵤は僅かに鼻を鳴らすと、室内にようやく生の気配が滲み出た。赦しを得てはじめてそうしたかのように、ゆるやかに。
 ついで鵤が手にとったのは、ぐい呑み一つ。窓辺に置き残された、赤茶に煤けた汚れがあるぐい呑みに波波と注がれた酒が、朧ろな月を映す。

 鵤はその痕を眺めながら盃を持つ手を掲げ、

「乾杯」

 と、小さく呟いた。



 一人と、盃ひとつの、静やかな酒であった。
 しかし、月を眺める鵤の、その顔には、常と比べて何処か影がある――否、色も無い、というべきか。その普段の彼を知るものであれば、誰しも驚嘆したことであろう。作りものめいた、人形のようなそれ、である。

「……」

 ただ、静かに呷る鵤は、酒の味など味わっているとは思えない顔つきであり。
 事実、その通りであった。機械的に、ただただ口元に運ぶだけ。路上で月を見上げた時と似た表情で、

 静かな夜だ。そんな胸中を彩るのは、窓から注ぐ月の光と……、

 “――なぜ、裏切った”

 片割れのぐい呑みに澱となって凝り、沁み込んだ想い出ばかり。




 なぜ、と問うたその理由は、今になっても解らない。
 あいつは、俺たちを裏切った。相棒である俺は自らの潔癖を証明するために、あいつを殺さなくてはならなかった。

 だから、殺した。

       ――殺せるはずがなかったのに。

 結果として、俺の、ただ一人の相棒だったあいつは、死んだ。

       ――俺の手で、殺した。

 今の俺には解る。
 あの時の問いは、溢れる血に引き出されるように零れた言葉だったのだと。

 求めていたのは、理由。ただ、それに尽きた。
 俺自身の手で喪われていく相棒。たとえそれが、了解できるものでないとわかっていても、あの時の俺には、求めることしか出来なかったのだ。

 ――あいつは、それを、解っていたのだろうか。

 最後の時。死に往くあいつの傍らに、俺は立っていた。
 その距離は、あまりにも遠かった。俺が、近づく愚を侵すはずもなかったからだ。死に際の相手ほど、最後の牙を突き立てることは身にしみて解っていたから……。

 状況は、つくづく俺たちの最後の会話に、相応しいものだった。

『な、ぜ……?』

 あいつは、笑っていた。
 身動きひとつも、しなかった。動ける身体では無かった? ……違う。
 あいつは言葉を遺せた。ならば、指を伸ばすことも、腕を伸ばすことも出来ただろう。
 ただ、それをしなかったのだ。おそらくは俺が――あまりに、窮迫していたから。動けば、あの時の俺はすぐにでも、殺していた。
 あいつは、それを望まなかった。

『ほん、とに……ば、かね……』

 硬いアスファルトは、血を失っていくあいつにはさぞ冷たかっただろう。
 月明かりが僅かに届くこの場は、あいつにはさぞ暗かったことだろう。

 それでも、あいつは俺をまっすぐに見た。仰向けに斃れたまま、まっすぐに。

 ……血に咽せ、口元から血の泡を零すあいつは、それでも、美しかった。

『…、…………、……』

 最後の言葉は掠れ切り、消えかけていた。

 微かに動く唇から生まれた言葉が、すぐそばの、無機質な地面に落ちて、はじけて、消える――。



 気づけば、月が随分と傾いてきていた。
 小さな器ではあるが、数も重なれば用意した酒も尽きようとしている。酒瓶の感触も随分と心許ないものだ。
「こんなもんなら、もっと用意しときゃよかったな」
 嘯きながら、残る器を手に取とった。茶錆のついた器には、もはや月は映ってはいない。器を、酒がこぼれぬように揺らし、傾けながら月を見た。
 随分と地平に近しくなった月は柔らかで、清廉な月光が、鵤をまっすぐに射抜いている。

「……」

 その眩さゆえにか、男は目を細めた。そうして、無言のまま器を傾け、酒を窓の外へと捨てる。

 ーー解ってたんだろうな。

 窓から落ちていく雫を見下ろしながら、鵤は胸中で零す。
 余裕の無い問いに、相棒は十全に、完全に、答えてみせたのだから、と。彼はそう思う。

 幾度めかに、月を見やる。遠景の山々が描く地平に沈みゆく、孤独な月を。

 ふと、声が聞こえた気がした。あの時の、かすれた声が。


“貴方は道具として正しく、私は人として正しかったから死ぬ“

 責め立てるでもなく、ただ事実を示す、相棒らしい声音。

「……そうだよな」

 この応答も、幾度のものだろう。それでも、鵤はそう応じる。あの時以来、彼はそうして生きてきたのだから。

「そうじゃないと、生きていいはずがない」

 冷えた声色で呟く鵤から目を背けるように、月は巡りーー終には、消えていった。

 死者は、語るすべを持たない。鵤もまた、死者の声を顧みることはなかった。

 ーーゆえに、鵤の在りようを指摘する声は、終ぞ聞こえることはなかった。


登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【ka3319 / 鵤 / 男性 / 44 / 孤独な月に、血塗れの盃】


ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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 お世話になっております。ムジカ・トラスです。この度は発注いただきありがとうございました。
 鵤さんの過去のお話を一部詳らかーーというと大仰ですが、それを描くノベル、です。
 普段の鵤さんと雰囲気が違うのは、昔の鵤さんはこんな感じかな、ということでひとつ!

 今後の鵤さんの物語がどのように描かれていくのか、楽しみにしつつ……またの機会がありましたら、よろしくお願い致します。
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ファナティックブラッド
2016年07月14日

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