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『恩返し 』
阿翔玲・−8849

「やれやれ……。ここにあるのも、買い手がつかなければ廃車か……」
 閉店間際に、目の前にある一台の軽バンを見つめながら溜息混じりにそう呟いてガレージから出て行くと、ガラガラと派手な音を立ててシャッターを下ろした。
 中古車店のガレージにしまわれていたその軽バンは、少しばかりひび割れたガラス窓から差し込む月明かりにぼんやりと浮かび上がる。
 白いボディはそこそこ手を加えられてはいるものの、やはり型落ち。このままただひっそりと廃車になるその時を待っているかのようで、少し寂しげに月明かりに影を落としていた。
 しかし、その翌日。いつものように中古車店は開店し、他の車に混じってガレージにしまっていた軽バンをいつものように売りに出しているとふらりと一人の男が現れた。
「すいません。少しお聞きしたいのですが、そこの軽バンおいくらですか?」
 訊ねた男性に店主は驚きに目を見開く。
「え……それですか?」
「はい。移動する際の足になる物をできるだけ安く手に入れたいので……」
 そう言ってニッコリ微笑んだ男性は、まだ年若い探偵だった。
 店主は少しばかり気後れしつつも、廃車扱いになる事はほぼ決定的だった軽バンの買い手がついた事を喜ばないわけではなかった。
 廃車にするにも金が掛かる。ならば、安価でも売れてくれた方がいくらかの儲けになるのだから、この申し出を断ることは当然ない。
「その軽バンだったらもう廃車寸前だったし、お客さんの言い値でいいよ」
 店主の気前の良さに、探偵の若者は少しばかり頭を捻ると懐に手を入れて厚みのある封筒を差し出した。
「じゃあこれで……」
 差し出された封筒を受け取り、中を確認した店主はまたしても驚いたような目で若者を見つめる。
「こんな金額で……?」
「はい。それで大丈夫ですか?」
「あ、あぁ、そりゃあもう……」
 店主の考えていた以上の金が入った封筒を握り締めながら何度も頷き返した。そして店主は買取契約書にサインを求め、車のキーを手渡すと満面の笑みで軽バンを若者に売ったのだった。


 若者が軽バンに乗り自宅へ着くと、さっそく自分の家のガレージに入れて満足そうに見上げた。
「うん。なかなかいい買い物だった。もう少しで廃車になるって言っていたけど、こんないい買い物が出来るとは思わなかったな。僕の手でまた直してあげるからね」
 そう言いながら軽バンをそっと摩り、部屋へと戻っていった。
 いつもとは違うガレージに入れられた軽バン。綺麗に整理されたガレージに、ひび割れていない小窓からは眩しいほどの日差しが降り注いでいた。
 部屋に入っていた若者が作業着を着込み、工具の入った重たそうな入れ物を抱えてガレージに戻ってくると、早速軽バンを直し始める。
 中古車店にあった時も簡単な手入れはされていたものの、見えないところは錆や埃にまみれて汚れている。
 若者はそれら全てを自らの手で少しずつ時間をかけながら綺麗に直し、やがて峠での公道レースに出られるほどカスタムチューンした。
「よし、それじゃあひとっ走り走ってみるか!」
 若者は車に乗り込むと、早速今日行われると言う公道レースに向かった。
 車道を滑るように軽快に走る車に、ハンドルを握っていた若者も嬉しそうに声をかける。
「今日は随分機嫌がいいじゃないか。なかなか快調だよ。これならレースに期待が持てそうだ」
 喜々として微笑む若者に、再び走る喜びを与えられた軽バンは心なしか嬉しそうに見えたのは気のせいではなかったかもしれない。
 レース会場の峠にやってくると、皆自慢の車に乗り込んで一斉に走り出す。若者の乗った軽バンも軽やかに疾走するものの、やはり他の車よりも僅かに遅れをとってしまいがちだった。
 若者はレースを終えると、必ず帰ってから手入れやカスタムチューンを繰り返す。やがて、下手なスポーツカーは十分にカモれるほどのパワーを秘めた車へと変貌を遂げた。
 走る事の喜び。大切に扱われる事の感謝、廃車寸前から救ってくれたご恩……。
 軽バンはある日の夜、止められていたガレージの中でひっそりと一つの思念を宿した。
 この恩を返したい。もしも叶うなら、これから先もずっと共にあり続けたい……。そんな想いが来る日も来る日も強くなっていく。
 そんなある日。何用か用事があり、もはや軽バンと共に出かけていた若者は、路上に車を止めて街角で人と待ち合わせていた。
 腕時計を気にしながら待ち人を探す若者の下へ、一人の女性が駆け寄ってくると2人は楽しそうに会話をし始めた。その姿を遠巻きに見ていた軽バンは酷い嫉妬に胸を焦がす。

 私も女になれば、主人を独り占めできるのに……。

 むくむくと湧き上がる嫉妬心だが、今の自分はただの車。若者が乗らなければ動くことさえままならない。
 悶々とした思いを抱えながら女性と談笑する若者をただただこの時はじっと見つめることしか出来なかった。
 その日も、いつものように若者の自宅ガレージに帰ってくると、静かに降り注ぐ月明かりに照らされながら軽バンは一人主人への思いを募らせる。

 昼間、若者と話していたあの女性のように自分もなりたい。そうなることで彼に寄り添いたい。
 車として傍にいられる事も決して悪いわけじゃないが、今自分が望むことはそうではなく、朝起きて夜眠るその時まで片時も離れず傍にいたいと思うこと。

 その思いはとても深く、強い思いとなった。
 薄明かりの元で照らし出された軽バンは、やがてゆらゆらと靄のような物を生み出す。
 白い靄が車全体から沸き立ち次第に人の形を象り始めた。そして、それは一人の女性の姿へと変貌を遂げた。
 付喪神か物の怪か……。おそらく人間ならばそのどちらかでこの現象を呼ぶことだろう。
 生まれ出でた彼女は、自ら得た人の成りを見つめる。しなやかに伸びる手足。触れると柔らかな頬の感触。長い銀色の髪……。
「凄い……。本当に人の姿を得た……」
 女性はほぅ……と、溜息にも似た息を漏らす。
「我が名は阿翔玲……。阿翔玲・ーだ」
 自らの名を呟き、自らの本体である軽バンのルーフに腰をかけながらほくそえむ。その姿はとても幸せそうで、しかしどこか邪にも見えた。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
りむそん クリエイターズルームへ
東京怪談
2016年07月14日

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