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『至らぬ戯れ 』
イアル・ミラール7523)&茂枝・萌(NPCA019)

 ――イアル・ミラール。
 その文字が綴られた一冊のノートがある。それは羊皮紙が用いられた上等な本のような風貌であった。
「気に入らない……もっと何かに使えないかしら」
 名前を指でゆっくりとなぞりつつそう云うのは、イアルから名前そのものを奪った魔女であった。
 彼女は、イアルに強烈な遺恨の感情を抱いている。深く慕っていた姉をイアルにより失っているためだ。
 失ったものを取り戻すことは出来ない。
 だから魔女は、残ったものに復讐し続けるのだ。
「ああ、そうだわ……良いことを思いついた……ふふ……」
 イアルの名前を暫く指でなぞっていた魔女が、そこで不敵な笑みを零して独り言を漏らす。
 何かの『名案』が浮かんだようだ。
 楽しそうにひとしきり笑った後、彼女はノートをその場に置いたままで、姿を消した。

 そこから数分後。
 同じ部屋に姿を見せたのは、萌であった。
 気配を消し、魔女の拠点に忍び込んでいたのだ。
 イアルから共有してもらった記憶装置で、この場所の把握はできていた。以前からIO2自体がマークしていた某所の高級ホテルの地下である。
「…………」
 自分以外の気配は何処にも感じられない。
 天井からすらりと床上に降りた萌は、言葉なく辺りを見回した。
 魔女の強いオーラや影なども、見当たらない。
 そして彼女は、机の上に置かれているノートを目にした。
 音を出さないようにそれをめくると、イアルの名前が刻まれている。直感でこれが呪いの根源だと思った萌は、そのノートを盗み取り、その場を離れる。
 十分もかからない行動ではあったが、あの魔女たちがこんなに容易く呪いの元を手放すのだろうか。
 そうは思ってもみたが、それ以上の探りは出来ずに取り敢えずは帰還することだけを考える。
 萌の脇に抱えられたままのノートの1ページが、淡く妖しく光っていることに彼女自身は気づくことが出来なかった。

「このノートで名前が戻るの?」
 萌が持ち帰ってきたノートを見ながら、令嬢が素直な気持ちを吐露した。
 もっと苦労があるだろうと思っていたからだ。
 イアル本人は、氷の像のままであった。
 野生化の姿を保った状態で、その場の床に固定されている。
「このまま戻して大丈夫なの?」
「そのための固定具だよ。大丈夫」
 イアルの名が刻まれたページを手に、萌と令嬢が氷像の前に立った。
 どういう流れで名前が彼女に戻るかは見当もつかなかったが、取り敢えずは生身の状態に戻すしかない。
「あ、萌……見て。なんか、名前が浮いてる」
「……本当だ。さっきまでちゃんと紙に馴染んでたのに」
 令嬢の指摘で視線を落とした萌が、そう言った。
 ノートの面から、僅かにイアルの名前が浮き上がっている。息を吹きかければ動きそうだと思った彼女は、まず先にイアル自身の凍結化を解いてみせた。
「……グ、ガアァッ!!」
 イアルはやはり、萌たちに牙を向いたままだ。
 襲いかかってこないのは、事前に施した拘束具がその効果を発揮しているためだ。だがそれも、長くは保ちそうもない。
「イアル……今、名前を戻してあげるね」
 萌はそう言いながら、自分の息をノートに吹きかけた。
 すると、彼女の予想通りに文字が空気に乗り、イアルの元へと飛んでいく。
 ファンタジー映画のような光景に、令嬢も萌も目を瞠った。
 直後に緊張のあまり、ごくり、と唾を飲み込んだのは令嬢だ。
 目の前のイアルは、体が文字をゆっくりと吸収した後、動きを止めた。
 それが数秒続いた後、牙を向いていた口も四つ這いの姿も、あるべき姿へと形を戻していく。
「イアル……?」
 萌が小さく、名前を呼んだ。
 するとイアルは瞬きを数回して、萌を見上げた。
 だが、それと同時に床にペタンと座り込み、そのまま寝転がってしまう。
「……っ!?」
 次のイアルの起こした行動に、萌も令嬢も表情を大きく歪めた。
 安堵感から一気に、動揺の感情がその場に広がる。
「ウ、アァン……アァン……!」
 床に仰向けに転がったイアルは、身を竦めて泣き出した。
 しかも、その様子はまるで赤ん坊のようであった。
「ど、どういうこと……!?」
 令嬢が取り乱す。
 その隣で萌は、手にしたままのノートに視線を向けた。
 イアルの文字があったはずのページに、無かったはずの口紅の痕が浮かび上がる。
「!」
 やられた、と思った。
 魔女が高らかに嗤う姿が想像できる。萌は彼女に嵌められたのだ。
「ウワアァン!! アアァン!!」
 イアルが泣き叫ぶ。
 乳を貰えずに飢えているかのような、そんな光景であった。
「も、萌……」
「幼児退行……とでも言えば良いのかな。多分、イアルの名前自体に仕込まれた、別の呪いだったんだと思う」
 慌てる令嬢に、萌が静かな言葉を返す。
 だが、ノートはグシャリと握りつぶされ、明らかに怒っている姿があった。
「どうするの、萌……」
「……今は、どうしようもないよ。イアルは今は赤ん坊の状態なんだから……私達が何とか面倒見てあげないと……」
 萌はそう言いながら、額に手をやった。
 目まぐるしい展開と現実に、流石に疲れが出てきているようだ。
 それでも目の前のイアルを、このままにしておくことは出来ない。
 萌と令嬢は、二人で力を合わせての『子育て』を始める他無かった。

「アァーン……ウワァーン……」
 誰かが声を上げて泣いている。
 子供のような泣き声であって、その実は大人の女性のそれである。
「ん……萌……イアルが泣いてる……」
 疲れ果てて眠っていた令嬢が、泣き声に気づいて目をこすった。
 時計を見ると、深夜の二時過ぎだ。
「……うん、今、行くよ……イアル……」
 萌も眠っていたのか、若干寝ぼけたような声音でそう言いながら、イアルへと足を向けた。
 令嬢はフラフラとした足取りながらも、台所に向かった。ミルクを作るためだ。
 イアルが幼児退行してしまってからもう一週間ほどが経つだろうか。最初こそ戸惑った様々なことが、最近は慣れてきたと感じるようになった。二人ともに未経験な事を体当たりに目の当たりする。それが将来役立つときがあればいい。そんな事すら考えてしまう。
 体は大人のまま、イアルの精神は完全に赤ん坊であったために自ら動くことが出来ずに、泣くばかりであった。
 萌と令嬢は、手探りで子育ての真似事を行い、日々を過ごす。
 ミルクのあげ方やあやし方。今のような夜泣きの対応から、おむつ替えまでと、目の回る事ばかりだ。
「……はい、イアル。ミルクですよ〜」
「あぐ……う〜……」
 令嬢が入れてくれたミルク瓶を受け取った萌は、そう言いながら彼女の上半身を抱き起こしてミルクを与えた。
 そうすると大抵は落ち着いてくれるので、後は一緒に眠るだけだ。
「…………」
 素直にミルクを飲む姿を見て、萌は小さく微笑んだ。
 傍から見ると大変な構図だろうと思いつつも、愛しさを抱けてしまうのだから、不思議である。
 だがそれでも、萌も令嬢も疲労困憊な状態だ。
 今まで何とかやってこれたが、この状況が長く続くのは好ましくはない。
 そんなことを考えていると、イアルの体がビクリと震えた。
「んぐ……っ、げほっ……。な、何……!?」
「イアル!?」
 口に含んでいたミルクを吐き出しながら、イアルが横に転がった。
 言葉を発していたので、正気に戻ったということだろうか。とにかく萌はその場にミルクを放って、イアルの背を擦った。
 傍で再びの眠りに落ちていた令嬢も、その声に飛び起きてイアルを見る。
「……はぁ、はぁ……こ、ここは……」
「イアル、私だよ。もう、大丈夫。ここは私の部屋」
「も、萌……それに、あなたも……」
 突然のことに思考が巡らないイアルに対して、萌は優しく諭すようにそう言った。
 すると彼女は数秒の呼吸を繰り返して、顔を上げる。
 視界にあるのは魔女ではなく、誰よりも信頼した萌と、令嬢の姿だ。
 自分は戻ってこれたのか。
 そう思うと、一気に目尻が熱くなった。だが、泣きはらしたかのように瞼が痛む。
「……萌……わたしは、一体……」
 自分の状態が普通ではないと気づいたイアルは、そう言いながら身を起こそうとした。その際、下半身に違和感を得て、視線をそちらに向ける。
「……っ!? これは、なに……?」
「イアル……貴女は、呪いをかけられていたの。でももう、大丈夫だから……」
 下着ではないものがそこにはある。信じられないような光景を見たイアルは、大きなショックを受けたようだ。
 先程まで精神が赤ん坊であったイアルは、当然排泄も自身では行えなかった。それ故に、おむつを着けられていたのだ。
「いや……どうして、こんな……ッ」
「ね、ねぇイアル……。私と一緒に、シャワーに行こう? そうしたらきっと、落ち着けるから」
 令嬢がそんなことを言ってきた。
 差し伸べられた手を、イアルは数秒見つめた後、自分の手を重ねて小さく頷く。
「萌はそこで少し休んでていいから」
「……うん、ありがとう」
 未だに動揺が拭いきれないイアルを支えて、令嬢はシャワールームへと移動した。
 残された萌は、そこでようやく肩の力を抜いて、深い溜め息を零す。
 何故、イアルの呪いが解けたのかは解らない。
 ただ単に、時間の経過によるものだとは思えないからだ。
 萌はイアルの世話をしながら、気になっていた例の音楽教師の足跡ももちろん追っていた。彼女はやはり、未だに行方不明のままであった。
 そんな経緯がある以上、心からの安堵はまだ出来ない。
 魔女の手腕はどこまでも深く、計り知れない。
「……イアル」
 萌は小さくそう言いながら、その場に倒れ込むようにして疲労を回復するために瞳を閉じた。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
涼月青 クリエイターズルームへ
東京怪談
2016年09月28日

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