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『花は紫陽花、女は忍(1) 』
水嶋・琴美8036
 ふわり、と香った花のような香りに思わず男は振り返る。
 すれ違った女性が着ているのは男が勤めているこの企業の制服であり、おかしな点などはない。けれど、それでも男は微かに感じる違和感に眉を寄せた。
 なにせ、この女は少し……美しすぎる。長く伸びた黒髪は毛先まで手入れが行き届いているのか目を見張る程に艶やかで、一本一本がまるで上質な黒糸のようだ。髪と同じ色の黒色の瞳は日本人らしい穏やかさを携えながらも、自信に満ち溢れ輝いている。すらりとした手脚は一挙一動がしなやかであり、女性らしい魅力に溢れたグラマラスな体は人々の目を引いた。愛らしい桃色の唇は、ふんわりと柔らかそうで思わず触れてみたくなる気持ちを男は必死でおさえねばならなかった。
 こんなにも美しい女が、果たしてこの企業にいただろうか。一度見たら忘れない……否、忘れるどころか心を奪われずっと彼女について考えてしまいそうになる程に魅力的な女だというのに。
「あら、私の顔に何かついていまして?」
 不意にこちらを見やった彼女に柔らかに微笑まれ、男の心臓は高鳴った。彼女の優しげな瞳に射抜かれると、訝しんでいた気持ちすらも二の次なものとなり霧散して行く。彼女にならたとえ騙されたとしても許せてしまう、そんな気にさえなって男は言葉を返すのも忘れしばし相手に見惚れた。今まで見た数々の名画や美しい景色の記憶は霞み、すっかりと男の心は彼女にとらわれてしまう。
 脳がまるでとろけてしまったかのように男の頭は働かずに、ぼんやりとしたままいったいどれだけの時間が経ったのだろうか。ハッと気付き男が正気に戻った頃には、もうその場に彼女の姿はなかった。蜃気楼のように消えてしまった彼女が残した痕跡はその場には何一つなく、先程まで自分は夢を見ていたのではと男は思わず疑ってしまう。
 まさか妖精か天使だったのではないか、という考えまで頭に浮かび男は少しだけ笑ってしまった。その可能性を否定出来ない程に、先程の彼女は人並みはずれた魅力を持っていたのだ。

 ◆

「ふふ、少し油断しすぎですわよ」
 女は手の中にあるものを見て、悪戯っぽく愛らしい笑みを浮かべてみせた。手袋に包まれたその手の中にあったのは、一枚のカードキーだ。先程の男とすれ違った時に、密かに彼のポケットの中から拝借したものである。
 彼女はそれを使い、堂々ととある部屋へと足を踏み入れた。少女はその部屋にあったコンピュータを起動すると、その中に眠っていためぼしい情報を自身のUSBメモリへと移していく。
 情報を手に入れた彼女は何事もなかったかのようにその場を後にし、帰路の途中で再びすれ違った男へとカードキーをバレぬように返却した。カードキーに触れていたのは手袋越しだ。彼女があの部屋に侵入し情報を盗んだ事を知る者は、誰もいない。彼女と、彼女が所属しているある組織を除いては。

「司令、ええ、今終えたところですわよ。警備は薄いですし、どうやら良からぬ事を企んでいる者はこの企業の者ではなさそうですわね」
 近頃不穏な動きを見せている企業への潜入任務を終え、女は自らの所属している部隊の本拠地へと帰還するために道を歩きながらも通信機越しに司令へと言葉を投げかけた。短時間の内になされた上に埃や髪の毛一本すら残さない彼女の迅速な働きに、任務完了の報告を受けた司令も通信機の向こうで満足げな笑みを浮かべている事だろう。
「企業の社員にも不穏な動きはありませんでしたわ。企みに関係しているのは上の一部の者だけか……それとも、この企業は巻き込まれただけの被害者に過ぎないのか」
 真剣な面持ちで少女は考えを巡らせる。近頃、数々の小さな企業で怪しい動きが見られていた。
 近い内に何かが起こりそうだ、と彼女は長年の経験と鋭い観察眼から予測をしている。しかし、今の時点では誰か何を企んでいるのかは不明瞭であり、悪意ある者が裏で動いているのは確かに感じるもののその尻尾を掴む事は出来ていない現状だ。
「今回手に入れた情報から、何か分かればいいのですけれど……」
 そう呟いた少女は、しかし小さく首を横に振ると決意の込もった瞳ではっきりと告げる。
「いえ、たとえ分からなかったとしても、彼らの好きになどさせませんわ。私が必ず、この街の平和を守ってみせます」
 たとえ、相手が怪物だろうが最新の武器を扱う者であろうが、彼女には関係がなかった。今しがた潜入任務を完璧に終えたばかりの彼女だが、優秀なのは潜入に関する事だけではないのだ。戦闘に関しても、完璧にこなしてみせる自信が少女にはあった。
 彼女の名は、水嶋・琴美。自衛隊に非公式に設立された特殊部隊、特務統合機動課のエースであり――代々忍者の血を引き継いだ家系のくの一でもある。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
しまだ クリエイターズルームへ
東京怪談
2016年10月13日

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