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『 帰還 』
イアル・ミラール7523)&響・カスミ(NPCA026)



 ■0■

 どんなに異常な日々であってもそれが全てとなれば人はそれに麻痺し、常態化した現実に順応し、やがて変わらぬ日常として当たり前に受け入れられてしまうものらしい。
 地獄谷に住まう人々が、そこを訪れた者にとっては悪臭でしかない硫黄の臭いが気にならなくなっていくように。それは気の遠くなるような長い年月を経て、イアルもまた気にならなくなっていた。嫌な臭いとはそうでないものという比較対照があって初めて成立するのだ。日が昇り沈むのを百回も数える頃には、そうでない臭いなんてすっかり忘れてしまっていた。二百を数える頃にはそれはいつもの臭いになっていた。
 痛みも同じだった。たとえば人は苦痛を和らげようと脳内麻薬(エンドルフィン)を大量に分泌し、それが快感をもたらすドーパミンの抑制を抑える。それが繰り返される内に、痛みは快感をもたらすのだと体が認識し始める。そうしなければ耐えられないからだ。
 イアルが心地よく楽な方へと流されていくのに多くの時間を必要とはしなかった。
 やがて日が沈む回数を数えられなくなり、獣化姫が自分にぶちまける汚穢も、マーキングするようにそれを擦り付けてくる行為も、最初は見ている事さえ辛かった悪臭を放ちながら涎を垂らし四足歩行する獣化姫の姿も、どうでもよくなった。
 最初は悔恨と嫌悪に涙し気持ち悪さに吐き気を覚えながら、心の片隅で助けてと誰かに祈っていたその心の声も、次第に小さくなり黒く塗りつぶされいつしか聞こえなくなっていった。
 自我は埋もれ、ただ赤ん坊のように外から与えられる刺激に反射だけで応え、異常な日常に身を委ねる。

 そうして数千日が過ぎた。

 それが現実の世界では数時間の事だったと、イアルが知るのはずっとずっと後の事だ。



 ■1■

 響カスミが神聖都学園から帰宅するとパソコンの電源が入ったまま、ルームメイト――イアルの姿がなくなっていた。飲み物でも買いに近所のコンビニにでも行ったのかと首を傾げつつ机に鞄を投げ出すと、その振動にマウスが動いてパソコン画面のスクリーンセイバーが起動を止める。
「……?」
 真っ黒な画面に白い大きなゴシック体で表示されているのは【GAME OVER】。 
 カスミはパソコンの横に無造作に置かれたゲームのパッケージを取りあげた。確か朝、彼女はアンティークショップ・レンの依頼でゲームの解呪をすると話していた。かつて大事件を巻き起こした呪われしゲーム『白銀の姫』。そのプログラムを流用してしまったために、その呪い――プレイヤーをゲーム世界に閉じこめてしまう――まで引き継いでしまったゲームソフトの。
「まさか…」
 カスミは暫しパソコンの液晶画面を食い入るように見つめた。ゲームの解呪は多くの場合ゲームクリアによって成されると聞いている。つまり、彼女はクリアに失敗したという事か。
 そしてゲームの中に閉じこめられた。
 そんな事が現実に本当に起こり得るのか。カスミは視線をさまよわせた。あまり怪奇現象は得意ではない。だけど。この状況から推測してそれしか考えられなかった。一方で時間はどれくらい余裕があるのか検討もつかいない。
 意を決するより他なかった。
 カスミは一つ深呼吸してパソコンの椅子に座った。この手のゲーム経験が乏しかったので説明書に目を通す。
「魔王にさらわれし姫を助けだせばいいという事ね」
 姫はNPCだろうからイアルではないのだろう。イアルは果たしてどんな状態でゲームの世界に閉じこめられているのか。
 マウスをクリックすると挑発的な赤い文字で【Replay】を問うてきた。【Yes】を選んでキャラ設定をしていく。



 ・
 ・
 ・


 カスミは辺りを見渡した。先ほどまで自分のマンションの一室にいたはずなのに、気づけば辺りは草原だ。スーツのままのはずだったのに今は霰もない姿になっている。とりあえず音楽教師という現実のスキルが多少生きるかと職業は歌姫にしてみたのだが、歌姫の衣装とはこういうものなのだろうか。視界の片隅にバーのようなものが並んでいたがさっぱりわからない。
 とりあえずカスミは目に付いた酒場に飛び込んだ。
 イアルの情報は得られなかったが、酒場では魔王にさらわれた姫の話でもちきりだった。魔王の城、魔王の部下たち、現在地…etc.
「姫を助け出せばいいのよね」
 魔王の所在は判明している。つまりさらわれた姫の所在も判明しているという事だ。RPG経験の浅いカスミにセオリーなどなかった。
 レベルをあげてからなどとまだるっこしい事は考えない。所在がわかっているなら、さっさと助け出しに行けばいい。何より、さっさとクリアしてイアルを助け出したい。だからイベントなんて全部どうでもいい。
 単純明快なそれが実はこのゲームの正しい攻略法であった。
 魔王の城を目指して一直線に樹海を進む。現れるモンスターはさほど強くはない。歌は勝手に覚えた。こうしたいと思ったらその歌が耳の奥で鳴る。それを口にすると体が勝手に優雅に踊り出すのだ。この衣装に合った舞のような踊りを。
 程なく適度な経験値を稼いでカスミは魔王城へ到達した。
 魔王城に忍び込む裏口に何故か謎の商人がいたので、魔王の弱点などを教えてもらいつつ、装備品もそれなりに整えいざ奥へ。
 幽閉されていそうな牢を巡るが見つからず、面倒になって魔王の元に乗り込んだら、そこにさらわれた姫もいた。
 カスミは知らなかったが姫は魔王の精神魔法を受ける直前だったのだ。
「姫君を返してもらうわよ!」
 カスミは言うが早いか姫君の元へ駆け寄った。
「おのれ! いつの間に!?」
 激高した魔王が襲いかかる。とりあえず商人から教えて貰って買っておいた魔王の嫌う炎の護札を投げつけると魔王が絶叫した。
 その間にカスミは姫と合流する。
「姫! こちらへ!」
 自分の背中に姫を庇うのと、魔王が護札を退けるのはどちらが早かったか。怒りの声をあげる魔王の目の色が赤から蒼く変わる。それが魔王の弱点属性が変わる合図。カスミは水の護札を投げつけながら、相手を拘束する歌を歌い上げた。
 倒すのではなく拘束したのはイアルの居場所を聞くためだ。
 自分より前に来た勇者の事を問いただすと魔王はあっさり教えてくれた。半世紀ほど前にレリーフの中に閉じこめた戦士がいた、と。
 半世紀? カスミが首を傾げる。
 魔王がカスミの拘束を打ち破った。魔王の攻撃を何とかかわしてカスミは最大攻撃歌を放つ。魔王も同じく攻撃魔法を仕掛けてきた。
 城が吹っ飛ぶほどの巨大なエネルギーとエネルギーのぶつかり合い。本来ならカスミのレベルで魔王と互角に戦えるわけもなかったが。商人との出会いがカスミの明暗を分けたといっていい。
 いや、そもそも商人と出会えた事含めカスミは幸運という加護を受けていた。彼女はステータス画面の見方を知らなかったが、彼女のLUCのステータスは振り切れていたのだ。
 全てがカスミの思い通りになるといってもいいほどの強運をもってして、激闘の末、魔王を倒したカスミは姫を1人で帰すとその足でイアルを探しにレリーフのある場所へ向かったのだった。



 ■2■

「!!」
 その変わり果てた姿にカスミは言葉を失った。かける言葉を失ってしばらくそこに佇んだ。強烈な刺激臭がカスミの鼻孔を刺すのに息苦しささえ感じて近づく事も躊躇われる。
 レリーフに封印されたイアル。そしてそれを陵辱する――カスミが先刻魔王城から救い出した姫と同じ顔を持った――イアルが助け出すはずだった変わり果てた姿の姫。
 魔王の精神魔法により野生化し、イアルのレリーフに向けて粗相をし爪を研ぎ、悪臭を放つ呼気でイアルを陵辱し続けていたその姫は、カスミを見つけると威嚇するように低く唸りながら四足歩行で辺りをうろついた。
 もし、ゲームクリアに失敗していたら自分もこうなっていたのだろうかと思うとカスミはゾッとした。それでも自分を奮起させるように拳を握り野生化姫と退治する。
「もうちょっと待ってね。今、助けるから」
 イアルには届かないだろう事はわかっている。だから半ば自分に言い聞かせるように呟いてカスミは歌い上げた。眠りの歌を。
 魔王が倒れた事で精神魔法の効力も弱まっていたのか、野生化姫はすぐにその場に倒れ眠りについた。
 カスミはイアルに駆け寄ると汚れも気にせず手を伸ばした。硬質なレリーフの感触を予想していたがそれはドロリとカスミの手にまとわりついた。
 吐き気がするほどの悪臭を放つゲル状の魔法物質。それにイアルは塗り固められていたのだ。だが、こちらも魔王が倒れた事により徐々にその力を失い始めているようだった。
「イアルさん!」
 声をかけるが目を見開いたままのイアルは何も見ていなかった。ドロドロと流れ落ちる魔法物質を、さらに拭おうとカスミは手で払い落とす。
 相変わらず焦点の定まらぬ目をしたままイアルの体が前に崩れた。それを支え抱き留める。
「もう、大丈夫だからね」
 カスミはイアルの体を肩にかけるようにし支えると後ろを振り返った。そこで寝ていたはずの姫の姿がゆっくりと光に包まれ薄らいでいく。この世界に救い出されるべき姫は1人という事か。カスミが助けた姫に収束されるのだろう。
 生身に戻っても放心状態のままのイアルを連れてカスミは樹海の中で見つけた湖で彼女の体を洗った。しかし、魔王が言った半世紀という時間レリーフに閉じこめられていたためかなかなかあの悪臭が消えない。
 樹海を抜けスタート地点であった村へ戻ると、世界は魔王がいなくなってお祭り騒ぎだ。
 酒場の隣にある宿屋に泊まるとカスミはイアルと共に風呂に入った。暖かい湯がイアルの心をほぐしてくれるような気がして。
 だが、イアルの目はカスミに向きはするがそれだけだった。
 祭りの花火があがる。
 そんな夜空を見上げていると、夜空に吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
 次の瞬間、カスミは自分のマンションのパソコンの前に座っていた。学園から帰ってきた時のままのスーツ姿だ。慌てる必要もなくカスミの膝の上に頭をのせて眠るようにイアルが床にペタンと座っていた。
 パソコン画面にはゲームクリアのエンドロールが流れている。
 カスミは安堵の息を吐いて、膝の上のイアルの髪に指を絡ませるとそっと撫でた。疲れているのだろう、当然だ。あんな事があったのだ。カスミでさえ思い出すだにゾッとする。胸が痛んだ。
「ゆっくりお休みなさい」
 優しく髪を撫でながら囁きかける。それからどれくらいそうしていたのか、しばらくしてイアルの頭が動いた。目を覚ましたのだろう上体を起こしてゆっくりとカスミの方に顔を向ける。
 きょとん、という形容が正しいものなのかイアルはじっとカスミの顔を見上げた。
「おはよう」
 という時間でもなかったが。カスミが笑いかけると、ふわっとイアルの表情が綻んだ。フローリングの床にペタンと座り込んだまま。
「お腹すいてない? 私、何か作るわね」
 そう言ってカスミが立ち上がる。スカートの裾を何かが引っ張った。いや、何かではないか。
「イアルさん?」
「あーあーうー…?」
「え?」
 邪気のない笑顔でイアルがカスミを見上げていた。いや――

 思えばイアルがゲームの中で野生化姫から受けた陵辱は想像を絶するものだ。精神障害を起こしてもおかしくないほどに。イアルの心はとっくの昔に壊れていたのだろう。でなければ半世紀も耐えられない。

「あーあーうー…」
 舌足らずに自分の名前でも呼んでいるのか。まるで赤ん坊のように無垢で愛らしい笑顔の中にだが、別の何かが潜んでいる。甘えるようにスカートの裾を引っ張るイアルに。

 ――恐怖と絶望と孤独。
 それを抱きしめるようにカスミはそっとイアルを抱きしめた。





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PCシチュエーションノベル(シングル) -
斎藤晃 クリエイターズルームへ
東京怪談
2016年10月31日

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