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『絵筆で紡いだ思い出と 』
和紗・S・ルフトハイトjb6970


 雄大な新緑の山は、濃淡さまざまな紅や橙、黄と移り変わり、それが山の模様となっていた。
 人工物のない大自然の中、樒 和紗(jb6970)はちょっとした自由を手に入れた心持ちになりつつ、獣道すらない山に足を踏み入れていた。
 抱えているのは画材道具。秋の景色をスケッチをしに来たのだ。

 葉や木の枝、石や岩、動物たちの巣穴に滑る足元と、おおよそ人が歩く道ではないが、和紗は撃退士。崖だって大した障害にはならない。
 別の場所には整備されたハイキングコースぐらいあるのだろうが、和紗はできうるだけ自然そのままの景色を見たいがためにあえて険しい道を選んでいた。
 スニーカーの裏から伝わる、腐葉土を踏みしめた頼りない柔らかさ。細い木の枝が折れた感触。つま先にあたって転がる、小石やドングリ。川沿いの苔むした岩のぬめり。それらはコンクリートに塗装された地面では感じられない。
 青臭さとカビ臭さが混ざる森特有の臭い。たまに風に運ばれてくる、銀杏の激臭も秋ならではと云える。
 木の実を集めるリスたちの鳴き声。兎が草木を揺らして走り去る音。鳥のさえずり。葉擦れと風に揺れる枝の軋み。清流の音色や、滝が岩や水を打ち付ける音。
 色彩は遠くからでも見ることができるが、触覚や嗅覚、聴覚で景色を感じ取ることはできない。もっというならば、光の加減や見る角度で色彩すら変わる。和紗はそれらを見て、感じたかった。

 葉っぱやひっつき虫がジャージに引っ付いていても、靴が泥だらけになろうとも構わず、和紗は夢中でスケッチを取り続ける。
 紅葉した葉のカーテンに隠れて寄り添うモズの番は、甲高い声でさえずっていた。
 冴えるような青い実を付けたクサギの実は、朝露を纏って煌いている。
 持ってきたスケッチブックのページが埋まっていくことに、この上ない充実感が和紗の胸を満たしていた。

 時間が過ぎるのも忘れ夢中になって描き続けていた和紗の集中力を途切れさせたのは、不意に森を揺らした強風だ。
 木の幹すら揺れるほどの風は雨のように落ち葉を散らし、実っていた木の実の類を地面に落とす。鳥たちは一斉に飛び立ち、群れになっていた小魚達はどこかに散っていく。
 とっさに押さえた画材は無事だったが、かぶっていた麦わら帽子だけは押さえるのを忘れてしまっていた。頭を離れて舞い上がるそれは、ふわふわと森の奥へと飛ばされていく。
 慌てて手持ちの画材をまとめ、帽子が飛ばされてしまった方向へと和紗は走り出した。

 麦わら帽子はあっという間に落ちてくる木々の葉に隠され、行方が見えなくなる。道の悪さに阻まれたのもあるが、遠目から見れば麦わら帽子の色もイチョウの色も大差がなかったのだ。
 帽子が飛ばされていったであろう方角に足を進める。風が止んで、静けさを取り戻した森には、小鳥のさえずりが戻って来ていた。
 ほどなくして、唐突に草木が途絶える。それは塗装されていない道だった。落ち葉の絨毯で覆われているそれは、緩やかな傾斜で続いている。人の往来がある道なのだろうか。いつの間にか、人里に近い場所まで戻ってきてしまったのだろう。
 あたりを見渡しても、飛ばされた帽子は見つからない。道の端から向かい側にある森にまで飛ばされていたら探すのは困難になってくる。どうしたものかと考えあぐねて、悪足掻きとばかりにもう一度周囲を見渡す。
 目に留まったのは、向かい側にある仏だった。それは落ち葉や雑草の真ん中で佇んでいる。こんな所に仏があるのかと、近づいてまじまじと眺めてスケッチしたくなる衝動に駆られた。

「誰かいるのかね?」

 欲求と理性が戦っている中、背後から声を掛けられる。ついで鮮明に感じた人の気配。はっと眼が覚めたように振り向けば、腰の曲がった老人が穏やかな目で和紗を見つめていた。その右手に、探していた麦わら帽子を持っていた。

 向かいの森だと思っていた場所は、私有地だったようだ。
 そう気づいたのは、仏の横に落ち葉で隠されてはいた石造りの階段があることに気づいたから。
 階段を上った先には日本家屋が佇んでいる。ひっそりとしている訳ではなく、確かな存在感を放つそれを、どうして老人が姿を見せるまで気が付かなかったのだろうか。
 老人は丁寧な物腰で「お嬢さんのじゃろう」和紗の麦わら帽子を手渡す。それを受け取りながら礼を述べ、次いで謝罪の言葉を口にした。

「お宅の敷地とは知らず、失礼をしました」

 この周辺は、間違いなく老人の私有地のはず。見知らぬものが玄関先で仏を眺めていたら、不審に思うだろう。

「いいんじゃよ。こんな所に人が住んでるなんて思いもしないだろう」 
「ですが、私有地であることには変わりありませんから」

 心底申し訳なさそうな顔をしている和紗に、老人は「生真面目なお嬢さんだ」と目を細めた。その視線が、どこか不思議なものを見るような目をしていた。

「そうじゃ。お茶でも飲んでいかんかね。一人暮らしだと話し相手もいなくて寂しいもんじゃ」
「えっと、それは構いませんが……このような山奥にお一人で暮らしているのですか?」
「歳を取ると、都会にいるのがしんどくての」

 拭いきれない違和感をどこかで感じる。けれど、老人の言葉に嘘はなさそうだ。
 帽子を拾ってもらったことの礼や、出会いがしらの非礼を詫びると思えばお茶ぐらい素直にいただくべきだろう。そう思い直し、和紗は微笑んで申し出を受けた。


 その日本家屋は老人の別荘だという。

 家族はおらず、今は隠居してのんびりと余生を過ごしているという。
 都会が苦手と言っても、人が全くいないというのは寂しいもの。和紗に軽く身の上話をする老人は、楽しげだった。

「しかし、こんな山奥まで来るとは、ずいぶんたくましい子だ。最近の若い子はみんなそうなのかい?」
「みんなと言われると難しいですね。私は撃退士ですので、身体能力が一般の方と違うのです」
「撃退士? 最近の職業かい?」

 まさか撃退士を知らないとは。この老人はどれほど俗世から離れていたのだろうか。思っても口に出すのは憚られたため、軽く説明をすると「特殊な警察のようなものか」と納得される。果たしてこの解釈でいいのかはわからないが、まったく違う訳でもないので訂正はしなかった。

「まだ若いのに、そんな立派な勤めを果たすなんて、世もだいぶ変わったようじゃ」
「俺なんてまだまだですよ。私より若くても、もっと活躍している方は多いです」
「謙遜せんでいい。命を懸けて戦うという事は、歳をとっても簡単にできることじゃない。もっと自分を誇ってやるもんじゃ」
「そういうものなのでしょうか?」
「爺のいう事は素直聞くものじゃ。伊達に歳はとっておらんよ」

 亀の甲よりなんとやら。
 石段を登り切り、鳥居にも似た門が二人を出迎える。門をくぐって真っ先に感じたのは、甘い香りだ。真っ先に案内された庭に、和紗は目を輝かせた。

 白石が敷き詰められた地面と、簡素になせないように金木犀の花を咲かせた植木がひっそり配置されていた。入り口で感じた甘い香りは、金木犀のものだったようだ。
 中央には立派な鯉が泳ぐ池が広がっている。一角を陣取るように堂々と存在を主張しているのは、立派に橙色の果実を実らせた柿の木だ。外にある木々は塀にかぶさり、本来質素な塀を彩っていた。
 広すぎないのが逆にいい。古びた家屋にくすんだ縁側の板ですら、風景によく馴染んでいる。これで猫が縁側で眠っていたら、完璧な光景だっただろう。
 そんな光景を目の前にして、落ち着いていた衝動が蘇る。
 木の枝が重さでしなる程に柿を実らせた木も、紅葉に彩られる古びた家屋も、甘く存在を示す金木犀も池も、描きたくて堪らなくなった。
 老人はそんな彼女に、快く「好きなだけ描くといい」と朗らかに承諾して、お茶を淹れに行った。

 和紗は弾む心を抑えきれずに、上機嫌でスケッチブックを開いた。
 丸々と実った柿の瑞々しさはどう表現すればいいだろうか。実をつけてしなる枝の曲線。風に揺られて軋む音すら聞こえそうな立体感を出すには、どの角度から描こうか。
 金木犀の小さな花々が寄り集まる可愛らしさは描ききれるだろうか。甘い香りすら落とし込むために、線を柔らかく描いてみよう。光の入れ方が難しい。
 濃淡様々な鉛筆を指に挟んで代る代る持ち替えながら、和紗はひたすらに表現方法を考える。考えながらも、動かす手先に迷いはなく。
 真っ白な容姿は瞬く間に、黒鉛が描く線にでいっぱいになった。

「こんなに綺麗に描いてもらえると、きちんと手入れしている甲斐があるのぉ」

 切り分けた柿と甘い香り漂う茶を持ってきた老人は、和紗の描いた絵を見て満足げだ。
 瑞々しい柿に舌鼓を打ちながら、書いた絵に色付ける染料を模索していた和紗は、老人の喜ぶ顔に照れくさくなる。好きで描いているもので喜ばれるのは、いつだって悪い気はしない。
 ついつい癖で出てしまいがちな謙遜の言葉は、柿と一緒に噛みしめて飲み込んだ。

「……このお茶は、金木犀ですか?」

 照れくささを誤魔化すように、和紗はお茶に口を付けて問う。金木犀とよく似た甘い香りは、独特だ。どこかほっとする香りと味に、自然とほほが緩む。

「去年この庭で咲いた金木犀だよ。誰かに淹れたのは久々になるの。柿も毎年沢山身をつけるが、一人ではとても食べきれん。干し柿にするにしてね手間での……」 
「確かに、あまり多いと食べるのは飽きてしまいますね。たまに食べるからこそ、という食べ物はありますから」
「何事もそんなもんじゃ。昔は悪餓鬼どもが勝手に採りにきたり騒がしかったが、こうも静かになると少しぐらい分けてやってもよかったかのう」

 昔を懐かしむ言葉。山奥でも、昔は人が住んでいたのか。都会がそう遠くないのであれば、移り住んでしまうのも無理のないことだ。寂しげな老人の姿は、小さく見えた。

「……お嬢ちゃんは、楽しく生きているかね?」

 しばしの沈黙のあと、唐突に老人は問うた。どんな意図があるのかを考える前に、和紗の口は動いていた。

「楽しいですよ。子供の頃は想像も出来なかった日々です。昔は体も弱くて、外に出ることすらできませんでしたから」

 反射的に出た答えに自分でも嬉しくなる。躊躇いもなくそう言えることが、自分でも誇らしいと思えた。

「今は自由に外に出て、好きなものを見て、感じることができる。自分の居場所もあって、傍にいてくれる人たちもいて、心配してくれる人もいて……それはとても幸せなことだと、恵まれていることだというのは、ハッキリいう事が出来ます」 

 言い終えて、言葉を切った後に思い至る。自分のこの話は、目の前の老人にとってはどう感じるのだろうと。独りで長いこと山奥に住んでいる人を傷つけなかったかと。一瞬だけ後悔して、けれど老人の顔を見てその心配は杞憂だったと知る。
 老人は穏やかに微笑んでいた。
 寂しそうな笑みではなかった。嬉しそうだった。けれど、和紗にとってはどことなく切ない気持ちにさせられる。

「――そうじゃ。池の鯉を描いてくれんかの」

 一瞬の沈黙のあと、老人は立ち上がって、庭の中心にある池を示す。
 和紗も描きたいと思っていたので、唐突の頼みごとにも快く応じた。けれど、直前の微笑みの意味も、質問の意図も聞き逃してしまった。

 水面には落ちてきた木の葉が浮き上がり、模様になる。その下を優雅に泳いでいる鯉は、赤と白の綺麗な鯉だ。優雅に水中にたなびく尾びれと背びれの美しさを表現するのは大変そうだと思いつつ、鉛筆を取る。
 老人は横で見ていた。
 他愛もない会話を交えながらも、用紙が埋まるスピードは落ちない。一通り線を描いた後、和紗はそれに水彩の色を付けた。
 色を付け終わって、筆ペンで慎重に輪郭をハッキリ描く。線の太さを違えぬよう。濃くなりすぎないよう慎重に。今見ている景色を噛みしめて、老人と話す楽しさも筆に込めて。こうしていることも幸せなのだと、絵に籠めて伝えたかったのかもしれない。

 出来上がった絵は、老人に手渡した。受け取った老人は、紛れもなく喜んでくれた。それだけで十分意義のあることだったと思う。

 描き上がる頃には、すでに日が傾きかけていた。

「秋の日は釣瓶落とし。ともいう。暗くなる前に帰りなさい」

 絵のお礼だと、風呂敷に包まれた柿と金木犀の茶葉を和紗に持たせた。お土産にということだろう。
 見送る老人の姿に後ろ髪を引かれる思いだったが、遅くなるわけにもいかず、和紗は老人に「また遊びに来ます」とだけ言って、その日は山を下りた。帰り道は整備されていたおかげで、かなり楽だったことが印象に残っている。
 持ち帰った柿もお茶も、ママたちに好評だった。
 ママの一人から金木犀のお茶はカフェインがないから体にいいことや、リラックス効果もあって寝る前に飲むと良いということを教えてもらう。その日は確かによく眠れた。
 翌日も思い出す度に、老人の様子が気になってしまった。「気になるなら、次の休みにお土産を持って行けばいい」と、そんな後押しもあって次の休みに、和紗はまた山に向かうことにした。

「……ここで間違いはないはずなんだが」
  
 たどり着いた場所に、あの日本家屋はなかった。
 場所を間違えたという事はない。あの仏の横の石段を上ったのだから。
 けれどあの家の門があった場所には、塗装が剥げかけている赤い鳥居があるだけ。家屋の玄関だった場所には、小さな稲荷の祠があるのみだ。あの日座ったはずの縁側なんてない。庭だった場所は、ただの荒れ地。塀などはなく、枯れた池と枝しかない柿の木だけが、記憶の名残りを残すのみ。
 とても寂しい場所だった。

 あの老人と家屋はどこに行ったのだろう。
 間違えた可能性も考えて別の場所を探してみたが、似たような場所どころか、道も人工物もなかった。
 どうしたものかと考えて、持ってきた饅頭は結局、稲荷の祠にお供えする。油揚げも持って来るべきだったろうかと、ぼんやりそんなことを考えて帰路についた。

 あれは夢だったのだろうか。しかし、お土産はたしかにあって、自分以外の人たちがそれを口にしている。
 帰宅しても、どう説明すればいいかはわからなかった。
 ……もしかしたら、狐にでも化かされたのかもしれない。そんな考えに思い至ったが、別に化かされたわけではないなと改める。楽しい時間をもらったのだ、と云うことにしておこうと、和紗は思い直す。
 またどこかで会えるかもしれない。そうしたら、今度はあの老人の絵を描こう。何時までも自分の記憶から消えないように。

 過ぎ去る季節や時間は早くとも、描いたものはずっと変わることはないのだから。 




━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【jb6970 / 樒 和紗 / 女 / 19 / 扶桑の枝】


ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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 それは――まやかしとは言い難い、思い出の一幕。

 水無瀬紫織
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2016年11月09日

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