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『縁の底 』
夜刀神 久遠aa0098hero002
 闘いの果て、鷲に引き裂かれた混沌が闇底へと染み入り、より深い底へと墜ちていく。
「兄様――私も共に――」
 妹蛇がすがりついた“兄であったもの”は、水のように、砂のように、芥のように溶け崩れ、彼女の体を流れ落ちた。
「兄様のおそばに――私こそ、兄様の対――」
 妹蛇は憑かれたように、兄を飲み込んだ闇底へその身を打ちつける。白鱗は砕けて剥がれ、兄が愛でた彼女の美しさは損なわれていくが、それでも。
「兄、様」
 兄は自分を置き去り、独り墜ちた。
 兄は自分を見捨てて、独り逝った。
 いえ。
 兄様がそんなことをなさるはずがありません。この私を置いていくはずが……!
 兄様と私、いったいなにがちがうというのでしょう?
 妹蛇は悩み、ついに思い至る。
 命。
 私に生あるからこそ、虚無はこの身を拒むのでは?
 なら。
 兄様に添えない命など、捨ててしまえばいい。
 妹蛇が、闇底に伏した鷲を見やった。
 兄様を屠った鷲の焔が、私を兄様へ導くはず。
 妹蛇は迷うことなく、自身の命を終わらせようとその身を翻した。
 ――妹よ。吾は混沌の熾火となり、虚無より世を支えよう。これにて地上はいくばくかの秩序と営みを保つだろう。
 どこからか響いた兄の言の葉が、やさしく妹蛇の狂気を押しとどめた。
「兄様……私は兄様のおそばに……私を兄様のおそばに……」
 妹蛇は鷲の金焔へいざり寄ろうと身をくねらせたが、どうしても前へ進むことができなかった。まるでそう、兄の長大な尾にからめとられてしまったかのように。
 それが妹蛇にはたまらなくうれしくて、たまらなく哀しい。
「これほど近くに感じられるのに、兄様が見えません」
 ――主と吾の宿縁は切れた。ゆえに、主がたとえ死すとも吾を見出せはせぬ。
「……私はもう、兄様と無縁、なのですか?」
 ――在って無きが吾の本性。いかさま“無限”とはよく云ったものよ。
 兄の声が遠ざかる。
 行ってしまう。
 逝ってしまう。
「兄、様――」
 ――生きよ。主の求めるものは“命”のただ中にあろう。

 地上へと這い出した妹蛇は、未だ意識の戻らない鷲を放り捨てた。
 鷲を兄のそばに置いておけるものか。それだけの思いでここまで運んできたが、あとはもう、どうでもいいことだった。
 鷲を打ち捨て、妹蛇は空を見やる。
 あの秩序の青は、もうじき鷲と神々が流す血で赤く汚されるのだろう。鷲の力を持ってすれば、神々を滅ぼすこともできるのかもしれない。
 そして混沌も秩序も灰に紛れた熾火となる。
 地上に溢れる命が行く先を定める世界となる。
 ――兄様。私は世界を巡りましょう。その中に私が求めるもの……兄様と私を繋ぐ縁の先があると信じて。


 地底よりせり上がる混沌の熱気が消え。
 天空より押しつける秩序の重圧が消えた。
 これまで世界を導いてきたものを失くした命はとまどい、惑ったが、いつしか思い思いの生を演じ始めた。


 あてもなく世界をさまよいながら、妹蛇は見た。海。山。谷。川。森。野。砂漠――あらゆるものを。
 ――世界は、これほどにあざやかな場所。
 たとえば、赤。くくってしまえばただそれだけのものなのに、ただのひとつとして同じ赤はない。
 すべてを飲み込み、絶対の黒で塗り潰す闇底とはあまりにちがう広大な彩の連なり。妹蛇は驚き、眼を見張るばかりであった。
 そして彩の奔流をようやくあるがまま受け入れられるようになった彼女の眼に、ぽつりぽつりと映るものが現われる。
 ――命。
 彩の中を飛び交う虫や鳥。彩の底を行き交う魚や獣。ああ、これが兄の言った命か。
 彼女は世界に多くの命があることを知り。
 やがて、彩に抗う人という命の存在を知った。
 妹蛇には、人が自然と呼ぶ彩を拓き、自らの暮らしを押し通す人という命が歪んだもののように見えてならなかった。
 あの鷲が執心した命だけのことはある。焔で焼くことしかできなかった鷲と同じく、他の命と彩を傷つけ、損なうことしかできぬとは。
 彼女は人を避け、彩のただ中を進み続けた。
 兄との縁を結ぶなにかを求め、しかしなにを見出すこともなく、どこへたどり着くこともなく、ずっと。

 そして。
 どれほどの時が流れ去った後のことか。
 彩の中に横たわり、その生を終えようとしている老人と出遭った。
 ――人!
 妹蛇は花の影に身を潜めようと思ったが、やめた。
 彼女に身を隠さなければならないやましさはない。隠れなければならないのはむしろ、彩と命を奪い続ける人のほうだろう。
 そう思いながら、妹蛇は老人のそばを通り過ぎようとした、そのとき。
「飢えては、おらんか」
 すきま風のような声音が乾いた唇から漏れ出して、妹蛇を引き留めた。
「……たとえ飢えていたのだとしても、あなたを喰らうつもりはありません。穢れた命を取り込めば私自身が穢れます」
 老人は喉の奥をひゅうひゅう鳴らす。笑ったのだと気づくまで、妹蛇にはしばしの時間が必要だった。
「いや、儂を喰わせてやろうというのではない。まだ生きておるからな」
 投げ出したままの腕をそのままに、指だけで差した先には、風雨に汚されたずだ袋がある。
「干し肉と、水がある。少しばかりの金もな。儂にはもう無用のものだ」
 なぜ立ち止まってしまったのか。なぜ応えてしまったのか。
 妹蛇は老人を見やり、思い至った。老人の眼は濁り、もうなにも見えていない。話しかけた相手が蛇だと気づいてもいないだろう。だからこそ、安心して久々に聞いた言葉というものに飛びついてしまったのかもしれない。
 妹蛇は自分の弱さを恥じながら、それでも会話を続けてしまう。
「あなたが食べればいいでしょう。そうすれば、あといくらかは生きられます」
「もう充分に生きた。ここで死ぬと決めた。腹が満ちれば、決意を詰め込んだ肚に障る」
「なら独りで死になさい。私は彩――自然を壊し、他の命を戯れに奪う人となど関わりたくはありませんから」
「ああ。そうだな。ありがとうよ」
 あまりに意外な言葉が、行きかけた妹蛇を再び留めた。
「礼を、言われるような覚えなどありませんけれど」
「うれしかったんだよ。儂にも、最期に誰かと話ができる縁があったんだとな」
 縁などという不確かなものにすがろうという老人が、死を恐れているのは明白だ。
 しかし。縁などという不確かなものにすがり、果ての見えない生をさまよう妹蛇に、言えることはなかった。
 老人が、死んだ。
 妹蛇に見送られ、苦しげな顔で、それでもありがとうと言い続け、ついにその言葉と共に命を失った。
 人ならぬ命にとって、死とは結果だ。ただ生き、死んでいく彼らに残す余韻などない。だからこそ彼らは潔く、美しい。
 対して人は、ただ死ぬだけのことでこれほどまでに思い、語り、見送る者の胸になにかを残していく。
 ――人とは、なに?
 妹蛇は骸を残して先へ進む。
 ここへ来るまで知らなかった、“人”というものへの疑問を抱いて。


 死病に伏せる少女がいた。
「……死ぬのは怖くありませんか?」
 寝床の影に這った妹蛇が、静かに問う。
「痛い。苦しい。死んだら楽になるのかな? でも、死ぬの怖いな。あたし、死んだことないから」
 少女は熱に浮かされたまま、血の混じる言葉を紡ぐ。
「あなたが望むなら、その命を終わらせることはできますよ」
「うん。でも……お父さんとお母さんが悲しくなるの、ちょっとだけでも短くしたいから」
 少女は懸命に生き、二十日の後に死んだ。
 ごめんなさい。
 それは両親の生きて欲しいという願いに応えられなかったことへの言葉であり、自分が死ぬことで悲しみにくれる両親への精いっぱいの言葉だった。
 自分のためでなく、他の誰かを思うがゆえに抱く、無念。
「そのやさしさ、確かに見届けましたよ」
 妹蛇は頭を垂れ、少女の命が消えゆく様を見送った。

 山の麓にある村を救うため、自らの体でもって山崩れを止めた男がいた。
 男は炭焼きだった。山中に住んでいたからこそ山崩れの気配に気づき、準備ができた。代償は、木材を組んで作った柵を固定する楔役として、彼自身が身を挺さなければならなかったこと。
「村人はみな逃げたようですね」
 男と共に柵を押さえる妹蛇が言う。
「ずいぶん木を焼いてきたが、最後はその木にやられちまったなぁ」
 柵の向こうには崩れ始めの土砂が詰め寄せており、そこから突きだした倒木の根が、彼の腹を破ってかきまわし、背中から突きだしている。
「死ぬのが、怖くありませんか?」
 急ごしらえの柵はあちらこちらから甲高い悲鳴をあげている。もうすぐ土砂の重みに負け、崩壊するだろう。そしてすでに助かる道のない男は飲まれ、人知れず死ぬ。
「怖いよぉ。でもなぁ」
 よかった。
 冷たい土に埋もれながら男が残した最期の言葉。
 自分以外の誰かが助かった。そのことへの、安堵。
「その強さ、確かに見届けましたよ」
 男の心を穢さぬよう、土の内に彼の骸を残したまま、妹蛇は山を後にした。

 鷲が人の生を導いたように、妹蛇は数多の人の死を見届け、導いた。
 やるせない死があり、見苦しい死があり、美しい死があった。
 しかし、それらの死すべてには、それまで生きてきた中で育んだ誰かとの縁が――そこに宿る強い思いがあった。
 ――生きるも縁。死ぬもまた縁。だからこそ人は、死を前にして生者へ言葉を残す。求めるのではなく、最期になにかを与えて逝く……有情ゆえに。
 妹蛇はそう思うとともに、自らを顧みる。
 妹蛇は兄との縁だけが絶対であり、唯一であると思い込んできた。
 両極の対としてこの身を捧げるのだと酔い、思うほどの愛を与えられなかったと憤り、兄と心を添わせた鷲を陥れた。
「私は醜く、弱い」
 そして。
「何者をも救わず、救えない」
 兄も鷲も……私を導いた“人”という命も、なにも。


 秩序と混沌の加護を失くした世界には無秩序に生があふれ、その無秩序を制するかのごとく、死があふれていた。
 それらの死を見届け、見送る中、彼女はふと気づいた。
 ああ。
 これもまた縁、なのですね。
 兄との縁しか持たず、切れてしまったそれを追ってきた妹蛇。でも、気がつけばこれほどの縁で“人”と繋がっている。
 ――縁とは、本当に不可思議なもの。
 秩序の世では知る術がなかった、縁。
 なんとも言い様のない感慨を噛み締め、妹蛇は次の土地へ向かおうとした。
 ――こんな私を見て、兄様は嘲笑うでしょうか。それとも……
 と。
 嗅ぎ慣れた臭いが彼女の鼻先をかすめていく。
 この濁った臭いは、あの闇底の……混沌。
 当然、兄のものではない。兄の混沌はその意志を吸って澄んだ匂いを放っていた。
 妹蛇は臭いをたどって進み、すぐに元となるものを探し当てる。
 汚泥溜まりのように沸き出して命を穢し、彩を汚すもの。
 それは混沌であり、混沌ならぬものであった。
「オ、オ、オ、オ」
 汚泥が不格好な人型を成した。なによりも頼りない存在でありながら、なによりも禍々しい暴力を映すその姿。
 ――愚神!
 混沌に成り代わって世界を侵し、鷲によって焼き祓われたはずの存在。
 それが、今になってなぜ!?
 いや、理由は知れていた。
 秩序の残り香たる妹蛇のせいだ。彼女の存在が、どこぞに散っていた混沌の残り香どもを引き寄せた。愚神はその核に使われたということなのだろう。
「オ、オ、オ」
 混沌の愚神は妹蛇へ眼もくれず――汚泥に眼などあろうはずもなかったが――に歩き出す。彼女が後にしてきた、あたたかな命が満ちる町を眼ざして。
 ――まったく、もう。
 妹蛇は肩をすくめるように鎌首をすくめ、混沌の愚神へ跳びかかった。
《神癒》は混沌を殺す薬。しかし、愚神を殺す毒にはなりえまい。それでも。
 ――混沌を殺せばあとに残るは弱き愚神。差し違えるくらいはできるでしょう。
 人の死は充分以上に見た。
 次に人を見るならば、死の終局ではなく生の展開が見たい。彼らの縁が紡ぐ果てなき物語を。
 だから。
 妹蛇の牙が汚泥に突き立ち、《神癒》をそそぎ込んでいく。
「オオオ」
 ぼそり。薬に殺された汚泥がこそげ落ちたが、棒人形のように残った愚神が彼女を捕らえ、その身を半ばから引きちぎった。
「始めから、そうなることは覚悟していましたよ」
 妹蛇は残る半身で愚神に巻きつき、その細い腕を、脚を、動を締め折っていく。
 彼女の臓腑と血が――命が流れ落ちていく。
「オオ」
 愚神の核に残された混沌が彼女の魂を侵し、邪な気に鎧われた泥の爪が彼女の肉を裂く。
 ――愚神を滅ぼすまででいい、保たせて。
 愚神をさらに強く締めつけ、牙で掻き斬りながら妹蛇は祈った。
 そして彼女は愚神を滅し。
 黒く汚された白鱗と共に地へ落ちた。
 ――私は、死ぬ。誰に見届けられることも、見送られることもなく。
 ――それでいい。私の死は誰を悲しませることもなく、多くの誰かを生かすのだから。
 ああ。
 兄様もきっと、そう願えばこそ――
 妹蛇は落ちていく。
 地よりも深き闇底へ。
 闇底よりも深き虚無へ。
 混沌に侵された彼女は今、この世界に残された唯一の混沌であったがゆえに。
『主と吾を再び繋いだ縁が混沌とは』
 ――兄様。兄様なのですね。私はようやく、兄様と共に。
 果てなく落ちゆく彼女を取り巻くなつかしい声音と匂い。
『秩序の熾火たる主と虚無の熾火たる吾。これで世界は保たれるものと思うておったが、それは吾の思いちがいであった』
 妹蛇の失われた命が、兄で補われていく。
 兄が彼女に入り込むほど、兄の匂いは薄れていく。
 ――兄様!?
『秩序と混沌、たとえ熾火であろうとも、在る限りは互いをかき立てずにおれぬ。吾の混沌をもって主の秩序を殺す。混沌たる吾の死をもって、秩序から放された主を生かす』
 ――私だけに生きろなど! 兄様! 兄様!!
『吾が妹よ、主は限りない縁の糸のただ中に在る。主はもう、独りではない。思うままに生きよ。世界には命が……主に伸べられる手があふれているのだから』

 虚無に墜ちた妹蛇は、独りたゆたう。
 ここはどこからも閉ざされた場所であり、どこにでも開かれる場所。
 虚無に受け入れられた兄を宿す妹蛇は、命という確たるものを持ちながらなおここに留まることをゆるされていたが……一歩踏み出せば、彼女は虚無から弾かれ、どこかへ飛ばされるだろう。逆に言えばどこにでも飛べる。
 ただ、どこへ飛べばいいのかが彼女にはどうしてもわからなくて。
 妹蛇はいつまでも続く一瞬の内で途方に暮れるばかりであった。


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【夜刀神 久遠(aa0098hero002) / 女性 / 24歳 / カオティックブレイド】

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 縁を断たれた妹蛇は、縁の円環にて縁を見失う。
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2016年12月05日

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