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『手を合わせましょう 』
飴餅 真朱也ka3863

 それは飴餅 真朱也(ka3863)の記憶の断章。

 気が付けば『知らない世界』にいたのは随分と昔の話、それこそ真朱也がまだほんの子供だった頃。しかし、運が悪かった。移転した先は『ほんの子供』にはあまりに苛酷な環境で。そう、生きるための食事すらままならない状況で。

 飢えと乾きに霞む視界でボンヤリ空を見上げていた。
 嗚呼、あの雲に手を伸ばして、掴んで千切って食べることができれば良いのに。
 そんな発想をボンヤリと、栄養失調で死に逝く脳に浮かべていた。
 きっとこのまま死ぬんだろうと、子供の頭でも分かっていた。乾いた身体からは死にたくないと泣き喚く涙すら出なかった。
 閉じようとした視界に優しげな顔が映ったのはそんな時で。「どうしたの」「大丈夫か」――差し伸べられた手。それは彼の命が長引いた瞬間で。

 運が良かった。通りかかった善良な老夫婦に真朱也は保護され、養子となった。不自由のない生活、満ち足りた穏やかな生活。
 しかし「餓死しかけた」という記憶が少年に与えた影響は決して少なくはなく。真朱也は食物に強い執着を抱くようになっていた。
 少年から青年へ。平和に成長しゆく真朱也が料理人の道を志すようになったのも、そんな「影響」の一つだろう。
 やがて青年から大人へなりゆく。平和でありきたりな、どこにでもあるような、ささやかな人生。昨日と同じ今日が過ぎて行く。そんな人生の中で――

 ――真朱也は生まれて初めての感情を抱いた。

 かつての葡萄の館、その近くに住んでいた女の子。
 彼女に、強く焦がれるようになった。
 彼女を見ているだけで胸が痛い。目が離せない。

 周りの人はそれを恋とか愛とか呼んだ。
 だからそうなのだろうと真朱也は思った。
 あの子も真朱也に「恋をしている」ということを知った。
 惹かれ合う若き男女が夫婦として結ばれるのには、時間を要さなかった。
 婚約の鐘。誓いの接吻。交わした指輪。死が二人を別つまで。

 幸せだった。
 妻となった彼女は明るく聡明で。
 幸せだった。
 確かに二人は愛し合っていた。
 幸せだった。

 ――なのに――

 なぜだろう。
 何かが足りない。
 何か満たされない。
 欲しい。欲しい。……何が?
 胸が痛い。あの時のように? いや、痛いのは腹。空腹だと胃が喚く痛み。
 そうだ、思い返せば。
 あの時も、最初から、痛いのは胸ではなく、空腹だった胃袋で。
 どうして? どうして。
 食事なら毎日食べている。満腹になるまで食べている。
 満腹になったはずでも、どこか頭が「食べたい食べたい」と叫んでいて。
 理由が分からず、満たされぬ謎の欲求は膨らむばかりで。
 寝ても醒めても苦しくて。もどかしくて。

 分からないは恐怖となって真朱也を蝕んだ。
 そんな彼を抱きしめたのは――妻だった。

「いいよ、キミなら。ひとつになっても、私は何も怖くない」

 嗚呼。
 囁かれた甘い言葉を耳で鼓膜で咀嚼して。
 抱きしめる彼女の優しい香りを肺いっぱいに飲み干して。
 見上げる彼女の困ったような笑みを食い入るようにじっと見つめ。
 真朱也は思った。『思ってしまった』。


 ――なんて美味しそうなんだろう――


 そして、気付いた。知ってしまった。あの欲求の正体を、ようやっと。
 己は、彼女を、食べたかったのだと。
 同時に知った。彼女は、妻は、己のことを己以上に解ってくれていたのだと。
 食欲を向けることを知って尚、彼女は――己を――愛してくれているのだと。

 ――彼女は真朱也を、世界で一番愛していたのだと。

 慟哭した。嗚咽を漏らした。
 ケダモノのように泣き喚きながら、彼女の白くて滑らかな――クリームで真白く飾られたケーキのように美しい首筋に、無我夢中で喰らいついた。ぎゅうぎゅう強く抱きしめて、優しく己の頭を撫でる彼女の尊い手の心地を感じながら。

 柔らかかった。
 温かかった。

 噴き出す赤はどんなワインよりも麗しく、舌に吸い込まれてゆくようで。飲み込んだ後すら芳しく、彼の頭を芯まで酔わせた。頭の中で天上のオーケストラが鳴り響くよう。無限の泉のように噴き出してくる、白い合間から次々と。歌っているようだ。絶唱。一滴も零すものか。地面や床にくれてやるものか。みっともないほど音を立てて吸って啜って、ケモノのように舌で舐めて。そんな極上の赤で彩られた白の、なんと艶やかなこと。どんな精密なはたおり機でも、世界で一番の職人でも、こんなに美しく繊細な絹細工は作れまい。暴くように剥いだ薄幕の白の下は薔薇のように赤い、そうだ、まるで、満開の花園。至上の楽園。誰も知らない秘密の聖域。そして、見よ、薔薇の中で整然といじらしく並んだ、ハートを始めとした命の蕾たちを。それのなんと秩序的で神秘的で美しいこと。まるで星座のよう。数学的に完成された美。完璧な曲線、丸み、色彩。呼吸を作り、血流を作り、命を生み出す大事なもの。息が止まる。なんて美しいんだ。手を出すことに背徳的な快感が湧き上がるほど。それを真っ赤に染まった真朱也の歯列が侵略してゆく。赤を暴けばまた白が、堅い白が艶々とキラキラと、地中深くに隠された財宝のように輝いて、彼を優しく出迎えるのだ。誘うのだ。こっちにおいでと。その誘惑に抗えない。這いずるように舌を伸ばした。舌で歯で口全部で抱きしめた。それは春の陽だまりのように優しく、夏の太陽のように瑞々しく、実りの秋の果実のように甘い味。そして――容赦のない冬のように、彼女の体は冷たくなっていく。

 夢中だった。
 震えるほど美味しかった。
 美味しくて美味しくて、哀しくて哀しかった。
 涙が止まらない。
 けれど咀嚼を止められない。

 撫でてくれる優しい手は、ダラリと宙にぶら下がっていた。
 消えて逝く温度を繋ぎ止めるように、彼は軽くなった彼女を抱きしめていた。

 一口、一口、嚥下の度に彼女の体が軽くなる。
 一口、一口、嚥下の度に彼女の体が消えていく。
 一口、一口、嚥下の度に彼女がいなくなっていく。

 それに反比例して、真朱也の心が満たされていく。真朱也の体が満たされていく。真朱也の欲求が満たされていく。体の心の隅々まで、彼女によって満ちてゆく。いやだ、いなくならないでくれ。ずっと一緒にいて欲しいのに。愛しているのに。こんなにこんなに愛しているのに。大事なのに。世界で一番大事なのに。でも美味しい。美味しいんだ。愛しているから美味しいんだ。幸せなんだ。止められない。どうしようもない感情が嗚咽となって零れ落ちる。

「愛してる……愛してる……愛してる……」

 彼女がいなくなって、哀しかった。
 彼女がいなくなるのに幸せだった。

 でも、とっても、とっても美味しかったんだ。







 久方ぶりに妻の夢を見た。寝ぼけ眼をこする左手――その薬指には結婚指輪。
 リフレインする光景。真朱也はふと、そこに偽物の娘を重ねる。

 己はまた同じことを繰り返すのだろうか。
 娘だけでなく、客達にも。
 そうしたら、この賑やかな葡萄の館も、いつか誰もいなくなる?

(俺が俺である限り……)

 だって好きなものは食べずにはいられない。
 だって好きなものは美味しそうで。

 ――それはとても哀しいことだと、同時に思うのだ。



『了』


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飴餅 真朱也(ka3863)/男/23歳/聖導士
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2017年01月31日

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