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『残り香 』
シリューナ・リュクテイア3785)&ファルス・ティレイラ(3733)
「チョコレートカスタードホイップクリーム、行きます!」
 理科の実験にのぞむ小学生みたいな顔で。
 ファルス・ティレイラは、白と黄がマーブルを描くアロマキャンドルに火を点けた。
 たちまちシリューナ・リュクテイアの書斎に満ち満ちる、甘くて甘くて甘い匂い。
「チョコとカスタードとホイップクリームの匂いです〜」
 幸せそうに香りをはむはむ口を蠢かせるティレイラに、プレジデントチェアへ背を預けたシリューナが首を傾げ、ため息をついてみせた。
「3つの香りをひとつに合わせた意味がわからないのだけれど……」
「お姉様は女子の魂、忘れちゃってます!」
 プレジデントデスクをずいと乗り越え、ティレイラは真剣な顔をシリューナの鼻先へ突きつけた。
 そうする前に、火を点けたままのキャンドルをデスクの端にまとめて寄せて、安全確保したのは上出来だろう。なにせティレイラはそそっかしいから。
「カスタードとホイップクリームでシュークリームじゃないですか! そこにチョコがついたらエクレアですよ!? 幸せ! 絶対折れない幸せの三本矢なんですーっ!」
「あー、そう。まあ、そういうことなんでしょうね」
 いつになく押してくるティレイラから顔を離し、シリューナはまたため息をつく。ティレ、いつになったら食欲と折り合えるようになるのかしら?
「じゃあ次はアンコストロベリーモチを」
「それっていちご大福なんじゃないかしら……?」

 そもそもの始まりはティレイラが、近くの公園で開催されていたフリーマーケットでキャンドル売りの露店を見つけたことにある。
「うわー、お姉様! アロマキャンドルですよアロマキャンドルっ! おいしそうな匂いですねぇ――あ、小腹空きましたし、なにか食べていきましょうよー」
「さっき食べたばかりでしょう……あのキャンドルを買ってあげるから、夕食まで我慢なさい」
 まあ、悪い結果を招いたのはシリューナなのだが、なにより失敗だったのは、キャンドルをティレイラに選ばせてしまったこと。
 よくもまあ、これだけ選んできたものだキワモノを! シリューナが営む魔法薬屋で雰囲気づくりに使えるかと思っていたのに、こんな匂いばかりでは常連客が寄りつかなくなってしまう。
「女子にはウケますよー」
 ヒマワリのような笑顔でティレイラは言ってくれたものだが。
 バレンタインを終えた今、店は通常営業体制に戻っている。商品ひとつの値段は5ケタが主力で、6ケタのものも少なくない。そんな店に女子が近寄るものか。
「……とにかく。一度に点けてしまうと香りが混ざってどうにもならなくなるから、1日にひとつ」
 と。
 ひとまとめに置かれた点けっぱなしのキャンドルからしたたり落ちる、蝋。
 それが床の一点に落ちて熱で溶け合い、さらに寄り集まってひとつの白い玉になっていく。
「ティレ、離れて――!」
 深く腰かけていたせいで、立ち上がるまでによけいな数瞬を費やした。
 その間に、白玉は短い手足を生やして走り出し。
 ティレイラに飛びついてべしゃりと貼りついた。
「きゃ!? 熱っ! もぉーっ!」
 反射的に炎魔法を発動しかけたティレイラへ、シリューナがさらに警告を飛ばす。
「熱は抑えて! ここには燃えると困るものがたくさんあることを忘れてはだめよ!」
 そう、ここはシリューナの書斎なのだ。至る場所に魔本や美術品が数多く置かれているし、本棚には貴重な紙資料も大量に収められてもいる。この部屋を失うことは、ある意味でシリューナそのものを損なうことに他ならないのだ。
「うう、わかってますぅ」
 わかっていたふりで応えながら、ティレイラは体にくっついた蝋にじりじりと熱を加える。溶けた蝋がまた床に一滴、二滴と落ちて。
「ええーっ!?」
 小さな白玉人形となってまた走り出した。
「捕まえるわよ!」
 人形ひとつひとつをターゲティング、瞬時に編み上げた重力魔法で押さえつけるシリューナ。
「えっと、照準固定して、限定した空間に魔法を閉じ込めながら発動、ですよね」
 ぶつぶつ確認しつつ術式を編むティレイラも必死で人形を蒸発させていくが。
 人形の数が多過ぎる。というか、今もティレイラからしたたり落ちては増産されている。しかも。
「お姉様! 白玉がーっ!」
 何体もの人形が、火の点いたキャンドルの縁から溶けた蝋を吸っては下に垂らし、どんどん分裂していく……!
「ティレ、そっちに行ったわよ!」
「お姉様そこ! 足元です!」
 手乗りサイズの白玉人形が縦横無尽に駆け回り、さまざまな角度からふたりに飛びついてくる。
 脳などあるはずもないのに、互いに連携し、フェイントまでかけてくるのはなんとも小憎らしいが、それにしても。
 ――迂闊だったわね。
 このアロマキャンドルを作ったのは魔法使いだ。それも本人に自覚のない、潜在的魔法使い。そのような人間が作るものには、微弱な魔力が宿る。
 とはいえ普通であればこんなことにはなりえない。眼鏡だったら視力矯正の度が少し高くなったり、キャンドルなら香りが少しよくなったりと、その程度の効力を発揮するのが精々なのに。
 ――こんなに魔力の高い場所に置いたら、それは暴走もするわよね。
 本職ならぬ魔法使いが、制御することなど考えずに生み出した魔法が、書斎に満ちたさまざまな魔力にあてられて暴走したというわけだ。
「うわ、お姉様っ!」
 いつの間にか、シリューナの足元が蝋で固められていた。アンコカスタードメロンストロベリーハチミツミルクバタークッキーモチラムレーズンの香りがシリューナの鼻腔へ突き刺さる。
「――柑橘系の香りがひとつもないじゃないの! ティレ、これはどういうこと?」
「そんなこと言ってる場合じゃないれすお姉様ぁ!!」
 まったくそのとおり。
 白玉人形はわーわーといった感じで、次々シリューナとティレイラへダイブしてくる。このままでは5分と経たないうち、蝋人形にされてしまうだろう。
「とは言ってもね」
 シリューナは甘すぎる匂いに眉根をしかめつつ、蝋の魔術式を解析して対抗術式を編んでいくが……人形の増殖力のほうが少しだけ上回っていた。
「お姉さら、今助れますらられっ!」
「ティレ! だからここは書さ」
 ろれつが怪しくなった瞬間に気づいておくべきだった。
 ティレイラが、甘過ぎる匂いにやられて酔っ払ってしまったことを。
 止める間もなく、ティレイラは紫炎の柱と化した。
「まったく、しばらくの間お菓子は禁止ね」
 最低限の防御魔法を部屋に巡らせたシリューナの視界は、ティレイラに溶かされた大量の蝋に塗り潰され、ホワイトアウトした。

「……ひどい目にあったわね」
 激しく甘い匂いがする蝋を内から割り砕きつつ、シリューナが顔を出した。
 部屋は床から天井から壁から真っ白。とはいえ大事なものはすべて防御魔法の膜で覆っておいたから、蝋に侵されてはいないはず。
 それを確かめたシリューナは安堵の息を吹き、次いで蝋を掃除する手間を考えて深いため息をついた。とてもひとりで手に負える作業ではない。ティレイラにもきっちり半分手伝わせなければ。
 と、視線を巡らせたシリューナだったが、目当てのティレイラはすぐに見つかった。
「なるほど、そうなるのね」
 部屋の中央で、炎を放った姿勢のまま白蝋に固められた人型。
 奇跡的にティレイラとしての造形を描く蝋人形が、足元から伸びる蝋の軌跡に飾られ、艶やかに輝いていた。
「像というよりはオブジェ……炎を放つ少女といったところかしら」
 人を蝋で固めた人形を愛でるコレクターを描いた猟奇小説があったが、そのコレクターの心情が少し理解できた気がした。
「結局は蝋人形が好きなわけではないのよね。愛してやまないものの一瞬が封入された、熱や衝撃ですぐに溶け崩れて、割れ砕けてしまうもの。その儚さが愛おしい」
 濃密な甘香が入り交じったなんとも言えない臭いが、そう思うだけで得も言われぬ芳香へと昇華する。
 シリューナは壁にかかった蝋を削って固め、芯を刺して火を灯した。
 やわらかな赤い灯が白蝋をあたため、彩づける。
 ティレイラを溶かさないよう注意しながら、シリューナは丹念にその造形を照らし、瞳に焼きつけた。
「指でなぞるのも怖いわね……手触りを損なってしまいそうで。あのコレクター、どうやって蝋人形を愛でたのかしら?」
 触れずにいられるわけがない。
 愛してしまわずにいられまい。
 ながめているだけで満足できるなど、それは本物の好事家ではない。
 今まで幾度となく思い知ってきて、それでもなお捨てられない性(さが)と業に突き動かされるまま、シリューナはティレイラの像をそっと抱きしめた。
 甘い匂いがするのに、味わうことはかなわない。
 ティレイラの形をしていても、これはけしてティレイラではない。
 わかっているのに、どうしようもなく心を動かされてしまう。
 空を飛ぶ鳥へ届くはずのない指を懸命に伸ばす子どものように、ときめいてしまう。
 いや、そればかりでなく。
 ティレイラが“いない”ことが、寂しくてたまらなかった。
 いないティレイラを抱いていることがうれしくて、寂しくて、狂おしくて、哀しい。
 命あるティレの血肉を愛でているときにはいつも、ティレの命が封じられた冷たい殻の感触を思い出している。……こうして命が封じられた冷たい殻を抱いているときには、命あるティレの血肉を恋しく想うくせにね。
 この情愛が歪んでいることなどわかりきっている。
 だからシリューナはティレイラに自分の心を語らない。こんなふうに、絶対自分の声が届かないことがわかっているときでなければ。
「ティレ、私は――」
 伝わることのない言葉をティレイラに伝え終えたシリューナは、想いの残滓とともに蝋燭を吹き消し、倉庫へと向かった。

「……普段ならこんなことはしないのだけれど。どうせ片づけなければいけないものね」
 シリューナがティレイラの前に置いたものはイーゼルだ。
 そこに据え付けた石膏ボードを火炎魔法で黒く焦がし、溶かした蝋を浸した爪先を這わせていく。
 ときに大胆に10の線を引き。ときに時間を費やして1の線を繋ぐ。
 そして。


「……いっつも思うんですけど! どうしてお姉様って私のことすぐ助けてくれないんでしょーか!?」
 ぷりぷり怒りながら宅配ピザにかじりつくティレイラへ、シリューナは薄い苦笑を返した。
 さすがに書斎がこの有様では、料理を作って食べようという気にはならなかった。
「邪竜だからじゃない? ティレをじっくり鑑賞できる機会を逃すほど、私は心清くも正常でもないもの」
「お姉様は邪竜オブ人でなしですぅぅぅぅぅ!!」
 蝋だらけの書斎の中に、今日もティレイラの絶叫が木霊する。
 もちろん、人ではなく竜であるところのシリューナに、人でなしの悪口は届かない。
「もう食べなくていいの? これから掃除しないといけないんだから。すぐに始め」
「まだ食べますもっと食べますおかわりですーっ!!」
 またもや叫んだティレイラが、すぐにかっくり頭を垂れた。
「うう……こんなにまわり中からいい匂いがするのに、食べられないんですよね。でもデザートピザだとご飯食べた気になんないし……」
 シリューナは薄笑み、ティレイラにピザの箱を押しやった。
「私はもういいから、とりあえずお腹を落ち着かせなさい」
 チェアから立ち上がって書斎を出て行くシリューナに、きょとんとしたティレイラが問うた。
「え? お姉様、どこ行くんですか?」
「食べられないデザートを味わいに、よ」

 シリューナは寝室の一角に置いておいた石膏ボードを手に取り、視線を落とした。
 そこには甘い香りの蝋で描きつけられたれたティレイラがいて、シリューナはくすぐったそうに目を細めた。
「……しばらくの間、あの子に言えない私の話を聞いてもらうわね」
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2017年02月14日

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