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『巡る春と、酔い桜 』
和紗・S・ルフトハイトjb6970

命を眠らせ凍てつかせる季節は終わり、命を芽吹かせ育む季節が訪れた。
北風は和らぎ、春風が新芽を揺らす。
日差しは冬の澄んだ鋭いものではなく、春の潤いが和らげたあたたかな光が差し込んでいる。

優しい気候に誘われて咲いたのは桜だ。
数ある花の中で、日本ではもっとも春にふさわしいとされる花。
咲けば浮足立つ人々も多いだろう。

そんな早春の夜は、まだ少し肌寒い。
換気のためと開いた窓からは、冬場よりも湿った風が穏やかに吹き込んで来る。本の数刻前まで小雨が降っていたせいか、何処か土のにおいがしていた。
樒和紗(jb6970)はそんな自室の中で、スケッチブックを捲っていた。それは色とりどりの景色や人々を描いた、和紗だけの思い出の具現化だ。
掃除の最中に見つけた本を読み耽ってしまうかの如く、和紗はスケッチブックを捲る。
どんな景色か、どのような気持ちを抱いて筆を滑らせたか。色も音も匂いもありありと思い出せる。写真よりも鮮明に、体が、この手が描いたことを覚えている。
ある種、彼女が生きてきた軌跡そのものだ。思い出に浸っていたら、ついつい時間を忘れてしまう。

やがて彼女を現実に引き戻したのは、ふとした瞬間に窓から吹き込んだ強い風。
和紗はつられて、窓に目を向ける。

花散らしの雨がやんだ、窓の向こう。
水滴を纏った花は、思い出と変わらずに月明かりと共にキラキラと輝いている。
雨に濡れた桜は、かつてハトコと共に見た雪桜を彷彿とさせた。

――和紗、桜見るとうきうきするよね。

かつて夜桜を見に行ったときの、ハトコの何気ない一言をふと思い出す。

日本における春の象徴。
控えめながらも誰の目にも止まる薄紅色の色彩。
外に出てから初めて見ることの叶ったこの花は、和紗にとって特別な意味をもたらす花だ。

印象に残っているから思い入れも強いのか?
否、それもあるけれど、それだけではない。
何故なら、「桜」という花は、兼ねてから彼女の意識の根柢にあるものだったからだ。

「……美桜」

ぽつりと呟いたのは、自らの諱(いみな)であり、特別な意味を持つ真の名前。
『美』しき『桜』と書いて『みおう』と読む。和紗とはまた違う名前だ。

樒の者は生まれた時に、出生届とはまた別の名前を授かる。
名付けられ方、名付けた名前の理由は様々。
和紗の場合は男としてではなく、女として育てられる場合に名付けられるはずだった諱だ。

跡取りが居なかった樒家の長女。
産まれた時より女としての生を剥奪され、男として擦り込まれ、男の跡取りとして正しくあろうとした半生。

それが崩れ去った12歳のある日。
自分が女だと知り、跡取りが生まれ落ちた弟となり、一つの運命から解放されたと同時に知らされた事実。

『美桜』とは、あらゆる意味で彼女の本来の名前となるはずだったもの。
生憎、樒家の庭には桜はなかった。だから知った当時では、実物は見たことがないものだった。
その桜の花を、いつか見てみたいと庭を眺めて思い始めたのは、その頃だったのかもしれない。

名は体を表す。
最初こそ、命芽吹く春の中ですぐに散り逝く花と聞いて、病弱な自分の体を示すものかと思った。
しかし、桜は木が枯れぬ限り、毎年花開くもの。

これからの人生で花(夢)散らすときもあるかもしれない。
それでも生きていれば、また美しい花を繰り返し咲かすことができるから。
あたたかい春の中で自分の人生を、そして共に歩む誰かの人生を彩れるような……凛と咲き誇る美しい花になってほしい。
そんな願いが込められている名だと知る。

血族のしきたりに縛られない、自分の病弱な体に縛られない人生を。
それは両方とも叶い、新たな居場所も目標も見つけて、和紗はこうしてまた新しい春を迎えた。

家族以外、ハトコの彼ですら知ることのない、樒和紗の秘密。
いつの日か、自分も誰かに恋をして、愛して、結ばれる日がやってくるのかもしれない。
もしもそのような人が出来たのならば、諱を伝えて、共に桜を好いてくれるだろうか。

一瞬だけ、憂いの瞳の彼の顔が、ガラス窓に映った気がした。
振り向いても当然ながら誰もいない。自然に目線が隣の部屋を隔てる壁に移る。

どうしてだろう。彼と共に桜を見上げて笑う自分が脳裏に浮かんだのは。
なぜだろうか。彼がいつも自分を呼ぶように、自らの諱を口にする様子が浮かんだのは。

胸の奥が少しだけあたたかくなったような錯覚。
どこか酒にほろりと酔うような、不思議な気持ちがふわりと浮かび上がる。
唐突に彼に何かをしたくなった。

そうだ。桜のカクテルを作ろう。
せっかく自分も20になったのだ。一緒に飲めるカクテルを…この桜が散ってしまう前に。

諱からここまで思考が飛んだ理由は、彼女自身ではわからない。
無意識に気付かぬよう歯止めをかけているのか、単純にそういった感情の正体に対する知識がないのか。
それは時の流れのみぞ知るところ。

窓から吹き込んだ優しい夜風が、考え込む和紗の頬を撫でて、テーブルに開いていたスケッチブックを捲る。
悪戯な風はかつての雪桜を描いたページを開いて、夜の空気に溶けていった。


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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【jb6970 / 樒 和紗 / 女 / 19 / 扶桑の枝】


ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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思い出とこれからと。
桜の名を抱える乙女に、かけがえのない誰かが寄り添いますよう。

 水無瀬紫織

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エリュシオン
2017年04月17日

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