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『きみのいない今日をいく 』
ゼノビア オルコットaa0626

 朝、目が覚めて、しんと静まった部屋の中であくびをする。
 キッチンへ行って、ケトルを火にかけてお湯を沸かす。量が少ないと早く沸くから、待たなくていい。
 それから、トースターへパンをセット。その間に洗面所で身だしなみを軽く整える。
 お湯が沸いたら、ティーポットを温めて紅茶を淹れる準備を。今日の茶葉は何にしようか。
 悩んでいる間にパンが焼けた。ああそうだ、ジャムは何にしようかしら。今までは『彼』が選んでくれていたから、すっかり忘れていた。
 戸棚から、アプリコットのジャムとブルーベリーのジャムを取る。ついでにパン用のお皿を拝借。
 テーブルにジャムの瓶とティーカップを置いてから、トースターからパンをお皿にとって、はたとまばたく。

「……」

 こんがり焼けたパンは、小さいお皿に収まりきらず。
 ああ、やってしまったなぁと、小さくため息をついた。

 もう、あの『英雄』は、我が家にいないのに。
 ゼノビア オルコット(aa0626)は、焼きすぎたパンを前に途方に暮れるのだった。



 機械化の進む現代に懐疑的な声もある昨今だが、ゼノビア的にはありがたいと思う。
 なにせ、全く声を出さずとも買い物ができるのだから。

 にんじん、たまねぎ、パプリカにセロリ。コンソメはインスタントでお手軽に。
 ハムとベーコン、あとは卵と鶏肉、牛肉も少し。パンはいつも近所のパン屋さんで買おう。
 そういえば、彼は人当たりがいいから、いつもオマケを貰っていた。
 私には無理だなぁ、と思いながら、彼がいたら眉をひそめるような、あま〜いお菓子もいくつか買った。

 彼に教えてもらったから、ゼノビアもそこそこ美味しい食事が作れる。彼のように、とはいかないけれど、ちゃんと「おいしい」と合格点はもらったのだ。
 そんな彼も、昔は野戦料理じみたものばかり作っていた気がする。包丁を握るのもおぼつかなかったゼノビアに代わり、家事を引き受けてくれた彼も、昔は不慣れなことが多かっただろう。今よりずっと幼かった自分の面倒を見てくれた彼に、ゼノビアは未だに、そしてたぶんこれからも、頭が上がらない。

 一人分減った食材は、けれどゼノビアがあれもこれもと買い物籠に放り込むから、常と変わらないくらいの量になった。レジで精算してもらいながら、これを一人で持って帰るのか、と、少しゲンナリとする。
 持ち上げた買い物袋が、ずっしりと重い。

 そう言えば、一人で買い物袋を下げて家路につくことも、殆どなかった気がする。
 重い物がある時は、必ずと言っていいほど、彼がいたから。

 ぽてぽてと家路につきながら、思い出すのは彼との思い出ばかりで。
 彼が「我が家」を出てから、まだ何日も経っていないのにと、我が事ながら少々呆れてしまう。

 そうやって、声は出ないけれど、気持ち的には鼻歌を歌いながら道を歩いていたゼノビアは。
 遠くの人混みに、見慣れた鮮やかな赤色を見つけた気がして。

 ひゅ、と、悲鳴のなりそこないに似た音をさせ、思わず、息を詰めた。



『もう、俺がついてなくても大丈夫だな』

 そう言って、安心したように笑う彼を、ゼノビアは、まっすぐに見ることができなかった。

 紹介したい人がいる。
 躊躇いがちに告げられたその言葉に、衝撃を受けなかったと言えば嘘になる。

 いつか、そうなる日が来ると知っていた。
 その日が来たら、心の底から喜べると思っていた。
 だって、彼はゼノビアの兄代わりをしてくれていた英雄だ。『あの日』から、ずっとゼノビアを支えてくれた兄代わり。血の繋がりは無いけれど、本当の家族だと思っている人。

 そんな人に、恋人ができたのなら、心の底から、祝福できると。
 そう、思っていたのに。

『できれば、一緒に住みたいと思う。もちろん、ゼノビアが嫌なら無理強いはしないから』

 告げられる言葉が、薄膜を隔てたように遠く聞こえた。
 彼の瞳はどこまでもゼノビアを案じていて、果てしなくやさしかった。「一緒に住みたい」の「一緒」には、当たり前のようにゼノビアが含まれていて。こんなところで「家族」だと再確認したようで、嬉しさと安堵がこみ上げる。

 同時に己の胸の内に芽生えた感情は、とても許容できるものではなかったけれど。

『…………ないで』

 つき、と、胸を刺す感情があった。

『……らないで』

 彼に紹介された人は、やさしげな笑顔の似合う、きれいな人で。
 穏やかさの中に、決して折れない芯の強さを持った、大らかな人で。

『とらないで』

 声の出ないゼノビアを、案じてくれるけれど、憐れみなど微塵もせず、尊重してくれて。 
 そう、「私」とは違う、「大人の人」で。
 勝てる要素なんか、ひとつもなくて。

『わたしのえいゆうを、とらないで』

 張り裂けそうな胸の内から響く声に、聞こえないふりをした。




 いっそ、出ない声を振り絞って泣き叫べばよかったのだろうかと、今になって思う。
 形容できない胸の内の黒いどろどろに、「寂しさ」と「不安」と名前をつけて、置いて行かないでと、さみしいのだと、幼い子供のように、癇癪を起こして泣けばよかったのだろうか。
 そうしたら、胸の内を突き刺すこの名前の分からない激情を、消すことができたのだろうか。

 彼に、そして隣で笑う人に、恨みに似た感情を抱かなくて済んだのだろうか。

 なぜ、「大好きな家族」だと形容しても遜色ない二人にそんな感情を抱くのか、ゼノビアにはわからない。
 なぜ、「家を出た大好きな家族」を街中で見かけて恐怖で息が詰まるのか、ゼノビアにはわからない。

 恋人と一緒に暮らしたいと言った彼に、「邪魔をしちゃ悪いから」と自立を宣言したのはゼノビアだ。
 だって、本当に、仲の良い恋人たちの邪魔をしてはいけないと思ったのだ。
 彼には今までお世話になったから、これ以上迷惑をかけてはいけないと思ったのだ。
 ずっと一人でいた彼に、恋人ができてうれしいと、家族が増えてうれしいと、確かに思ったのだ。

 なのに、どうして、ゼノビアの中で「彼は私のものなのに」だなんて囁く声がするのだろう。
 なぜ、私を置いて行かないで、どうして私を一人にするのと、口が裂けても言えないような声がするのだろう。

 街中にいる彼は、とても穏やかな顔をしていた。
 ゼノビアといる時にはしなかった表情で、隣に寄り添う人を見守っていた。
 それに、よかった、元気そうだと思う自分と、私がいないのにどうして、と思う自分が、一緒くたに混じり合って気持ち悪い。

 腹の奥で、出て行く場のない感情がぐるぐるととぐろを巻いている。
 持て余したそれが気持ち悪くて、ゼノビアは思わず、薄暗い路地裏に飛び込んで、服の裾が汚れるのも構わず蹲った。

 気持ち悪い。
 気持ち悪い。
 ああ、吐気がするほど気持ち悪い。

 その感情が誰に向けられたものかも分からなくて、ゼノビアは溢れそうになるそれをグッと飲み下した。



 きっともう、声も出ない。



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2017年04月17日

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