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『 こんな綺麗な月の夜は 』
伊藤・百合子8887



 夜――喧騒は遙か遠くに聞こえ、この付近には近寄ってきやしない。まるで月明かりとこの神社の持つ性質が、静寂を結界のように纏い展開しているようにすら思える。
 昼は由緒ある神社として参拝客を受け入れる神社の顔が、夜には人の子の世界とは隔絶した時間を求める『神の座所』の顔になっているように思えた。
 境内を照らすのは、煌々と輝くまあるい月の明かりのみ。夜に敷地に入る人間がいないわけではないが――嘆かわしいことではあるが、その目的は参拝に限られたものではない――今日の夜ばかりは余計な客は訪れないだろう、そんな予感が伊藤・百合子にはあった。
 巫女としての一日の務めが終わり、社のそばの木製の階段に腰を掛け、まあるい月を見上げていた百合子。すうっ……と息を吸えば静寂を体内に取り込むようで心地よく、肌を撫でる風は暑さの中の救いのように百合子の肌を撫でていく。まるで今日の疲れが癒されていくようだった。
「……ふぅ、今日も一日、無事お務めを終えることができました」
 風に流される長い黒髪を片手で抑え、ほっと息をつく。巫女服の袖も、緩やかに風に揺れた。
 この神社の巫女を務めている百合子は、昼間は境内の掃除や社務所での仕事などに精をだしている。世間が休日である今日は特に多忙を極めた。その忙しさが過ぎ去って、今は嘘のように静かな境内で手足を伸ばし、休息をとっていた。本来ならば入浴し、明日のために早く休むのが懸命なのだろう。明日まで今日の疲れを引き摺らないためにも。けれどもなんだか今日は、外で夜空を見上げたい気分だったのだ。
(……誰も、いませんよね?)
 そっと、あたりの気配を探る。誰も居ないことは今まで気配を感じなかったことで分かっていたつもりだったけれど。念のため、首も巡らせてあたりの確認。だってこのあと百合子がしようとしていることは、誰かの目に触れるわけにはいかないのだから。
「……よし。じゃあ、少しくらいなら……」
 立ち上がり、ふう……と息をついて。百合子は意識を集中させる。すると――。

 むくむくっ……。

 もともと豊満だった百合子の胸が、少し大きくなった気がする。気のせいだろうか。いや……。
「んんっ……」
 余裕があったはずの巫女服。しかし段々と胸元が窮屈になってきて、締め付けられる感覚に思わず甘い声が漏れ出た。少し身じろぐと、布が肌にこすれる感覚が、また妙な気持ちにさせる。
 しかし――大きくなったのは胸だけではなかった。肩幅が広くなり、手も大きくなり、白魚のようだったそれが節くれだっていく。足首もなんだか筋肉質に――と思ったら。
 ビリッ……まず破れたのは履いていた足袋だ。白いそれが破れ、骨ばった足が草履の鼻緒に圧迫されている……と思ったその時。

 ぶちっ。

 両足の草履の鼻緒がほぼ同時に破れた。これでは草履としての機能を成さない――否、それ以前に草履の踵から足袋を破った足がはみ出してしまっている以上、鼻緒だけ直せても草履としては役に立たないか。
 通常なら余裕を持たせて作られている和服――その仲間の巫女服も同様のはずなのに、綺麗に着こなされていたそれは身体の線が浮き出るほどになったかと思うと、ビリッ、ビリリっと次々とあちこち破れていってしまう。
 気がつけば、袴もパンパンでつんつるてんになっていて。
 その原因は彼女の身体を見れば一目瞭然だ。普段は160cm前後の少しふっくらとした彼女の身体が、今は筋肉質になった上にその身長はゆうに2mを超えているのだ。そして大きくなったのは身体だけではなく、その艶やかな長い黒髪も、膝丈くらいまで伸びていた。
 ぶわっ……強い風が彼女を襲う。長い黒髪が巻き上げられて漆黒のマントのように広がり、破れたがかろうじてまだ身体に纏わりついている巫女服の残骸がない部分を、風が撫でていく。
「あ〜……やっぱりこの姿は楽ですね。気持ちいいです」
 そう呟き、伸びをする百合子。伸びをしたことで、はらり……腕と肩に添えられていた巫女服の端切れが落ちる。
 この姿は何だと問われれば、百合子の本来の姿だというしかない。身長2mを越える、筋肉質の大柄な女性なんて目立ちすぎるため、普段は身長や体つきを変えているが、やはり本来の姿は落ち着くというか、楽だというか。
 巨大化しても生まれ持った美貌は損なわれないのだから、やはり本来の姿でいたら、大柄だからという理由に美人だからという理由が加わって、目立ってしまうことだろう。
 しばらくこの姿になっていなかったものだから、ある種の開放感が百合子の心を支配している。
「もうすこし……今なら誰もいないし、いいですよね……?」
 誰に問うでもなく呟いて、百合子は表情を緩めた。今ならば、そう、今ならば――。
 自分を襲う甘い誘惑。
「少し、だけなら……」
 抗うつもりなど、もともとなかったのかもしれない。百合子は本能からの誘惑に乗って、身体を変化させる。

 ぶちっ。

 何かが破れた音がしたが、それでも彼女は変化を止めない。
 みるみるうちに伸びゆく体長。更に驚いたことに、艶やかな黒髪が毛先からだんだんと、銀色へと変わっていくではないか。月の光を受け、銀色の長い髪が天の川のようにキラキラと煌く。
「んー……っ」
 目を閉じて伸びをして、開かれた瞳は、ピジョンブラッドに似た赤色に代わり、そして。

 バサァっ……!

 風が、驚いたように百合子の背中で混ざり合う――彼女の背中から現れたのは、六枚の翼。カラスのように黒いそれは、夜の闇に溶けているが、月明かりでその様子を確認できた。
 服装も、動きやすそうな鎧へと代わっていて、身長はなんと5mほど。社務所や社など、軽く見下ろせてしまう。もしかしたら、いくら夜の闇の中だとはいえ、遠くからもその異様な存在感を認められてしまうかもしれない。
「ああっ……!!」
 けれども、百合子が声を上げたのは、それを危惧したからではなかった。
「もったいない……」
 彼女の足元、ぐしゃっと溜まるように落ちているのは、巫女服だったものと草履だったもの。残骸。最初に巨大化した時にすでにあちこち破れていたのだから、もう巫女服としての用は成さないだろう。
(……服を脱いでから、巨大化すればよかったです……)
 後悔先に立たず。百合子は大きな体で大きなため息をついたのだった。



                        【了】



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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【8887/伊藤・百合子/女性/23歳/巫女】

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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 お時間を余分に頂いてしまい、申し訳ありませんでした。
 初めて書かせていただくので、緊張しながら書かせていただきました。
 指定のない部分はおまかせと判断して、書かせていただいております。
 少しでもお気に召すものになっていれば幸いです。
 ご依頼、ありがとうございました。
東京怪談ノベル(シングル) -
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東京怪談
2017年09月07日

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