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『新月の稲姫 』
伊藤・百合子8887
 豊満の域からいくらかふくよかへとはみ出すわがままな体。それを霊泉にて洗い清めた巫女装束で包んだ伊藤・百合子は、唇で言祝ぎを刻みつつ、細く縒った注連縄を伸ばしていく。
 ここは彼女が巫女として務める神社の境内である。もうじき日が昇るという時間だが、人の気配はなかった。
 ――人払いが効くのはあと一時間ほどが限界。それまでに終わらせないといけませんね。
 百合子は自らのHカップの谷間に挟み込んだ形代を見やり、息をついた。
 この形代には依頼主の“におい”を封じてある。神域を満たす黎明の清浄を押し退け、それ目がけて押し寄せる邪気の強さは相当なものだ。
 ――それだけの相手であることは承知していたつもりですが……ともあれ対峙してみないことにはわかりませんね。

 彼女の噂を聞きつけた依頼主がここへ転がり込んできたのは二日前のこと。
 名のある霊能者たちの間でたらい回しにされてきた末、ここへ行き着いたという依頼主は、すでにのっぴきならない状態にあった。
 依頼主が悪霊に憑かれていることを見て取った百合子はすぐに対処を試みる。受けて除霊。呪詛返し。式神の護衛。通常であれば十二分であるはずのそれらはことごとくが悪霊に退けられた。
 それだけの相手ならば。
 百合子はあらためて依頼主からの仕事を引き受け、こうして対決の準備を整えているのだった。

 天地(あめつち)に鎮む八百万の御方々、今ひととき我が声音に応えたまえ。
 この世と神世とを区切る“壁”に見立てた注連縄を五芒に張り、結界と成す。
 中心に立つ百合子の要請を受けた神々が結界内で沸き立ち、結界の外壁を強化した。この神社を宿とする神々とは、常から捧げ物をして交友を深めている。それもあって、神々は快く彼女の声に応えてくれた。
 ぱぢん! その神たる壁に、雷が弾けるような衝撃がはしる。
 邪気の主が来たのだ。依頼主の代わりを務める百合子を殺すために。
 ぱぢん! ぱぢっ! ぢぢぢぢぢぢ――邪を弾き、浄化するはずの結界壁が、こじ開けられようとしている。
「下がりなさい!」
 地より昇りくる朝の光を刃と化し、百合子は悪霊を斬り払うが。
 くひゅう。悪霊は嗤い、その刃を容易く噛み砕いた。
 ――この世でもっとも清浄なる黎明を喰らうほどの、闇ですか。
 舞い散る光刃の欠片が一瞬、悪霊の姿を浮かび上がらせた。憤怒の熱気と憎悪の冷気とで溶けては固まり、固まっては溶ける禍々しく歪なその姿を。
「いきなさい」
 生きなさいと行きなさい、ふたつの意を込めて百合子が投げた八枚の符。それは瞬く間に八咫烏となって悪霊を取り巻き、嘴と鉤爪をもって攻撃を加え始めた。
 しかし。悪霊はそちらを見もせず、結界に突き立てた指先をにじり続ける。そしてその間にも八咫烏は悪霊に触れた箇所から邪気に侵され、食い尽くされていく。
「!」
 果たして結界にこじ入れられた指先から邪気がこぼれ落ち、無数の小鬼となって百合子へ向かい来る。鬼どもは神に祓われ、次々と死んでいくが、その背を踏み、骸を盾にして、ついには百合子の足元まで這い寄った。
「鎮」
 百合子が跳ね、その豊満すぎる五頭身をぶるりと揺らしながら小鬼を踏みつけた。リン! 彼女の霊気と結界に満ちる神気とが打ち合う鈴の音にも似た音が鳴り響き、小鬼どもは骸を残すことすら許されずに消し飛ぶ。
 型こそちがうが、これは力士が踏む四股である。元は神への奉納の儀として生まれた相撲では、地を鎮めるため足裏で強く地を踏みしめる。百合子はそれをもって地鎮ならぬ慈鎮を為したのだ。
 かくて小鬼の殲滅は成したが、悪霊はその間に結界へ両腕をこじ入れていた。このままではほどなく結界が破られ、百合子に応えた神々に少なからぬ傷を負わせることとなるだろう。
「お礼は後にかならず」
 謝意を示して神を還した百合子はそのまま結界を解き、悪霊と向き合った。
「ご依頼くださったあの方とどのような宿縁で結ばれているものかは知りませんが、その縁の糸が穢れたものである以上は見過ごせません。断たせていただきます!」
 巫女装束の下に押し込まれていた体がぎちりと膨れた――いや、肥えたわけではない。骨が伸び出し、やわらかいばかりであった肉が、太くしなやかな筋と化して骨を鎧い、身長を、体格を変じさせたのだ。
 大きくはだけた襟元からは、さらに豊かさを増した双丘の狭間がのぞき、その両眼には人を超えた霊力の光がたぎる。
 短距離走ランナーを思わせる筋肉を湛えながら、怜悧な美しさを魅せる210センチの麗人がそこに在った。
「敵に本性を見せるのは久しぶりです。敬意をもって滅しましょう」
 霊気が百合子の手の内で鋭い刃をもつ剣となった。対魔/退魔の念を封じた両刃は、たとえ相手が荒ぶる神であれ草を薙ぐがごとく斬り祓うほどの聖性が映されている。
 ひゅう。悪霊が邪気をしたたらせながら百合子へ襲いかかった。虚ろな身より百の腕を伸べ、その切っ先で彼女を引き裂かんとする。
「数で攻めきろうとしたところで意味はありませんよ」
 百合子は一文字に剣を横薙いだ。
 ただそれだけで、百の腕の三割が斬り払われ、斬り祓われた。
 人外の闘いでもっとも重要となるものは想念、つまりはイメージだ。霊力を乗せた想念はこの世のものならぬ存在、その“芯”たるものを、まさにイメージしたとおり打ち、斬り、穿つ。想念で劣るものに、それを避ける術はない。
 ひぎぃ! 霊体を裂いて“芯”へと食い込む聖性に揺らぐ悪霊。この女、何者だ!?
 長く伸びだした髪を閃かせ、百合子が笑んだ。
「妖怪ですよ。人に徒なすのではなく、人と添って生きることを選んだ」
 切っ先が悪霊の憤怒を削ぎ落とし、憎悪を貫いた。
 このままでは、存在力をすべて祓われて消えるばかり!
 悪霊はこぼれ落ちる自らをかき集め、自らをかき立てた。
「奥の手、というわけですか」
 身の丈は3メートルを超えようか。意志を捨て、悪意だけを膨れ上がらせた末に得た獣の体。畜生へ堕ちたその頭では、百合子が誰かももう理解はできまいが……それゆえに純粋で強大な祟り神と化した悪霊は、百合子の本性をも圧倒する穢れた霊力を放っていた。
 グオゥ!! 霊獣が、百合子を喰らい尽くさんと襲いかかり。
 大きく開かれ、噛み合わされようとした呪詛の顎が、半ばで止まった。
「その程度の穢れで私は――新月の稲姫は侵せませんよ」
 弾け飛んだ百合子の巫女装束の下から現われた鎧。霊獣はその胴の下部から下がる前板へ喰らいついていた。
 頭に喰らいついたはずが、なぜ前板を? 獣の知恵でそれを思いつけたかは知れぬが、理由自体は単純だ。伸びたのだ。百合子の背がさらに二倍を超えて。
「体躯は力の顕われ。もちろん力のすべてではありませんが、あなたにもわかるでしょう? 私とあなたの格のちがいが」
 510センチの堂々たる肢体に銀の髪を炎のごとくにたなびかせ、百合子が輝く赤眼で獣を見下ろした。
 これこそが百合子の真の姿。神にも比する大妖の顕現であった。
「転生は許しません。消えなさい」
 背より六枚の黒翼が拡がり、朝日すらも圧倒する霊気を噴き上げた。
 聖性も想念ももはや意味のない、ただただ圧倒的な力の奔流に、霊獣は存在のすべてを吹き飛ばされ、かき消えた。

「終わりましたね」
 百合子は自らの霊力を解き、元の姿に戻る――つもりだったのだが。
「戻りません、ね?」
 ええーっ!? 声なき絶叫が神域を揺るがせて。
 神世からそれを見ていた神々は笑い、あきれ、肩をすくめてみせた。

 人払いの術の効果が切れた神社では、いつもどおりに神職者たちが行き交い、仕事をこなしながら参拝者の相手に勤しんでいた。
 5メートル超の体を社の床下へ潜めた――社は通常の建物よりも床が高くなっているので、巨体を潜り込ませるには最適なのだ――百合子は式神の帰りを待ちわびる。
 ようやく帰ってきた式神から依頼主の様子を聞き、呪詛から解かれたことを確認した彼女はまず胸をなでおろし、続けて報酬の額を聞いて微笑み、さらに頼んでいたものを見てがっくりうなだれた。
 それは彼女が通う定時制高校の制服。
 いや、頼んだのは自分だし、式神はきちんと役目を果たしてくれたわけだが。
 ――小さくて着れません!
 160センチの通常体用にしつらえた制服は、普通のそれよりは大きめに作られていたとしてもさすがに510センチを包めるはずもなく。霊力で服を伸ばすことができたとしても、そもそも510センチの巨人が人前に出て行けるものかという話で。
 ため息をついた百合子は眉を困らせ、途方に暮れるよりないのだった。


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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【8887 / 伊藤・百合子 / 女性 / 23歳 / 新月の稲姫】

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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 新月の稲姫、かく顕現し、闘い、果たして困る。
東京怪談ノベル(シングル) -
電気石八生 クリエイターズルームへ
東京怪談
2017年09月19日

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