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『誘灯 』
水嶋・琴美8036
 封鎖された屋上へつま先をつけた水嶋・琴美を待ち受けていたものは、節くれ立った矮躯を晒す老人。
「お会いできて光栄と言えばいいかな?」
「命乞い以外ならどうとでも」
 琴美は直ぐに飛ばされた棒手裏剣を大きくサイドステップしてかわす。
「見切りというにはちと動きがでかいな」
「歓迎に合わせただけよ」
 今まで立っていたコンクリートに突き刺さる菱形手裏剣を横目で見やり、琴美は肩をすくめてみせた。
 棒手裏剣を囮に、本命の菱形手裏剣を上から落とす。いや、それだけならばここまで動く必要はなかった。問題は。
「これがなければ一歩ですんだのだけれど」
 左の人差し指と中指とで挟み止めた十字手裏剣だ。横から大きく弧を描いて投げ込まれたこれをかわすには、三歩分の距離が必要だったのだ。
「才があり、覚がある。いい忍だ」
 しゃがれた笑声を漏らした老人がゆらり、歩み出る。“蛾”の名にふさわしい三対六腕が数十の手裏剣を携え、怪しくゆらめいた。
「しぃっ!」
 乱杭歯から噴かれた裂気を追うように、手裏剣が琴美へ放たれた。あるものは直線を、あるものは曲線を描き、彼女の身とその逃げ道へ殺到する。
 刃が肉を穿つ鈍い音が響いた――はずだった。
 手裏剣が喰らったものは、取り残された琴美のダークスーツ。
 気づいた瞬間、老人は目線を上下へ投げた。
 人の視野は横に広く、縦に狭い。空蝉で抜けた忍はまず跳ぶか伏せるかし、敵の目をかわすものだ。
「ふむ」
 見定められぬまま、老人は忍刀を右へ振り込んだ。
 ギン! 交差した苦無がそれを噛み止め、押し返す。
「……これは参った。跳ばず、伏せずか」
「その割に余裕で受けたわね」
 黒のインナースーツの上から袖を半ばで落とした和装、プリーツの入ったミニスカートとグローブを合わせ、さらにはパンプスから膝丈のロングブーツに換えたその姿こそ、琴美が戦いに際してまとう衣装であった。
「人であることはとうに辞めておるがゆえにな」
 矮躯からは考えられないほどの膂力をもって、老人が琴美を押し込む。
「なら、そろそろ見せていただけるかしら? 人を辞めてまで手にした力を」
 弾みをつけて刀から自らの体を強く押し放し、琴美が跳びすさった。
 天元行躰神変神通力。唇で九字を刻み、心を空と化す。
 それにつれ、肉体にかけられていたリミッターがひとつずつ外れ、琴美を人の域から一段ずつ押し上げていく。
「主も十分に人外だな」
 琴美の様子を見やり、ぎちりと笑んだ老人が、後方へ跳んだ。
 が、その矮躯は再びコンクリートを踏むことなく、吹き寄せるビル風に乗り、宙を右へ左へ流れ行く。
 見れば、その背からは透けた翅が伸びていた。蛾というよりは蜻蛉に近いが、この程度の業、凧があれば並の忍にも難くはない。
“誘い蛾”の二つ名を見せなさい。
 ひゅ。すぼめた唇から呼気を放つと同時、琴美がしかけた。
 高く跳躍し、着物にビル風を閉じ込めて一瞬滞空。正面から含み針を吹きつけておいて、その間に右のつま先を老人の脇腹へ叩き込み、それを足がかりに左膝を顎へと突き上げ、さらには右の苦無で目をえぐりにいく。
「甘い甘い」
 老人は避けることなく、ただそこに在った。
 しかし。琴美のしかけたすべての攻めは、なにひとつ届いてはいなかった。蹴りを止められ、その後の二連撃はすかされて、終わった。
「ほぅれ、もう一回来てみるか?」
 皺に埋もれた口の端を吊り上げ、老人が琴美の脚を放す。
 コンクリートに降り立った琴美は苦無を逆手に構え、息を整えた。
 老人はゆるゆると宙をすべり、琴美を待ち受けている。今の一幕で、あれが誘いであることは知れた。そしてなんらかの業をもって琴美をたぶらかし、動かずして彼女の攻めをしのいだことも。
 すべての場面において違和感があった。たとえ顔を逸らされたとて、老人の目玉を抉るに足るだけの余裕を持って苦無を繰り出したのだ。それは膝蹴りも同様で、顔を横に振った程度で逃げられるような甘い角度では放っていない。いや、それよりも。
 老人の脇腹へ食い込んだつま先をつかみ止めたあの腕。多腕だからこそとはいえ、明らかに老人の意識は含み針に捕らわれており、脇腹になど向けられてはいなかった。
 たとえ人外としても、あの老人の異形はしょせん目に見える程度のもの――存在しない死角――多腕――資料に記された“誘い蛾の小三郎”の名――それらが意味するところは、つまり。
 試してみる価値はあるかしら。
 琴美は意識を空とすることなく、老人に語りかけた。
「“黒蟲”。どうして裏で地盤を固める前に這い出してきたのか、やっとわかったわ」
「ほ」
「知られてしまえば終わりだものね。あなたたちの力が他愛のないものだと」
 スパッツに包まれた琴美の腿に、強くありながらなめらかな大腿二頭筋のラインが浮き上がった。踏み出した足を踏み止めることを重視して鍛えた脚。それが成すものは、踏み出すことなく踏み止める――予備動作なく攻めを打つ変形の“無拍子”だ。
 閃光がごとくに老人へと苦無が飛ぶ。
 琴美の言葉に捕らわれた老人は反応できず。しかし寸手のところで四本の腕が伸びて苦無をつかみ止めた。
「つまりは目が六つあればこそ」
 苦無に結びつけておいた髪に気を通して強化した“糸”をたぐり、琴美が跳ぶ。近づくことでゆるんだ“糸”を撓め、苦無をつかむ手を絡め取り、駆け抜けさまに強く引く。
「ギ!」
 食い込んだ“糸”に指を斬り飛ばされたことで思わず漏れ出す声。それは老人の口ならぬ脇腹から発せられたもの。
「小一郎さんか小二郎さんかは知らないけれど、いるんでしょう、そこに」
 苦無を取り戻した琴美が艶然と笑みかけた。
「……知れたところで揺らがぬよ」
 老人がうそぶくと同時、左右の脇腹が盛り上がる。そして這い出す、かろうじて元は人と知れるばかりの二匹の蟲。
「他にふたりは言の葉を失くしておるがゆえ挨拶はかなわぬが……あらためて我ら三兄弟で相手をさせてもらう」
 三方へ散った人外が翅をはためかせた。
 風に逆巻き、空に鱗粉が散りまかれる。
「我らが毒、息を止めたとて肌より染み入るぞ」
 琴美の周囲の景色が歪み、においがかすれ、音が遠のく。感覚を狂わせる三種の神経毒。
 琴美は目を半ば閉じた半眼をつくり、胸の内に響かせた。
 臨。
 感覚をなくした指が、考える必要もなく正確に印を結び。
 兵闘者皆陣列前行。
 それは九字の祖と云われる阿であり吽であるもの。
 琴美の手がコンクリートに煙玉を叩きつけた。白煙は風に散り、これまで認めることのできなかった空気の流れを露とする。
「そんなもので我らの目を塞げるか!」
 老人が他の二匹と共に数十の手裏剣を放ち。
 そのことごとくが、琴美をすり抜けた。
「な!?」
 今、琴美は空を超えた無。見るまでもなく、聞くまでもなく、嗅ぐまでもなく、有を識る。
 すべては敵を欺くためならず、自らの五感を閉ざし、無となるがために。
 かくて白煙を琴美の一歩が踏み散らし。
 老人の右腹より出でた蟲の首に苦無を突き立て、斬り裂いた。
「ギギ!」
 襲い来るもう一匹の蟲が宙で止まる。空へと無尽に放された琴美の髪に絡め取られ、もがくほどに深く、その髪の陣深くへ飲み込まれ――微塵に斬り散らされて墜ちた。
「曰く、有常」
 色のない黒瞳が残る老人を無機質に見据え。
「ひ」
 老人がうめいたときにはもう、その眼前へすべり込んでいた。
「たとえどれほどまやかしを重ねても、奥にはそれを繰る誰かがいて、確かな血肉がある。その事実にうつろいはなく、動かすことのできない事実がそこに在るだけ。だからこその、有常よ」
 見ぬまま聞かぬまま嗅がぬまま感じぬまま、琴美の苦無が閃き、老人の翅を、肉を、骨を、命を断ち斬った。

「もう少しまともな相手と手合わせをしたかったわね」
 指先をかすかに斬り、そこへ集めた毒を体外へと押し出した琴美が視線を巡らせる。
 いくら弱小とはいえ、ただこれだけの敵に彼女が駆り出されるはずはない。それほどにこの国の情報部は無能ではないのだ。
 だとすれば、いるのだ。危機と判断されるだけの敵が。
「待ちましょうか。敵の訪れを」
 少なくとも小三郎程度では抑えきれぬと伝わったはず。
 琴美は人外の忍の骸に目印を打ち、場を後にした。下のことも含め、あとは回収班が後処理をしてくれるだろう。
 敵が新手を差し向けてくるまで、こちらはこちらでしておくべきことがある。時間がどれほどあるか知れぬ以上、浪費することだけは避けたい。
 それこそ世は無常にうつろいゆくものなのだから。


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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【水嶋・琴美(8036) / 女性 / 19歳 / 自衛隊 特務統合機動課】

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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 かくて忍は次なる敵へと踏み出せり。
  
東京怪談ノベル(シングル) -
電気石八生 クリエイターズルームへ
東京怪談
2017年11月13日

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