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『苔の王国』
イアル・ミラール7523


 苔、以外の生命が死に絶えてしまったかのようだ。
 暗緑色の、生臭さを発する苔のみが、石像の表面にしがみつくようにして生きている。
 石の、女人像であった。
 まるで美しい姫君が、おぞましい暗緑色の不定形生物に蝕まれながら石化したかのようである。
 そんな石像が、3体。広大な廃墟の中にあって、威容あるいは異形を誇示していた。
 巨大な、石造りの姫君たち。
 1人は、走っている。逃げている。走り、逃げながら固まって石像と化し、もはや1歩も進む事は出来ない。
 ドレスの裾をつまんで形良い素足を晒しながら、彼女が一体、何から逃げているのかはわからない。追っている者の姿もない。もはや、永遠に現れる事はないのだ。
 この姫君はしかし、こうして石化・硬直したまま、永遠に逃げ続けなければならない。
 1人は、倒れていた。今や何者であるのかわからない襲撃者・追跡者に怯えながら仰向けに転倒し、悶え苦しみながら苔にまみれている。苔まみれの石像と化しながら、永遠に悶え苦しんでいるのだ。
 1人は、立ったまま苦悶していた。巨石の肢体が、汚らしい苔にまとわりつかれながら切なげにうねり、躍動感を醸し出しながら動けずにいる。
「全て、おぬしじゃよイアル・ミラール」
 見上げながら、少女は言った。
 外面は、幼い少女である。だがその口調と、3つの石像を見つめる眼差しには、本来の年齢がいくらか滲み出ているようだ。
 本来の年齢などしかし、彼女自身も今や数えてなどいない。
「まずは、おぬしの祖国が滅ぼされた。おぬし自身はの、滅ぼした側の者どもの所有物となり……その者どもも、やがては別の侵略者・征服者によって滅ぼされた。おぬしの身柄は、そやつらの手に渡り、とまあ滅亡の繰り返しじゃ」
「ぐるるる……ぐぁあるるるる……」
 イアル・ミラールと呼ばれた生き物が、牙を剥き、唸った。
 そびえ立つ石の姫君たちと、瓜二つの容姿、ではある。
 だが人として怯え、悶え苦しむ彼女たちとは、根本から異なる存在でもあった。
 しなやかな肢体は四つん這いで、豊麗な尻を猛々しく突き上げながら歩行している。
 今や獣の前肢と化している左右の細腕の間では、胸の膨らみが、たわわに実った果実の如く下向きに揺れている。
 その美貌は、獰猛に歪んで牙を剥き、たおやかな顎で人体をも噛み砕いてしまいそうだ。
 細い頸部には首輪がはまり、その首輪からは太い鎖が伸びて、少女の小さな両手に握られている。
「がうっ! がふうぅうううッ!」
「おいおい、誰に向かって吼えておる。わしら以外、誰もおらんのに」
 少女が訝る。
 今や牝獣となったイアルは答えず、牙を剥き続けた。巨石の姫君に向かってだ。
「がるるるるる! がうっ、がうっ!」
 自身の石像を、イアルは威嚇し続けている。
 許せないのだろう、と少女は思った。
 巨石の女人像と化し、苔にまみれ、死せる廃墟にあって永遠に無様な姿を晒し続ける己の姿を、イアルは許せずにいる。
 このような獣ではない、人間イアルとしての意識を保った状態であったら、鏡幻龍の剣で石像を叩き斬っていたかも知れない。
「嫌であろうが……まあ見ておけ裸足の王女。これが、おぬしの宿命なんじゃよ」
 巨大な、石造りのイアル・ミラールが3体。
 それら以外、視界に入るものと言えば、廃墟の光景のみである。
 鏡幻龍の王国、その繁栄の痕跡。
 もはや屍さえも朽ち果て、石の廃墟のみが視界の彼方まで広がっている。
 死の世界である。
 虚無の境界が謳う『人々の霊的進化』後の世界が、これに近いのかも知れない。
 そんな事を思いながら、少女は言った。
「滅亡の繰り返し……それがのう、おぬしのせいであるとは言わん。滅亡の繰り返しという事実を、おぬしはしかし見据えねばならん、とわしは思う」
「がぁあうッ! ぐるるる……ぐうぅ……」
 牙を剥きながら、イアルは怯えている。
 鎖を握ったまま、少女は溜め息をついた。
「やはりの……おぬし、己の傍で繰り返されてきた数々の滅亡から、恐らく無意識にであろうが目をそらせ続けておる。まあ無理もないのじゃが、無理にでも正面から見据えてみる気にはならんか。己の、宿命というものを」
 魔本の中である。
 自分は何故、魔本を1冊作ってまで、このような光景を保存したのか。今の今まで、残しておいたのか。
 少女は、わからなかった。
「こうして、おぬしに見せつけるため……じゃったのかのう。転生の果て、鏡幻龍の姫巫女に巡り会える。そんな当てが、あったわけでもあるまいに」
 苦笑しつつ少女は、自分など容易に噛み殺す事の出来る牝獣の目を、正面からじっとみつめた。
「とにかく。目をそらせてはならぬものを、正面から見据えてみようではないか。他者と比べたくはないが……そのようにして『咎人の呪い』を解いた者を、わしは知っておるでな」


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登場人物一覧
【7523/イアル・ミラール/女/20歳/裸足の王女】
東京怪談ノベル(シングル) -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2017年11月13日

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