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『7/28 』
矢野 古代jb1679

 七月二八日。
 ベランダから見えるのは真夏の空だ。

「はーー……」

 矢野 古代(jb1679)はベランダの手すりにもたれ、煙草の煙を入道雲に吐き出した。
 ひっきりなしに聞こえるのはセミの声だ。うるさいほどである。ギラギラした夏の太陽に、世界の全てが熱中症を患っているようにも見えた。茹だるような……まさにそれ。
 辛うじて日陰とはいえ、クーラーのない屋外では、突っ立っているだけで汗が滲んでくる。古代は早々に灰皿へと吸殻を押し付け、ベランダのガラス戸を開けた。カーテンがないのは、今まさに洗濯されてベランダに干されているからである。
「すずし……」
 クーラーの効いた部屋は優しく彼を迎えてくれる。ガラス戸を閉めるとセミの声が少しマシになった。ポケットから引っ張り出したハンカチ(男のたしなみだ)で額や首の汗を拭い、テーブルの上のペットボトル麦茶をぐいと飲んだ。安物の麦茶はすっかりぬるくなってしまい、結露の跡だけがテーブルをわずかに濡らしている。

 ……さて。

 ペットボトルを置いた古代の視界に広がるのは、見慣れた部屋の風景――に、いくつもの大きなダンボールが置かれているという状況。
「続き、やるか……」

 ――流石に物を整理しないといけないよな。

 世界が、学園が、これからが変わりゆく夏の中。古代もまた、変わりゆく者の一人だった。
 ここは学園に借りた部屋、愛娘と共に過ごした場所である。自分も、娘も、「これからもずっとここで過ごす」訳にはいかない。自分達には未来が待っている。
 とは、いえ。ここはある種、自分と娘の実家のようなものだ。娘に何かあった時、逃げてくる場所や、落ち着ける場所、頭を冷やせる場所がないのはいけない。人間に必要なものは居場所だ。それは精神的な意味でもあり、物理的な意味でもある。まあ、あの子に何かあったのなら、その原因とやらをぶっ潰しに行くと堂々と言ってのけられるほど古代は親馬鹿ではあるが。
 そういう訳で、ここを引き払うことはしない。けれども、ある程度の整理をしなければならない――それが今、古代が荷物を整理したり、掃除をしたりしている理由である。

 片付けは午前から始まり、ちょくちょく休憩をはさみつつ過ごしていれば、もう昼過ぎだ。台所にはカップ麺を食べた形跡がある。ゴミ箱のビニールの中には、空の容器と割りばしと、かやくや粉スープが入っていた小さなビニールが捨てられている。冷蔵庫の中身は既に空っぽで、コンセントも抜いてあるのだ。
(あ、冷蔵庫もあとで綺麗に拭いておくか……)
 などと思いつつ、古代は黙々と部屋の整理を行っていく。黙々。黙々……。

「……はっ」

 黙々と整理をしていた筈だった。気が付いたら久遠ヶ原学園の教科書を読んでいた。
 いや、待ってくれ、これはその……違うんだ。もう学園から離れるから、教科書どうすっかなーと思って、捨てるのもアレだし、中古品で良ければ後輩や新入生に譲ろうかと思いついて、だったら教科書の状態がちゃんとしているか確認しようと思って、パラパラ見ていたら、そういえばここ授業でやったなーここテストでたなーとか感慨に浸り始めちゃったというか。

 OK、正直に言おう、集中が途切れていた。

 しかしながら、片付けをしようと思うほど他所事をしたくなるのはなぜだろう。テスト前に掃除がはかどる現象というか。
(そうか、掃除なら、いっそテスト前にやれば逆にはかどるのか……?)
 なんて考え、何を考えているんだ俺は、と冷静になる。というか、もう学園から離れるのだから……そうか、もう、テストとか宿題とか、そういうのもないんだな。ふと、しみじみ思う。
 煙草休憩しようかと思ったのは口が寂しいからか、心が寂しいからか。なんて、セミの声を聞きながら、冗句めいたリリカルに苦笑を浮かべてみせる。

 思えば、色んなことがあったもんだ。
 あちらこちらで、天使、悪魔、それから人間、色んな相手と戦って。
 絶望的な状況。悲劇的な顛末。理不尽な現実。救えなかった命。そんな苦味を幾つも幾つも噛み締めて。
 たくさんたくさん、戦った。
 生きてさえいれば、次の勝負がある。その自論を以て、いかなる状況でも足掻いてきた。
 苦しいことも多かったけれど、掴み取った勝利がある。仲間と過ごした日々がある。お疲れ様、と笑い合えた時間がある。そうして今の、『イマ』がある。

「……――、」

 嗚呼、セミが鳴いている。青い空。青い青い空――。
 不意に思考が空白になる。たった数年、されど数年。
 なんだか遠いところまで来たような。
 燃え尽きている、というわけじゃないが。
 ここで終わりなんかじゃない。だからこそ、「これから頑張らないとなぁ……」なんて、ボンヤリと思うのだ。

 次にこの部屋でセミの声を聞くのはいつになるんだろう?

 真昼ゆえに電気をつけていない部屋は、どこかノスタルジックな明るさである。風が無く、入道雲が空を陣取っているだけの空は、時間が止まったかのようだ。時計の針の音だけが、辛うじて世界が止まっていないことを古代に教えてくれている。
 古代だっていい年だ。人生のターニングポイントというものは幾つも経験している。それでも、これまでの当たり前が終わって、新しい生活が始まるというイベントは、毎度ながら心を不思議な気持ちにするものだ。深呼吸を一つ。
「おい矢野古代、手が止まってるぞ」
 自分で自分に喝を入れた。うだうだセンチメンタルしているなんて女々しいぞ。男ならバチッとお別れを決めるもんだぜ。
 さあ、今日中に終わらせられるように、頑張らないとな。







 やっぱり夕立が降った。ズングリとした入道雲はなんとも大量の雨を蓄えていたようだ。すぐに取り込んだカーテンは無事だった。洗濯洗剤のフローラルな香りがするカーテンは定位置に戻り、静かな顔で佇んでいる。

 結論から言うと片付けは九割方終了した。一人でやったにしては、なかなか頑張ったんじゃないか? 古代は自分を褒めてみる。あとは娘の私物関連を、彼女に聞きつつどうするか処理を決めていくだけだ。流石に娘の私物を無許可に漁るのはアウト。そのあたりはデリカシーのあるナイスなお父さんなのである。
 さて、夕方も過ぎた。一日中せっせと片付けをしていたものだから、随分と腹が減った。だがしかし、冷蔵庫は空っぽで、そして中もピカピカなのだ!
(出前でも取るかな……)
 ソファーに深く腰掛けて休んでいた古代は、ふぅと長めの息を吐いた。
 出前、じゃあピザ! と若い頃のノリと脂っこいモノに胃袋がついてこなくなってきたのは悲しいことだ。
(まだ学食はやってるかな)
 夜に任務へ赴く生徒のために、遅い時間までやっている学食がある。久遠ヶ原学園ならではだ。古代はよっこいせっと身を起こす。ああ、「よっこいせ」なんて自然と口が出る己の加齢よ。そんな寂寥も、腹の虫でかき消される。なにはともあれまずは食事だ。うどんにするか、そばにするか。思えば学食で食事できるのも残りわずかじゃないか。ことあるごとに、もうすぐこの生活が終わるんだなぁと思い知らされる――部屋の合鍵をポケットから出したこの瞬間もそう。

「……いってきます」

 浮かんだ薄笑み。電気を消した無人の部屋に、古代はそんな言葉を告げた。
 ドアが閉まり、施錠される音、遠ざかる足音――。



『了』




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矢野 古代(jb1679)/男/40歳/インフィルトレイター
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エリュシオン
2017年12月11日

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