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『野辺送り 』
ソーニャ・デグチャレフaa4829
 カルハリニャタン共和国。
 重力を操るレガトゥス級愚神に国土を踏みしだかれ、深さすら知れぬ深淵の底へと落とされた悲劇は、その際まで戦い抜いた兵士らの勇猛と共に語られていた。
「……語りつがせるつもりはないがな」
 ただ機能性のみを求めた、不格好なまでに分厚い防寒具の奥より、ソーニャ・デグチャレフはうそぶいた。
 年末という冬の最中である。ロシア、東欧、中央アジアという三者の狭間に位置していた――いや、今なお国土は国際条約によって承認されているので、位置する共和国の気温は零度を遙かに下回る。共鳴していない体を不用意に晒せば、数分で骨まで凍りつくだろう。
 それが祖国を飾るならばまだよいが、六十センチの氷像ではな。あっさり雪に埋もれて見えなくなるのがオチというものだ。
「たとえどれほど気高く、強大な力を誇るとて、動きを止めれば飲まれるが必然よ」
 ソーニャは残された左目をそれへ向けた。
 共和国陸軍の兵装であるシャベルで数時間、気力とエネルギーバーだけを友としてついに掘り出した、建国の英雄カルハリの霊廟の扉へ。
 彼は死に際し、まわりの者に告げたという。己が骸を灰とし、碑に練り込め。その碑は外敵より国を守る盾となろう。
 彼の言葉は忠実に叶えられた。当時最大の敵であった騎馬民族へにらみを利かせるため、国を囲うひとつの山の頂に据えられた。
 この霊廟は墓であり、英雄の遺志であり、防衛戦を支える出城であった。長い戦いの中で幾度となく補修されてきたが、碑が損なわれることは一度たりともなく、その事実は兵士の心の熱を保ち続けたのだ。
「縁にあればこそ愚神の牙を逃れ、それゆえに祖国の滅亡を目の当たりにさせられたのだ。心中察して余りある」
 バーナーで凍りついた扉の継ぎ目を溶かす。昔のままの石造りであればどうにもならなかったところだが、合金にすげ替えられた扉は膂力を使わずともソーニャの自重だけでどうにか押し開けることができた。
 内へ転がり込んだソーニャは扉を閉め、背嚢から取り出したコンロにバーナーで着火した。小さな鍋に詰め込まれた雪はすぐに溶け出して水となり、湯となっていく。
 浮き沈みする塵目がけて、ソーニャはインスタントコーヒーの粉をぶち込んだ。この塵は祖国の欠片だ。祖国が小官に仇なすことはあるまいよ。
 コーヒーという熱をすすり込みつつ、体の節々を動かしていく。過ぎるほどの装備をもって生命維持に努めてきたが、さすがに長時間の野外活動が堪えていた。ましてや彼女はライヴスの循環不全を患う身であるのだから、なおさらに。
「それでも小官は貴殿に届けねばならなかったのだよ、父なるカルハリよ」
 背嚢の上蓋に縛りつけられていた細長いケースを、紐を焼き切って手に取った。これのせいで風にあおられ、雪に潰されかけもしたが――
 バクン。火薬カートリッジがケースの上蓋ごと封を吹き飛ばした。
 内に納められていたものは、古ぼけた短槍だった。
 ――これをここへ送り届けることこそが、ソーニャの目的であったのだ。


 東京の某所にある元共和国大使館にして現亡命政府領。
 ソーニャの執務室へ事務官が槍を抱えて押し入ってきたのは三日前のことだ。
『デグチはん、そろそろ“碑の日”やろ? ちゅうこって、これや』
 事務官から渡された槍は、祖霊へ舞を捧げる儀式に使われる伝統的なもので、そも神官の手にあるべきものである。
『まあ、神官はんはもうおらんしなぁ。しゃあないから偉そうなお人に渡したってーて頼まれたんや』
 共和国の国教はギリシャ及びロシアから伝えられた正教――正教はそれぞれの国が独立した組織を為す。ゆえにこの場合はカルハリニャタン正教となる。ちなみに日本は日本ハリストス正教(会)――であるが、それとは別に古い祖霊信仰が存在するのだ。しかし、縁の者たちはことごとくが地の底へ飲まれ、この槍は社の庭師だった老人が偶然持ち出した唯一のひと振りなのである。
『そうは言われてもな……小官は舞を知らぬし、“碑の日”はこの日本では大晦日だろうに』
 日本国に国土を間借りしている以上、ご近所付き合いからは逃れられない。大晦日の朝から亡命政府領を開放し、近隣住民を受け入れての年越しイベントが開催されることになっていた。主導は情報部なので、ソーニャがなにをする必要はないのだが。
『でもな、ウチで戦士の志っちゅうんを受け継ぐんはデグチはんやろ? 別に舞わんでええし、ま、ま、持っといたってーや』
 事務官の口の端に閃いたものは感傷か、それとも気づかいか。
 独り残されたソーニャは錆の浮いた穂先に自らの顔を映した。彼女を見つめ返すのは、歪んだ己の顔だ。それはまるで自らの内にわだかまる薄暗い感情のようで、ソーニャは思わず隻眼を閉ざした。
『そうだ。小官の内にはわだかまっている』
 同志と共に愚神を見下ろした、あのときから。
 この手を伸べても届かぬ祖国。
 鋼を撃ち込む術なき愚神。
 それを噛み締めるばかりでなにもできぬ己。
 行くべき場所も撃つべき敵も知っていてなお、小官はここに在るよりない。
 いや、ちがう。ちがうぞ。この国で小官は同志を見いだし、友を得た。それはかならずや深淵の底へ小官を導く標となり、きざはしとなるはずだ。
 しかし。
 導かれるばかりではないことを示さねばなるまい。この不具なる足をもって一歩を踏み出す覚悟を、示す。


 さして広くもない霊廟の奥に据えられた碑は、朽ちた花や儀式の道具に取り囲まれていた。
 ソーニャは一礼し、防寒具を脱ぎ落とした。
 共和国の軍装姿となったソーニャに襲いかかる冷気。肌が引きちぎられるほどの痛みに苛まれながら、彼女は刃鞘を抜き落とし、穂先を露わした。
 自らの手で研ぎ上げた穂先はその澄銀をもって冷気の青を照り返し、玲瓏と輝く。
「父なるカルハリよ、子たる小官はここへ還った」
 コォン。石突が石床を突き、高い音を鳴らした。型など知らぬ無粋な軍人ゆえ、心をもって貴殿の無念を鎮めよう。
「果てし肉 朽ちし骨 乾きし血潮
 其をもて祖らは 我らに示す
 汝(な)が踏むべき地 此処に在り」
 ソーニャの青ざめた唇が綴るものは、ごくシンプルなメロディ。
 溢れだす思いが詞となり、節を得て伸び出した鎮魂歌であった。
「潤し(うるおし)肉 張りし骨 熱き血潮
 其をもて我ら 祖らに応えん
 我が踏むべき地 此処に在り」
 ひょう。思うまでもなく槍が空をはしる。青銀の軌跡を薄闇に描いて祖霊を召し喚ぶ。
 コォン。思うまでもなく石突が床を打つ。波動は床を貫き、その下の地までも揺るがして祖霊を鎮めゆく。
 と。
 穂先が空を斬る音が消えた。
 石突が床を打つ音が消えた。
 残されたものは歌声。ソーニャの語る誓いだけが、この場を粛々と満たしゆく。
「果てし肉潤し(うるおし) 朽ちし骨張り 乾きし血潮熱し
 我らが遺せし志(し) 子らの内にて 意なる志(し)と咲かん」
 体から五感が遠ざかり、「ソーニャ・デグチャレフ」が失せていく。
 しかし、それは冷気に侵されたせいではない。向こうに在る体は不可思議な熱を帯び、不自由なはずの脚を捌き、槍を振るい続けていた。
 ああ、そうか。小官は今、祖霊のある場へと近づいているのだな。ふん、まさか軍人が巫女さながらに神懸かるとは……いや、これは小官が為したのではない。小官が祖霊に呼ばれたのだ。ならば。
 この言葉は、詞は、届く。
 今こそ語らなければならない。この胸を満たす思いを。
「其(そ)は祖への誓いなり 此(こ)は子への誓いなり
 祖よ 其の遺志以て(もて) 我が歩(ほ)支え給え
 子よ 此の意志以て 汝(な)が歩(ほ)刻み給え
 仰ぐべき天の下 踏むべき地へと還るまで」
 詞が途切れ、舞が途切れた。
 押し固められていた静寂に、轟と冷気がなだれ込み、ソーニャの小さな体を苛んだが、しかし。
 ソーニャは揺らがない。
 槍を杖として直ぐに立ち、碑と正面から向き合って。
「父なるカルハリよ、祖霊に国を還し、子らに国を託すため、小官はこの祖国の縁より深淵へと踏み入ろう」
 その暁には、きっとこの身をソーニャ・デグチャレフへと返すことにもなろう。復活を遂げた祖国に踏み入るは小官ならぬソーニャ・デグチャレフ自身でなくばならぬのだから。
 ふと、ソーニャは虚空を見る。
 大望果たし、ソーニャに贖った後、小官はどこへいくものか。
「はっ」
 今さら考えるまでもない。
 すでにいく先は決めている。
「ゲエンナ(地獄)だよ」
 英雄どもを引き連れて、行くのでもなく、逝くのでもなく、彼の岸へ征く。
 そこにはいるはずだ。これまで幾人のソーニャ・デグチャレフを殺してきたか知れぬレガトゥス級が。
 戦うがためにソーニャは此の岸へ来た。
 ならば戦うがために彼の岸へ征くのが宿命であろう。
 翻した背がなにかに引かれ、歩が妨げられた。それは――この世界で結んだ仲間たちとの絆。彼女をこの世界に縛りつけようとするあたたかな手だ。
「……それでも、小官は征かねばならん」
 沸き上がる寂寥を噛み殺し、ソーニャは歩き出した。


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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【ソーニャ・デグチャレフ(aa4829) / 女性 / 13歳 / 鋼の決意】

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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 その背を押すは硬き決意。
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2018年01月09日

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