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『彼の目覚め 』
スノーフィア・スターフィルド8909
 時計を見ると午前11時。
 一般的な社会人ならアウトな感じだけれども、彼は無職なので特に問題はない。問題があるとすればご近所の目ってことになるわけだが、それはまあ、集中しない時間帯をわきまえてさえいればなんとかやり過ごせるし。
 などとぼんやり考えつつ、彼は布団から這い出して……首を傾げたのだ。
 なんだかこう、擦れるので。
 ありえない距離で、胸の先が床に。
 現在四つん這いになった彼の胸と床との距離は10センチあるかないか。少しと言ってしまえば少しなんだろうが、それにしたって男の胸先がつくような距離じゃない。
 んー。彼は半ば目を閉じたまま首を掻いた。
 やけに首回りがスカスカする。寝ている間にTシャツのネックを伸ばしてしまったらしい。無職にとっては服も大事な資源だというのに、まったくもう。
 まだ寝ていたいところだが、こうして目が覚めるということには理由がある。そう、生理現象だ。
 しかし、今日寝たのは午前6時過ぎだから、たった5時間足らずで目が覚めたわけで。寝る前に水分を摂り過ぎた記憶はないし、
 もしや膀胱のサイズが小さくなった? 理由とし考えられるのは……水分じゃないことはさっき確認した。調子自体が悪いわけでもない。
 だとすれば。
 加齢のせいとか?
 いやいやいやいや。彼の年齢はまだ24歳なのだ。生活習慣病を疑うにはまだ10年は余裕があるはず。そもそも生活習慣にだって病気を疑わなければならない点などない。毎日徘徊じゃなくて散歩は欠かさないし。
 だから大丈夫。週に何度か家系ラーメン+ライスおかわりしてスープ完飲しても、運動しているのだから大丈夫なのだ。
 もっとも、大丈夫の度合を測る健康診断は一度たりとも受けたことがないのだが。
 いちおう、変な感じになってないか確かめとこう。
 彼は腕を伸ばして――もちろん胸の先が床にこすれないようにだ――這い這い、布団から脱出。掃除だけはきちんといているフローリングの中程で立ち上がり、トイレへ向かった。
 いつもどおり、便座を上げて分身たるものを……分身たるものを……分身たるものが、指に当たらない。
 意味がわからなかった。
 日々の排泄以外に使うあてのないものではあったが、24年間、一秒だって離ればなれになることなく苦楽を共にしてきた相棒だ。それが、行方不明って、おいおい。
 ひとりなのをいいことに、彼は某アパレル量販店が一時期押し出していたおしゃれステテコを引き下げた。腰のあたりはゆるいのに、なぜか尻に引っかかる。意外なほど苦労して膝まで下ろせば、やけに白い腿が目に入ってきた。
 白っ! あと毛がないんですけど!?
 彼も男なので、脚にはそれなりの量毛が生えていたはず。それがまるで見当たらなくて、白くてしかも見るからにすべすべで。おかしい、これ、ほんとに私の見慣れた脚?
 って、“私”?
 彼の口にし慣れた一人称は○○。○○だよ、○○。え? え? 私、自分の使ってた一人称が思い出せない? むしろ“私”以外しっくりこない。
 どうなってるんだろう、私。
 悩んでいるうちに生理現象の突き上げが激しさを増してきた。もうそろそろ限界を越えそう。
 彼はあわてて分身を引っぱり出そうとして、衝撃の現実に気づくこととなった。
「ない!」
 響きは低いが、かつての彼の声と比べればずいぶん高い……いや、音が高い低いじゃなく、喉そのものがちがうというか、まるで女のような声が出て。
 ばっと胸に両手を当ててみれば、手応えこそ控えめながらしっかりとしたやわらかさが返ってきた。
「つまり、ある」
 それからあらためて下に手を伸ばしてさわさわ。
「やっぱり、ない」
 呆然とつぶやく彼。
「なんで?」
 当然、説明してくれる者はなく。
 この場の彼に知れていることはただひとつだけ。
 あと2秒で漏れる。

 なんとか盛大な漏水を引き起こすことを食い止めた彼。まさか自分が「座ってする」を実施することになろうとは思ってもいなかったのだが、ともあれ。洗面所の鏡に映る自分をしげしげと見る。
「見たことのない顔、だよなぁ」
 シャープなラインを描く頬をつねってみると、ちゃんと痛い。
 瞳の色は直ぐに伸びた髪と同じ銀。カラコンではなく、もともとの色味がそうであるらしい。
 しかし、こうして見ると不思議なものだ。
 鏡に映る彼は、豊麗ではないがファッションモデルさながら流麗なスレンダー美女なのである。
 なのに。
 あるべき違和感がまるでない。
 まるでこれこそが最初からあるべき姿だとでもいうように。
 とはいえ部屋の中には男の趣味と規準でそろえられた家具があるばかりで、女物は見当たらない。基礎化粧品すらないのだから、やはり眠りに落ちたときまでは確かに男だったのだろう。
「夢とかいう可能性もあるのか……」
 こんなにリアルな夢を見た記憶はないが、中には夢の内で他人の人生を体験するような人もいるらしい。
 そう考えるといろいろ腑に落ちる。今も昔も多分未来も女っ気がない自分が潜在的に思い描く理想の女性像がこれで、それが夢特有の理不尽さでねじれ、付き合う夢じゃなくて自分がなる夢を見てしまったと。
 だとすれば、この状況を打破する方法はひとつだ。
「もう1回寝よう」

 かくて彼は布団にすべり込んだ。
 男臭さが鼻を突くが、元は自分の臭いだと思えばなんとか耐えられないこともない。
 このまま寝てしまえば、次に目が覚めるときには全部元通りに戻っているはず。戻っているはず。いるはず。はず。
 ――って、違和感がありすぎて寝られない!
 仰向けになればなにやら胸が重いし、横になろうとするとそれにつれて蠢くし、そもそも体のバランスが変わっているせいで動きづらいし、息をつけば勝手に艶っぽくなるし。
 夢とはいえ、自分の声に自分でうろたえるのが気持ち悪い。
 実は心のどこかでこんな変身を望んでいる男だったらしいことがたまらなく怖い。
 早く目を覚まさなくちゃ。
 ……ああ、そうだ。もう目を覚ますべきなのだ。そして自覚しなくちゃいけない。
 自分がどういうわけか銀髪銀眼の美女になってしまった事実を。
 観念した彼は目を開けて上体を起こす。
 野放しにされた胸があるべき位置に落ち着き、呼吸も楽になった。
 今、貯金はいくらあったっけか。持て余すようなサイズではないようだが、ブラジャーはまさか適当に選ぶわけにはいかないだろうし。問題は、どのくらい寄せて上げるかだ。
 まさか自分がこんなことで悩む日が来ようとは……本当に夢みたいだ。実にそう、悪い意味で。
 顔を洗い、塗るものがないのですっぴんのまま、女性が着てもおかしくなさそうな服を選び出す。オーバーサイズのワイシャツとカーゴパンツ。靴は紐をきつく絞め、足からずれないようにすれば歩けそうだ。
 重いドアを押し開ければ、外はよく晴れていて、銀の瞳に染み入るまぶしさだった。
 彼はまわりに誰もいないことを確認し、うんと伸びをして踏み出した。
 そういえば、こんな時間に外へ出るのはどれくらいぶりだろう?
 それよりも、ここから私はどうなるんだろう?
 悩んだところで先のことはわからない。とりあえず考えないようにするのは得意ジャンルだ。彼は頭を空っぽにして、光をたどって歩を刻む。
 今はこうするしかなかったし、こうするべきだろう。先にあるものがなんであれ、とにかく行くしかないのだから。


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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【スノーフィア・スターフィルド(8909) / 女性 / 24歳 / 無職。】

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 光あれど、先が知れぬ上は闇に等しいものなれば。踏み出すは果たして勇か愚か?
 
東京怪談ノベル(シングル) -
電気石八生 クリエイターズルームへ
東京怪談
2018年02月13日

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