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『彼の歯車 』
スノーフィア・スターフィルド8909
 下着を始め、「女性」として生活するためのあれこれを艱難辛苦の末入手、這々の体で帰ってきたスノーフィア・スターフィルドは今、ようやく息をついた……のだが、なんとも落ち着かない。
 なんというか、自分の部屋なのに自分の部屋だと信じ切れないようなもやもや感が消えなくて。
「もっとこう、古ぼけていて、床もこんなに綺麗なフローリングではなくて、畳だった?」
 ぼんやりと思い出される部屋の有り様は、それなりに片づいてはいながらもどこか男むささの抜けない、こぢんまりとしたアパートの一室だったのだが。
「?」
 記憶が端から、違和感と共にじりじりと欠けていく。
 普通の人間どころか下級神ですら気づかないほどの速度だが、今のスノーフィアにはわかる。自分よりも上位の存在により、侵されているのだと。
 彼女はため息をつき、言葉を紡ぐ。
「別に思い出したからといって抗うようなことはしませんので。私を改竄するのはやめていただけますか?」
 自分のどこにそんな語彙とセンスがあったのか知らないが、意外なほど自然にクレームを述べられた。
 得体の知れない侵食ではあれ、なぜか悪意が感じられなかったからかもしれない。むしろ余計な気づかいとでもいう感じ?
 ともあれ、侵食が停止したことを確かめた彼女はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。
 買った覚えのない炭酸水のペットボトルの封を切り、そのまま呷る。
 いかにも美容を気にしていますといった女子が好きそうな硬水の舌触り。たくさん飲んでしまうとお腹を壊しそうで、スノーフィアは半ばで飲むのをやめた。
「人心地つくには心許ないですけれど、感謝はしておきますね」
 水を用意してくれたのだろう謎の存在へ礼を言い、あらためて“彼”を思い出す作業にかかる。
 以前、私は普通に働いていた。会社員としては折り返し地点を過ぎた――いわゆるおじさんだったはず。
 心の底に散っていた記憶の欠片をひとつびとつ探し、ていねいにすくい上げては繋ぎ合わせて、ぼんやりした輪郭を削って形を整えていく。元どおりかはわからないが、この心身の窪みにぴたりとはまる感じ、確かな記憶ではあるのだろう。

 値段相応、ごく一般的な内装を備えたアパート。その一室からビジネスバッグを手に駅へ向かう。
 昨日の夜は少し蒸し暑かったから、朝シャワーを使って体を流し、特に加齢臭の放出口であるというつむじのあたりと耳裏、首の後ろは念入りにケアした。
 適度にこなれたストレートチップは、週末にかならず墨で磨いて綺麗にしている。体にしても、量販店のセミオーダースーツの都合に合わせ、太ってしまわないよう心がけていた。
 ……そんな“おじさん”はきっと、日本のどこにでもいるのだろう。
 でも。どこにでもいるはずのおじさんだった“私”は今朝目覚めて、おじさんではなくなっていた。おじさんが生活するには充分だったはずの場所から、24歳の女性が暮らしていてもおかしくない場所へ。
 そう。24歳なのは、誰とも知れぬこの人だ。無職なのも外国人と思しきこの人で。
「鏡、できるだけ大きな鏡――」
 スノーフィアはあらためて、自らを姿見に映してみた。
 銀髪でその細面を飾ったスレンダー美女。
 すらりと伸びた美脚は上半身より長く、その上半身もまた、膨らみこそ穏やかながら実に繊細なラインを描いている。
 まず日本人ではありえない。
 知り合いにも心当たりがない。
 それなのに、よく知っているような……なつかしさよりも近い、この感覚はなんだ?
 と、スノーフィアは気づく。
 姿見なんて、どこから出てきた?
 朝起きたときにはもっとずっと“男の部屋”だったはずだ。なのに、よほどおしゃれに気づかっている男でなければ持っていない、当然のごとく元の自分が持っていようはずのない姿見が、ここにある。
 先に感じた改竄とは多分ちがう。はっきりとは言えないのだが、力の質が異なるのだ。むしろこれは……だめだ、適切な表現が思いつけない。
 スノーフィアは考えることをあきらめ、次にするべきこと探しに移った。


 意を決し、スノーフィアはマンションをもう一度出て歩き出す。
 見覚えのある景色を辿り、駅についたことでひとつの疑問に答が出た。あのマンションは、元の自分が住んでいたアパートと同じ場所にある。
 人々の注目を見ないふり、男物の財布に残されていたICカードでゲートをくぐった彼女は、通勤時間に比べれば驚くほどに人の少ない電車の内へ視線をはしらせた。
 横座りの席も、中吊りの広告も、特有のにおいも、加えて乗客も、すべて普通だった。
 そして彼女は“彼”だったときと同じように電車を降り、同じルートで歩き、たどりついた。
「会社は……ある」
 数十年もの間ずっと通い続けてきた、“彼”の人生の大半を預けた場は、なにも変わらず、そこに在った。
 思わず一歩を踏み出して、スノーフィアはその足を踏み止めた。
 あそこに今の彼女とはちがう“彼”がいるのだとしても、“彼”という存在が最初からいないことになっていたのだとしても。会社は今日も普通に動き続けていて、これからも存続していく。
 それをこの目で確かめてしまうのが、怖い。
 社畜というほどのものではなかったはずだけれど、「どこの人」かと問われれば会社の部署をあげる程度には意識的に帰属していたし、有り様を寄りかからせていたのだから。
 でも、そんなネガティブな心情よりも少しだけ強い気持ちが、その胸に灯ってもいた。
 私はもう、どこの誰でもない、スノーフィア・スターフィルドなんだから。

 帰路についたスノーフィアは、もよりの駅からひとつ離れた駅で降り、構外へ出た。
 とにかくこれだけは認めよう。
 自分は変わった。物語で綴られる変身譚の主人公さながら、日本人のおじさんから日本人ならぬ若く美しい女に変わってしまったのだと。
 だから、変わろう。
“彼”の過去に追いすがるのではなく、スノーフィアとしての未来へ踏み出すために。
 未だになにが起きたのか、そしてスノーフィア・スターフィルドが何者なのかもわからないままだが、それはこれから突き止めていけばいい。会社員ではなくなった今、時間だけはたくさんあることだし。
 そう思うと気持ちが軽くなるのはどうしてだろう。思ったより私、楽天的なのかな。でも、悩んだところでどうしようもないし。なるようになるよ、きっと。
 なんとなく落ち着いた自分に対し、スノーフィアは思わず苦笑をこぼした。


 と、気持ちを新たにして帰ってきたわけだが。
「これはいったい……?」
 部屋が様変わりしていた。
 男物で固められ、どこからともなく現われた姿見があっただけの一室ならず、なにやら美しく磨き上げられた木の床――フローリングと呼ぶにはあまりにも重厚すぎる――に白壁、俗に猫足と呼ばれるカブリオールレッグの家具で整えられた、多面採光の部屋にだ。
 ああ、クイーンアン・スタイル。
 スノーフィアの脳裏で、ごく自然に正解が導き出される。18世紀の前期、他国の影響を受けたイギリスで完成された様式だと。
 彼女は知っている。そう、“彼”だったころから、よく知っていた。この、あまりにも綺麗に整い過ぎた、経年劣化のけの字すらない白い部屋のことを。
 もちろん“彼”が住んだことなどありえない。一度だって住みたいと思ったことも。しかし、ここには確かにいたのだ。
「――スノーフィア・スターフィルドが」


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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【スノーフィア・スターフィルド(8909) / 女性 / 24歳 / 無職。】

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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 彼と彼女の歯車、重なる。
 
東京怪談ノベル(シングル) -
電気石八生 クリエイターズルームへ
東京怪談
2018年03月08日

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