▼作品詳細検索▼  →クリエイター検索


『蟻の王国』
松本・太一8504


 この国には、人間ではないものを裁く法律がない。
 人間ではないものに、法は適用されない。
 害獣の類として殺処分しても、罪に問われる事はない。
「貴方が、元々は人間だった事。私は覚えておきます」
 目の前でおぞましく蠢く巨大なものに、松本太一は語りかけた。
 会社の、後輩である。若手の中でも成長著しく、経営陣からも有望視されていた男だ。
 48歳独身の太一とは違って結婚しており、子供もいる。仕事でも私生活でも充実しているように、外からは見えた。
 そんな彼が、離婚をした。
 会社では礼儀正しいビジネスマンを演じていた彼が、自宅では暴君としての本性を露わにしていたのだ。妻は、横暴な夫の元に幼い娘1人を残して逃げ去った。
 私生活の崩壊が仕事にも影響し、彼は会社を辞める事となった。
 そして、人間である事も辞めてしまった。
『誰の仕業なのかは、まあ大体わかるわ』
 太一の中で、1人の女性が苦笑している。
 彼女の仕業で太一もまた、人間を辞める事になった。
 48歳の熟年サラリーマンから、こうして若く美しい魔女へと変化する。人間とは言えないだろう。
 凹凸のくっきりとした身体に、ドレスとレオタードの中間のような紫系統の衣装が貼り付いている。深く柔らかな胸の谷間も、瑞々しい左右の太股も露わであり、艶やかな黒髪には花の髪飾りが咲いている。
 幼さの残る美貌で、重々しい渋面を作りながら太一は今、かつての後輩と対峙していた。
「何だぁあ……てめえぇぇ……」
 目の前に立つ若い女を、かつての先輩社員・松本太一であると認識出来ないのは、まあ仕方がない。
「そこ、どきやがれ……親子の間に、入って来ンじゃねーよぉおお……」
「親子、ね……」
 太一の背後では、幼い女の子が1人、怯え泣きじゃくっている。
「私が今ここをどいたら、貴方はこの子に何をするつもりですか?」
「撮るに決まってんだろぉおおお。俺が今からニュルニュルぬっぽぬっぽ可愛がってヤっからよおぉ、そいつを撮って有料配信するんだよおお」
 無数の触手を蠢かせ暴れさせながら、太一のかつての後輩は喚いた。
「親がよォ、自分の子供どー扱おうが勝手だろうが元々俺が種付けてやったんだからよォオオオオ!」
 それら触手が、一斉に襲いかかって来る。
「情報入力……」
 太一の繊手が、空中を撫でた。目に見えないキーボードかタッチパネルが、そこにあるかのように。
 巨大ロボットの右手が一瞬そこに出現し、喚く怪物を叩き潰し、消え去った。
『殺してしまったわねえ、直接……』
 太一の頭の中で、その女性は言った。
『情報改変で、最初からいなかった事にも出来たのよ?』
「そうしたら、この子も消えてしまうかも知れませんから」
 泣きじゃくる女の子の頭を、太一はそっと撫でた。
「子供は……生んでくれる親を選ぶ事が、出来ませんものね」
『……そう、でもないわよ』
 彼女が、謎めいた事を言っている。
『子供が、親を選んで生まれて来る事例……ないわけでもないのよね。そうそう、貴女には伝えておかないと』
 口調が、いささか改まった。
『子供が産まれたわよ。あの2人の間に』
「……どの、お2人ですか?」
『だから、あの2人よ』
「……おめでたい事、なんですよね」
 太一は、指先で頬を掻いた。
「それで、ええと……どちらがお母さんで、どちらがお父さん、でしたっけ?」


 自然界における、牡の役割とは何か。
 とある動物は、一夫多妻で群を作る。
 牡は、大勢の牝に子供を産ませる。
 生まれた子供は、牝が養育する。狩猟も、牝の役割である。
 老いさらばえて種付けが出来なくなった牡は、やがて群れを追われて孤独に野垂れ死んでゆく。
 出産に備えて、牝が牡を捕食する。そんな昆虫もいる。
 働き蟻も働き蜂も、全て牝である。牡は労働の機会すら与えられず、交尾が済んだら捨てられて死ぬ。
「人間も……そんな感じ? 今」
 赤ん坊を抱いたまま、松本太一は呟いた。
 応えるはずもなく、だぁだぁと楽しげにしている赤ん坊を見つめて、太一は思う。
 自分はこの子の、父親なのか、母親なのか。
 この子を産んだのは、彼女の方である。紛れもなく、女性の胎内から生まれた赤ん坊なのだ。
 しかし今、太一の肉体もまた、女のそれである。『夜宵の魔女』として、人ならざるものと戦ってもいる。
 それが仕事というわけではない。職業は公務員で、市役所に勤めている。この子が生まれたので、育休をもらった。
 一昔前と比べて、育休も取りやすくなった。
 働く女性が爆発的に増えたから、ではあるだろう。
「まるで働き蟻みたいに……なぁんて言ったら、炎上して叩かれちゃうかなあ?」
 我が子に、微笑みかけてみる。
 父親か母親か判然としない女性の、細腕と豊かな胸に抱かれたまま、赤ん坊はただ笑うだけだ。
 ここ数年で、働く女性が、と言うより女性そのものが増えた。さらに言うならば、男性が減った。
 男たちはますます内向きになり、二次元の美少女に救いを求めるようになった。
 そう。人間の牡は、種付けの役割すら放棄してしまったのだ。
 女性同士の結婚も合法化された。
 子供を獲得する手段は、いくつかある。見知らぬ男性の精子を買っての体外受精が主なものだ。
 精子の売買もビジネスとして成立しており、そういうものに従事している男性は、まだ種蒔きの役割までは放棄していないと言えるかも知れない。
 今、太一に抱かれている、この子は違う。彼女のお腹から生まれた赤ん坊である。
「松本さーん」
 声をかけられた。
 若い母親が1人、ベビーカーを押しながら手を振っている。
 そのベビーカーの中では、赤ん坊が楽しげにはしゃいでいる。
 覗き込んで、太一は言った。
「今日は、ご機嫌じゃないですかあ」
「今はねー。さっきまで、もうギャン泣きして大変だったんだから」
 一時は、育児放棄か心中か、というところまで追い詰められていた母子である。近頃珍しく男性と結婚して普通に子供を生んだのだが、その男とは離婚した。いない方がまし、という父親であった。
 幸いにして、この若い母親の叔母に当たる女性が、市役所員であった。
 太一の上役でもあり、最強の「お局様」として市長にも一目置かれる人物が、己の姪のために遠慮容赦なく便宜を図った。姪御が、様々な手当を受けられるようにだ。
 太一の育休取得がつつがなく済んだのも、そのお局様の尽力によるところ大である。
「でもねー、最近わかったの。うちの子ね、外の空気吸わせると機嫌良くなるみたい」
「ふふっ、アウトドア派なんですね」
「そうねえ。何かスポーツやらせてみようかな」
 穏やかな会話が続く。
 幸せなのだ、と太一は思う事にした。


「お帰りなさい、太一さん」
 エプロン姿が、相変わらず恐いほど似合っている、と太一はいつも思う。
「ご飯が出来るわ。もう少し待って……もう少し、その子を抱っこしててもらえる?」
「え、ええ。それは、いくらでも」
「ふふっ、ごめんなさいね。いつも、その子を押し付けちゃって」
 彼女が微笑む。
 太一も、にこりと愛想笑いを返す。
 赤ん坊は、相変わらず楽しげに笑っている。
 笑顔しかない世界だ、と太一は思った。
 皆、幸せなのだ。この子も、幸せに育ってゆくのだろう。
 産休も育休も自由に取れる。母親にとっても、赤ん坊にとっても、理想の時代。
 まるで誰かが、この子の誕生に合わせて、全てを作り変えてくれたかのようだ、と太一は思った。
(まさか……この子自身が……?)
 一瞬、浮かんだ愚かしい妄想を、太一は頭を振って払いのけた。
 赤ん坊は、ただニコニコと笑うだけだ。


ORDERMADECOM EVENT DATA

登場人物一覧
【8504/松本・太一/男/48歳/会社員・魔女】
東京怪談ノベル(シングル) -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2018年04月05日

投票はログイン後にできます。

ログインはこちら












©Frontier Works Inc. All Rights Reserved.