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『黄昏に佇む者たち』
松本・太一8504


 48歳である。
 この年齢になると、特に朝に衰えを感じる事が多い。
 だが、ここ最近の体調は悪くない。朝、目覚めと同時に、自分は男であると再認識する事が出来る。
 決まった女は、いない。
 妻とは別居中で、今は離婚の調停がいささか難航しているところだ。煩わしいが、男の勲章の1つとでも思うしかない。
 会社での現在の役職は、部長である。
 確かに年収は増えたが、それ以上に気苦労が増えた。体調は良くても、心が萎える日々が続く。
 昔は役員の地位を狙っていたものだが、あの連中も何やら要らぬ気苦労を背負い込んで四六時中、難しい顔をしている。
 日本社会で出世をするというのは、そういう事なのだ。
 日々のほほんと過ごしている新入社員どもを見ていると、腹立たしくなってくる反面、羨ましくもなってくる。
 あの松本太一という男を見ていると、特にそうだ。
 私と同期で同い年。ただ私と違って出世コースからは完全に外れ、後輩に次々と追い抜かれながら万年平社員生活を満喫しているあの男を、私は最初、大いに軽蔑していた。
 今でも、そのつもりだ。
 ただ、思う事はある。
 私がとうの昔に失ってしまったものを、あの男はまだ大切に持っているのではないか。
 私が今まで得られず、この先も決して手に入れる事がないであろう何かを、あの男は大いに与えられてきたのではないか。
 そんな思いを、私は頭を振って払い落とした。
「馬鹿馬鹿しい……あの男は敗者、私は勝者。ただ、それだけの事だ」
『本当に……そう、お思いですの?』
 女が、また話しかけてきた。
 私の、中からだ。
『お認めになっても、よろしいのではなくて? ご自分の生き方が……いくらかは間違ったものであったかも知れない、と』
「間違ってなど、いるものか……!」
 行きつけのバーで、この女を見かけ、口説いたのが先月の事である。
 私の家に、連れ込む事にも成功した。別居中の妻の代わりに、この女は私の生活の一部となった。
 否。生活の、ではない。
 この女は今や、私の一部であった。
「人はな、生きている限り上を目指すものだ。たとえ同僚や恩人を蹴落としてでも! 人間から向上心を取り去ったら一体何が残る? 無様さが残るだけだ! 年下の上司に使われて媚び笑いを浮かべている、あの松本太一のように!」
『人は、脆く儚いもの……』
 私の一部。それも違う、と認めざるを得ない。
 今や私の方が、この女の一部なのだ。
『それでいて、ふふっ……間違えた生き方を無理やりに続ける事で培われてしまった、おぞましくも強固なものを内に秘めていらっしゃる貴方。私の戯れ道具に、ふさわしいですわね』
「やめろ……」
 自分は男である。朝が来る度に、私はそれを認識している。
 だが、今。逢魔が時の訪れと同時に、私はその認識を失う。
「もう、出て来るな……いや、むしろ出て行ってくれ……私の中から……」
「飽きたら、出て行きますわ」
 心の声を、私の口から出る肉声に変えながら、女は姿を現しつつあった。まるで美しい蝶が羽化するように。
「けれども残念……貴方は私を、なかなか飽きさせては下さいませんのよ」


 年下の上司を、受け入れる。
 それさえ出来れば、万年平社員という境遇も悪いものではなかった。太一を追い抜き出世していった後輩たちも、現場の要として太一を立ててくれる。
 この居心地の良さを捨ててまで出世をしたい、とは思えない。
 向上心のない男、と見られてしまうのは仕方がなかった。女性社員たちに、親しまれはしても恋愛対象にはしてもらえない。
 48歳である。女性とは縁がないまま自分は、男として枯れ果てようとしているのか。それも悪くない、とは思える。
 そんな松本太一を、なかなか見捨てようとしない女性が1人いる。
「常々思う事ですけどね……どうして、私なんですか?」
 いくらか格好を付けて腕組みをしながら、太一は訊いてみた。
 会社の、駐車場である。
 珍しく残業がないので帰ろうとしたところ、こんなものが視界に入ってしまったのだ。
「人間は大勢います。別に、私でなくとも」
『良かったけれど、何故か貴方を選んでしまったのよ。飽きないから居座り続けているだけ』
 太一にしか聞こえない声。太一にしか、認識出来ない女性。
 うっかり人前で彼女と会話をして、通行人に気味悪がられた事も1度2度ではない。
『飽きない。これはね、楽しいよりも大切な事よ? 楽しさには、飽きてしまうものだから』
「私もね、少なくとも楽しくはないです」
 太一は腕組みをしながら、両の細腕で己の胸を抱えていた。
 紫系統の衣装を、豊満に膨らませた胸。綺麗にくびれた胴、むっちりと形良く露出した左右の太股。
「今は……まあいいかな、って感じです。こういう方々と、誰かが戦わなきゃいけませんものね」
 可憐な美貌が微笑み、艶やかな黒髪がさらりと揺れる。
 紫と黒を基調とした、言わば正装をまとう『夜宵の魔女』が、そこに出現していた。
「このところOLスーツとかナース服とかが続いてましたけど……これが一番、しっくり来るのかな。どうかなあ」
 太一は呟く。
 こういう方々、と呼ばれた怪物は答えてくれない。ただ無数の触手を伸ばして車を叩き潰し、逃げ惑う人々を襲うだけだ。
 太一は片手を伸ばした。長手袋をまとう優美な五指が、空中に表示された光の文字列を操作する。
「ま、どうでもいいですよね……情報、改編」


 おぞましく巨大な怪物の姿が、消え失せた。
 触手から解放された人々が、呆然としている。何台もの車は破壊されたままで、マイカーを失った人もいるだろうが、まあ命が助かって良かったと思ってもらうしかない。
 誰かが、軽やかに拍手をしている。
「お見事……ですわね。手間をかけて構築した情報を、あっさり解体消去されてしまいましたわ。最初から何もなかった事に」
「何もなかった事に、はなりません。貴女の組んだ情報を解析・削除するのが精一杯で、事象の改編までは出来ませんでしたから」
 太一は睨み据えた。
「見ての通り車は壊れたまま……人が死んでいたら、死んだままだったって事です」
「人の命など、世界にとっては……いくつか削除されても差し支えない余剰データ、に過ぎませんわ」
 その女性は、美しく笑った。
「そう思い定めなければね、魔女というお仕事……なかなか長続きしないのではなくて?」
「貴女は……いえ、貴女たちは……」
 1人だけ、ではなかった。
 いくつもの優美な人影が、夕刻・逢魔が時の薄闇の中に佇んでいる。
「夜宵の魔女が……貴女1人だけだとは、思わないでね」
「私たちが棲み憑いた人間、その多くは無様な怪物にしか成れないけれども」
「こうして見事、夜宵の魔女が出来上がる例も、無いわけではないのよ」
「キミほどの完成品は、なっかなか無いけどねえ。ふっふふふ、見事なものだよ」
 何人いるかわからぬ『夜宵の魔女』たちに、太一は油断なく問いかけた。
「……今日のところは御挨拶だけ、という事で? それ以上の御用がおありでしたら、しょうがない受けて立ちますけど」
「戦う理由もありませんわ。今のところは、ね」
 薄闇に溶け込むが如く、魔女たちが消えてゆく。
「また、いずれ……貴女がお嫌でも、会いに来ますわ」
『いつでもいらっしゃい。思い知らせてあげる』
 太一の中で、彼女は言った。
『夜宵の魔女は……松本太一ただ1人だけ、という事をね』
 私と貴女で、ですよ。
 太一はつい、そう言ってしまうところだった。


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登場人物一覧
【8504/松本・太一/男/48歳/会社員・魔女】
東京怪談ノベル(シングル) -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2018年05月07日

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