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『悪魔セラピー』
松本・太一8504


 戦っている最中に1度、世界が滅びた。
 それほど凄まじい戦いであり、それほど恐ろしい敵であった。
 そして今。滅びたはずの世界が、1人の女性の尊い犠牲によって救われたのだ。
『……やめてちょうだい。誰が、世界のために犠牲になんてなるもんですか』
 太一の中で、その女性が死にそうな声を発している。
 48歳の熟年サラリーマン松本太一を、うら若き『夜宵の魔女』たらしめている女性。
 悪魔族の女である、と本人は言う。
 その女悪魔が、世界を救ってくれた。
 世界の滅亡を『無かった事』にしてくれたのだ。恐るべき敵を倒した、という事実のみを保存したままで。
「ごめんなさい……私じゃあ、そんなめんどい事は無理です。世界の滅亡を『無かった事』にした瞬間、あの敵まで復活しちゃいますから」
『私もね、ここまで大掛かりな「因果の再構築」をやったのは初めてよ。寿命が……何千年かは、すり減ったわね。多分……』
「貴女の事は忘れません……今まで本当に、ありがとう」
『……別に今すぐ死ぬわけじゃないのよ。ただ……疲れたわ。しばらく、休ませてもらう……わね……その間、私の力は使えないから……くれぐれも厄介事に、巻き込まれない……ように……』
 女悪魔が、静かになった。
 太一は今、『夜宵の魔女』の姿を、高層ビルの屋上に佇ませている。
 豊かな胸を細腕で抱えるようにして偉そうに腕組みをしながら、人々の営みに溢れた街並みを見下ろしている。
 あの恐ろしい敵は滅びたまま、世界の滅亡が無かった事になった。人々は、変わらず平和に暮らしている。
「お疲れ様。いやー、キッツい戦いだったね」
 魔女たちが続々と、太一の周囲に降り立った。
「新米ちゃんが頑張ってくれたおかげで、何とか勝てたよ」
「あたしらが集まって組んで戦うなんて、何千年ぶりかねえ」
「……本当に、ありがとうございました」
 太一は、ぺこりと頭を下げた。
「皆さんが助けて下さらなかったら一体、どうなっていた事か……」
「それより、どうするの。あいつ疲れて寝ちゃったんでしょ」
 魔女の1人が心配してくれた。
「厄介事に巻き込まれるなとか言ってたみたいだけど……あんた、それ無理じゃない?」
「はい……だと思います」
「私にお任せ下さいな」
 別の魔女が、にこやかに言った。
「私ね、アクアリウムを経営しているんです。とっておきのアクアセラピーで貴女の疲れも、中の人の疲れも、手早く取り除いてあげましょう」
「お願いします。この人には……出来るだけ早く、目を覚ましてもらわないといけませんから」
 正直、嫌な予感はする。
 だが『夜宵の魔女』が戦わなければならない相手は、まだいくらでもいるのだ。


 水槽、と言うより巨大なフラスコやビーカーや試験管の中で、よくわからぬ生き物たちが蠢き泳いでいる。
「この子たちは実験調整中なんですよ。ちょっとまだ、お客様にお見せできる段階じゃありませんから」
 魔女が言った。
 ここにいる生き物の、言わば完成形とも言えるものたちが今、アクアリウム本館の巨大水槽で優雅に泳ぎ回っているのだ。
 本館の裏手に、太一は案内されていた。
 アクアリウム経営者であるこの魔女の、実験室と言うか、工房であろうか。
 アクアセラピーを行うには、いささか禍々しい場所であるのは否めない。
「では新米さん。ちょっと、そこに立ってもらえますか?」
「あ、はい……」
 言われた場所に、太一は立った。
 大量の水が降って来た。まるで誰かが天井でバケツをひっくり返したかのように。
「あぶっ……なっ、何ですかぁ……昔のお笑い番組ですか……」
 ずぶ濡れになりながら太一は、おかしな事に気付いた。
 自分は床に立っていたはずだが、何やら宙に浮いている。
 あるいは、水の中を漂っている。
 いや、これは本当に水なのか。
 天井から降って来たものに太一は今、包み込まれていた。
 ひんやりとしている、ようで生暖かくもある。
 水と言うより、羊水か。もちろん母の胎内にいた頃の感覚など覚えてはいないが、妙に懐かしいようでもある。
 自分は今、胎児に戻ろうとしているのか。
「おっ、お母さぁあああん!」
 羊水のようなものの中で、太一は悲鳴を上げた。ちなみに48歳独身男性・松本太一の母親は、某県の実家で健在だ。
 父も元気で、また働こうかなどと言っている。お前の稼ぎは当てにしていないよ、とも笑顔で言われた。
 同じくらいに年老いた猫を実家では飼っている。まだ元気だろうか。
(え……これって、走馬灯……みたいなもの……?)
 ひんやりとしていて生暖かい何か、の中で、夜宵の魔女の優美な胴体が柔らかく悶える。豊麗な胸の膨らみが、ふよふよと揺れて漂う。
 自分は今、泳いでいるのか、溺れているのか。
 水泳に限らず、運動は得意な方ではなかった。
 夜宵の魔女に変わると、運動不得意な熟年サラリーマン・松本太一とは比べ物にならないほど軽快に動けはする。ただ、泳げるようにはなっているのだろうか。海竜娘に変身させられた事はあるのだが。
 あの時の事を思い出しながら、太一は泳いでみた。むっちりと肉が付きながらスラリと伸びた両脚が、羊水のようなものの中で弱々しく揺らめく。
 泳げているのかどうかは、わからない。ただ少なくとも、溺れてはいない。
 呼吸が出来る事に、太一はようやく気付いた。言葉を発する事も出来る。
「あのう……こ、これって一体」
「だからアクアセラピーですよ」
 声も聞こえる。太一を包み込む何か、の外側から、魔女が言葉をかけて来る。
「水の魔女たる私が精魂込めて育て上げたアクアスライム……ああ心配しないで。服を溶かしたり、あんな事やこんな事をしたりはしないから、そんな事をしなくても、ふふっ。気持ちいいでしょう?」
「……知ってました。私って結局、こういう目に遭うんですよね……」
 自分には学習能力がないのだろうか、と太一は思った。
 もう1人の自分である48歳の万年平社員に、語りかけてみる。
(これじゃあ出世しないわけですよ、松本さん……)
 自分は魚。突然、太一はそんな事を思った。
 遺伝子の中に眠る進化の記憶に、アクアスライムが触れてくる。
 太一はもう1度、泳ぎを試みた。
 水よりも重いアクアスライムの中で、優雅に旋回する事が出来た。まるで魚のように。
「肉体、記憶、精神構造、自己認識、それに遺伝子の記憶までも侵蝕して、貴女を変えてしまう」
 魔女が言った。
「たとえ、あの人が目覚めている状態でも……情報改変で元に戻るのは、ちょっと難しいんじゃないかしら。練習するのに、ちょうどいいと思いますよ? ちなみに、アクアセラピーというのも嘘じゃありませんから。その姿なら、のんびり休養も取れます。慌てず焦らず、ゆったり泳いでいましょう」
 豊かな胸、優美にくびれた胴と、安産型の尻周り。
 魅惑のボディラインを引き継ぎながら、太一の両脚が魚類の尾部と化している。一体化して鱗をまとった左右の美脚。その末端は、広い尾鰭だ。
 夜宵の魔女は、人魚に変わっていた。


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登場人物一覧
【8504/松本・太一/男/48歳/会社員・魔女】
東京怪談ノベル(シングル) -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2018年05月17日

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