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『魔女と人魚と土左衛門』
松本・太一8504


 松本太一という人間は、営業の仕事で歩き回る事は多いものの、休みの日は家でダラダラ過ごすタイプであるらしく、行動範囲はそれほど広くはない。
 水槽の中の暮らしに、満足してくれているようであった。
 何しろ人魚である。
 当水族館の看板とも言えるアノマロカリスやメガロドンやティロサウルスと同じ水槽に入れておいたら、あっという間に食い殺されてしまう。
 だから私は彼女を、工房の実験用水槽で、個人的鑑賞物として飼育しているのだ。
 未完成生物あるいは失敗作生物たちと共に水槽内を楽しげに泳ぎ回る彼女を見ていると、私も心が安らぐ。
 誤解してもらっては困るのだが、私は自分の愉しみのためにこんな事をしているわけではない。
 アクアセラピーである。今は人魚となっている彼女自身にも、必要な治療行為なのだ。
 それにしても、と私は思う。
 たおやかな肩の丸み、綺麗な鎖骨、食べ頃の夏柑かメロンを思わせる胸。
 優美にくびれた胴から、尻にかけての肉感的な膨らみを維持したまま、魚類の下半身へと続いてゆくボディライン。
 人魚は、やはり女性に限る。魚類との組み合わせは、女性の曲線でなければ映えないのだ。
 私に言わせれば、男の人魚ほど貧相な生き物はいない。あれなら、まだ半魚人の方がましだ。
 人間の男を人外の生き物に仕立て上げるのならば、やはり醜悪さと猛々しさを追求するべきである。男の怪物は、強く異形であるほど良い。中途半端な美しさは要らない。
 今、水槽の中ですいすいと愉しげにしている人魚姫には、中途半端ではない美しさ以外の何もかもが無かった。
 情報改変の能力そのものは失われていないものの、知能が魚類並みであるから「泳ぐ」「眠る」「食べる」「排泄する」以外の行動は一切、取れない。
 それが今の、松本太一であった。
「ああ、いいわぁ……何時間でも、何百年でも、飽きずに見ていられます」
 水槽の前で、私は至福の時を過ごしていた。
 水中でゆらゆらと揺らめく黒髪は、見ている者の雑念を全て眠らせてくれる。
 いくらか丸顔気味の愛らしい美貌からは、人間の持つ余分な知性が一切、消え失せている。その笑顔から感じられるのは、泳ぐ事、あるいは水中に揺蕩う事に対する、純粋な悦びだけだ。
 水槽の特殊ガラス越しに見ているだけで、幸せになってくる。
 私は思う。可愛い女の子に、知性は要らない。
 そこそこに美しく、小賢しい女。同性から見て、これほど殺意を掻き立てられる存在はない。
「貴女が目を覚ます事で、この子がそうなってしまわないか……私、心配です」
 このアクアセラピーの一応は治療対象である女性に、私は語りかけてみた。
 返事はない。当然だ。彼女は今、松本太一の中で深い眠りについている。
 彼女がこれほどの休息を必要とするほど、凄まじい戦いであった。恐ろしい敵であったのだ。
 私が醜悪さと猛々しさを追求して作り上げた、アノマロカリス男もメガロドン男もティロサウルス男も、その戦いで死んでしまった。
 皆、勇猛で忠実な戦士だった。
 人魚姫が、水槽の中できょとんとしている。ガラス越しに、こちらを見ている。
 自分が泣いている事に、私はようやく気付いた。


 水の外には、何があるのか。
 水の中にいたのでは、わからない。わかる事は、ただ1つ。
 水の外には、あの人がいる。それだけだ。
 あの人は何故、こちらを見て、にへらにへらと笑ったり、さめざめと泣いたりしているのだろう。
 松本太一はまず、それが気になった。
 気になり始めると、いても立ってもいられなくなった。
 気になる事を確かめるためには、しかし水から出なければならない。
 何千年も、何万年も、太一はそう思い続けた。
 気のせい、であろうか。思い続けているうちに尾鰭が小さくなってきた、ような気がする。
 水圧を蹴りのける力が、日に日に弱まってゆく、ように思える。何故だか、上手く泳げない。
 鰭が弱まっている、だけではなかった。泳ぐ力、と言うより身体を動かす力そのものが、失われつつある。
 全身の血液が、澱んでいる。
 酸素が足りていない。
 水から酸素を取り出し吸収する事が、出来なくなっている。
 尾鰭は失われ、五指がそこにあった。水中では大して役に立たぬ、二足歩行生物の素足。むっちりと肉付き良く伸びた両の美脚が、弱々しく水を掻く。
 数万年をかけて太一は、人魚から水死体へと変わりつつあった。


 完全な水死体となる前に、水の魔女が太一を水槽から出してくれた。
「あー……まったく、死ぬかと思いました」
 息荒くぼやく太一の身体を、水の魔女が調べ回す。
 綺麗な五指が『夜宵の魔女』の瑞々しい肢体を、隅々まで這い回り、つつき回す。
「ち、ちょっと何やってるんですか」
「ん〜、残念……鰓もなくなって、完全に人間に戻っちゃってますねえ」
 魔女を人間と呼べるか否かは、さておいて。太一としては、確かめなければならない事がいくつかある。
「あの人は……」
「大丈夫。貴女がこうして人に戻ったという事は、アクアセラピーの必要がなくなったという事ですから。すぐに目を覚ますと思いますよ」
「私……結局どれくらい、この水槽の中にいたんでしょう」
「1週間。まあ貴女の体感としては、とんでもなく長い……そうですね。カンブリアモンスターのどれかが海を出て人間に進化してゆく、よりも何万年か短いくらい?」
「会社……」
「大丈夫ですよ。世界が1度リセットされて、時間の流れがまだ今ひとつ安定していませんから。1週間くらい何とでもごまかせます」
 水の魔女が、微笑んだ。
「それよりも。愉しい時間を、本当にありがとう」
「あ、いえ……お世話になったのは私の方ですから。本当に、ありがとうございました」
『……お世話になった、と言うより玩具にされていただけでしょうが』
 彼女が、太一の中で目を覚ました。
『まったく、私が眠っている間に好き放題やってくれたわね』
「うふふ、おはようございます」
 水の魔女が、目に見えぬ相手に微笑みかける。
「ねえ知っていますか? 私、これで貴女に貸しを作った事になるんですよ」
『そうね、じゃお礼に貴女を三葉虫にでも変えてあげましょうか? 貴女の可愛がっているアノマロカリスの餌になるといいわ』
「もう、やめて下さい」
 太一は止めた。この両名が戦いでも始めたら、大変な事になる。
「せっかく元に戻った世界を、また滅ぼすような事」
『どうかしらね。本当に何もかも、元通りになっているのかしら』
 世界の滅亡を無かった事にしてくれた張本人が、そんな事を言っている。
『因果の再構築は随分、丁寧にやったつもりだけど……何かしら不具合が出て来るとしたら、これからよ。きっと』


登場人物一覧
【8504/松本・太一/男/48歳/会社員・魔女】
東京怪談ノベル(シングル) -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2018年05月24日

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