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『雪香 』
レミア・ヴォルクシュタインaa3678hero001)&狒村 緋十郎aa3678
 雪娘は死んだ。
 エージェントたちに追い立てられ、追い詰められ――独りで、逝った。

 その討伐戦には、善性愚神なる存在の真実を晒した雪娘の放った氷雪を真正面から喰らった狒村 緋十郎も参加を熱望していたのだが、それは叶わなかった。
 これはH.O.P.E.サイドからすれば当然の判断であろう。限られた人員で強力な愚神へ向かおうというのに、裏切ることが知れている者を一角に加えられるはずがない。ましてや緋十郎はその人柄から多くの友人を持つ男。現場のエージェントがいざとなっても彼を討てるはずはなく。
 結果、悲劇を少しでも短くまとめるためには、緋十郎という主人公を物語から降板させるよりなかったのだ。


 緋十郎は今、ロシアの辺境に建つ小さな一軒家にその身を横たえている。
 その包帯とテーピングとできつく固められた四肢は凍傷に黒く侵され、今にも崩れ落ちそうになっていたが……彼は治療の一切を拒み、かつて雪娘が暮らしていたというこの家で“そのとき”を待ち続けていた。

                   俺は置き去られた。
                   誰に?
                   俺を置き去りにしたのは、俺だ。

 俺がまっとうなエージェントを演じられてさえいれば、その後を追うことができた。
 そうして黄泉路をふたり、どこまでも――

        ああ。すまないヴァルヴァラ。
        おまえと共に黄泉路を下るが俺のただひとつの願いだったはずなのに。

 途切れ途切れ、浮かされた心の内に後悔が泡のごとくに爆ぜ、苦渋と絶望をばらまき、さらに緋十郎を後悔させる。
 そして。後悔に痺れた思考はやがて光を見いだすのだ。
 ……ヴァルヴァラ、そこにいたのか。
 傷? 痛くなんかないさ。これはおまえがくれた傷だ。
 それよりも辛かったろう? 偽らなければならなかった時間に、その小さな胸はどれほど痛んだことか。俺は、なによりもそれが辛い。
 そうか、解き放たれたんだな。だからおまえは笑って――綺麗だ。俺は不調法で、こんなときうまいことを言えなくて。でも、よかった。これからはずっと、笑っていられるんだな。よかった。よかった……


 高熱で赤く染まった顔に陶然と薄笑みを浮かべる緋十郎から目を逸らし、レミア・ヴォルクシュタインは部屋を出た。
 緋十郎の負った凍傷は第三度。すでに四肢は付け根から壊死しており、血は穢れて濁りきっていた。医者の言によれば敗血症というらしいが――とにかく腐った四肢を切断し、血のすべてを入れ替えたとしてももう、彼が十全な日常を取り戻すことはありえない。
 せめてすぐに命を断って、苦しみから解放してやれたなら。思い詰めながらもそれをできずに彼を介護し続けているのは、結局のところレミアの未練。
 ここまで来てなお、願ってしまう。緋十郎がわたしを思い出してくれることを。緋十郎のそばにいるのが死んだ雪娘じゃない、このわたしだってことを。
 でも。
 それすら叶えてくれることなく緋十郎は悔い続け、その狭間に雪娘を幻(み)て笑う。
 皮肉なものね、緋十郎。凍らされた体を熱に浮かされて、それでも雪を幻続けるなんて。
 滑稽なものね、わたし。そんな緋十郎に叶わない願いをかけて祈り続けるなんて。
 家の外に出れば、地平の果てまで続く凍土。
 どこへ踏み出していいものかも知れぬ荒涼を前にして、レミアは自らと緋十郎の行方を重ね……途方に暮れた。
 と。
「ああああああああ――そうだ、俺を、もっと――捨てて――いいいいいいいい!!」
 緋十郎のあげる喜悦の悲鳴がレミアの背を叩く。
 そう、眠ったのね。レミアは息をついた。
 緋十郎に残された体力はわずかだ。後悔にその心を裂き、耐えかねては幸せな幻影へ逃げ込み、意識を途切れさせれば闇底にて雪娘の責めを受ける被虐の夢に酔う。しかし眠り続けるにも体力は必要で、それがないからこそ短い眠りから引き剥がされてはまた浮かされる。
 きっと今、緋十郎は雪娘の氷に貫かれ、その足で躙られ、置き去られる夢を見ているのだろう。至上の悦びを味わって……その情景にレミアはいなくて……。
 寝ても醒めても緋十郎が見るのはあの子の影だけ。
 無理矢理引き起こしに行きたくなる薄暗い心に蓋をして、レミアは凍土へ踏み出した。
 彼女にとってどれほど辛いものであれ、緋十郎の命を少しでも長らえさせるには必要な眠り。それを邪魔することは、どうしてもできないから。
 わたしが必死で引き留めたって、もうすぐ緋十郎は死ぬのに。
 ……猿に雪娘を想うことを許したのはわたし。でも、結局のところ赦せずにいるのよ。だから殊勝に緋十郎に尽くすふりをして、この世界に縛りつけている。だって、そうしなければ緋十郎は喜んで雪娘の後を追いかけるんでしょう?
 一秒でも長く緋十郎を生かしておければ、それだけ雪娘との距離は開く。
 ねえ、ヴァルヴァラ。あなた、緋十郎のことなんか好きじゃないんでしょう? わたしが猿を繋ぎ止めてる間に、追いつけないくらい遠くまで行っちゃってよ。地獄でも天国でもいいから、緋十郎にあのときの返事ができないくらい遠くに。
「――っ!」
 ああ、未練がましい! わたし、いつからこんなに卑しくなってしまったの!? こんな――
 激情がかき消える。
 酷く重い足を引きずるようにもう一歩進めて、止まり。レミアはつぶやいた。
「わたしはいったいどこへ行けばいいの? わからないのよ、たったそれだけのことがどうしても……」
 レミアは白き茫漠のただ中で独り、惑うばかりであった。


「ボルシチか。赤い……ピーツだろう? 憶えてる。俺は確かに朴念仁だが、おまえが教えてくれたことを忘れるほど無粋な男じゃないぞ」
 ギャッチベッド(介護用ベッド)の背上げ機能で上体を起こした緋十郎は、焦点の合わぬ目を笑ませ、上がらぬ腕を蠢かせた。
 彼は今、もう握ることすらできぬ手で見えぬ匙を握り、雪娘との食事を楽しんでいる。
 たとえ実際はレミアの手に握られた匙で、ボルシチなどではありえぬミキサー食を食んでいるのだとしても。
「おかわりか。もちろんだ。そうだな、おまえが思うたっぷりの二倍はたっぷりとくれ。いや、やっぱりやめておくべきか。踏んでもらったときに吐いてしまってはもったいない」
 パシャン! 床に跳ねた皿が割れ、中身をぶちまけた。どろりと拡がりゆく、白、緑、茶。
 白はお米、緑はほうれん草、茶はお肉――ひとつひとつ思い出してみて、レミアは我に返った。
 なにをしてるの、わたし! なにがしたいのわたし!? ――もういい! もう全部終わり! 緋十郎を殺すわ! そうすればわたしも消える。この世界になにも残さず、綺麗に、なかった、こと、に。
 なかったことにできるの?
 わたしが顕現して、緋十郎と逢って、二世を誓って、裏切られて。それでも共に在ることを誓って貫いたこれまでの時間を、存在を消し去るくらいでゼロにできる?
 レミアは自らの手にある幻想蝶は限りなく澄んで、ほのかに、しかし確かな光を湛えてレミアへ語りかけるのだ。
『想い、貫かばこそ』
 ――そう。そうなのね。緋十郎は緋十郎の想いを貫けばこそ、これほどの醜態を晒してまで死を望んでいる。そしてわたしはわたしの想いを貫けばこそ、これほどの恥辱を忍んで緋十郎の生を繋いでいる。
「いいわ」
 今思い至ったように言ってみたけど、最初からわかっていたこと。
 わたしは最期の最後まで、緋十郎の貫く想いを見届ける。
 それを貫いて初めて、わたしは笑って消えていけるはずなんだから。
 幻想蝶を握り締めたレミアは、今もなお静かに笑み続け、彼にしか見えぬ雪娘とのひとときに浸る緋十郎を見つめ続けた。


 緋十郎はすでに口から食物を摂取できる状態ならず、点滴だけが彼の命を保つ、文字どおりの生命線となったが――今まで使わずにきた鎮痛剤を大量に投入することで、苦しむこともなく、いつまでも淡いまどろみに浸り続ける。
 肉がそげ落ち、頭蓋に貼りつくばかりとなった皮が時折跳ねるのは、夢の内で彼が笑んだ、その証であった。
 さて。いったいどんな夢を見ているのかしらね。雪娘とふたりきりでいるんでしょうけど。
「……幸せそう」
 当然のごとく、レミアに応える声はなかった。
 しかし、独り現世に置き去られたはずの彼女は、不思議なほどに穏やかであった。想いを貫く緋十郎をそばで見ていられることに、得も言われぬ満足を感じていたから。
 欺瞞よね。でも、今は願わずにいられないのよ。緋十郎の想いが、ほんのひと欠片でも雪娘に届くといいって。そうでなければ報われないでしょう? お姫様に命まで捧げようとした猿が。多分、そんな思いも欺瞞なんでしょうけど。
「レミア」
 ふと、緋十郎の声が聞こえる。
 レミアは緋十郎の顔をのそきこむが、続く言葉はなく、虚ろな薄笑みが、腐臭混じりの息を吐き出すばかり。
 彼の声は幻聴と知れたが、同時ももうひとつ、わかったことがある。
 もうすぐ逝くのね、緋十郎――
 レミアは急いで部屋を出た。
 このままでは泣いてしまう。満たされているなどという嘘は、現実を突きつけられた瞬間、どこかに失せてしまった。悲しい。寂しい。腹立たしい。苦しい。苦しい。苦しい。
 凍りついたドアを蹴り開ければ、凍土の景色は吹雪の咆吼に押し詰められ、塞がれていた。
 立ち尽くすレミアはぽつり、たまらない声音をこぼす。
「これじゃ、なんにも見えないじゃない」
 あれほど広大な凍土が、今は1メートルの先も見えやしない。
 どこへ行けばいいのかと途方に暮れることすらも、できない。
 それでも苛立つままに踏み出そうとして……胸で跳ねた硬さに想わず目を奪われた。
 胸元にしまっておいたはずの幻想蝶。
 自ら這い出してきたかのごとく、胸の中心でもう一度跳ねたそれは、今なお澄んだ輝きを湛え、レミアに語りかけるのだ。
『想い、貫かばこそ……誓いあり』
 だからって!
 怒りにまかせて雪へ、幻想蝶を握り込んだ拳を突き立てた。
 他愛もなく白を突き抜けた拳は凍りついた大地に行き当たり、阻まれた。まるでそう、雪娘の幻影を突き抜けた手が、緋十郎の心に拒まれるかのごとく。
 これもまたわかりきっていたことだ。死者と戦うことなど、誰にもできはしないのだと。

 轟とうねる雪風が、膝をついたレミアへと叩きつける。
 レミアは静かに立ち上がり、そして踵を返して歩き出した。
 凍土の果てならぬ、雪娘が残し、緋十郎が残る家の内へ。
 ドアを閉じればもう、雪は追いすがってこれまい。
 それでもなお彼女の背に追いつくものがあるとすれば、それは時間だ。
 緋十郎が逝き、レミアが逝くそのときは、すぐそこまで迫っているのだから。
 それでも――
 

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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【レミア・ヴォルクシュタイン(aa3678hero001) / 女性 / 13歳 / 血華の吸血姫】
【狒村 緋十郎(aa3678) / 男性 / 37歳 / 緋色の猿王】
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2018年06月04日

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