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『せめて一睡の手向け:二 』
狒村 緋十郎aa3678

 ――これは、ある男の希望である。
 ――これは、可能性の一つである。
 ――これは、泡沫の断章夢である。







 鼻歌。軽やかな歩調。暗い道を、少女が歩く。彼女の名前は、ヴァルヴァラという。
 少女の無垢な様子に反して、周囲の風景は仄暗い。闇に包まれ、見通せない。そして全くの無音であった。
 そんな時である。
 ヴァルヴァラの耳に届いたのは、誰かの声。少女が歩みと鼻歌を止めれば、その声はより鮮明に聞こえた。

「ヴァルヴァラ……!」

 それは狒村 緋十郎(aa3678)の声である。
「緋十郎……?」
 ヴァルヴァラは目を丸くした。その間にも、彼はまっすぐ――まるで子犬のように、彼女の傍へと駆けてくる。
「すまん……すっかり遅くなってしまったが……やっと……追いつけた」
 隣に来た頃にはすっかり息も上がり、それでも嬉しそうな声で。けれどその健気とも言える仕草に反して、彼の左目は――抉り取られ、閉ざされた目蓋からは生々しい鮮血が今なお流れ続けていた。
「っ その目、どうしたの!?」
 思わずヴァルヴァラは問うた。「ああ、」と緋十郎は流れる血を手の甲で拭いつつ、心配は要らないと言わんばかりに笑んで見せる。
「……俺は日本の生まれゆえ……本来、閻魔の管轄に置かれる定めのようなのだが……、お前を追いかける為に……お前が冥府で償うべき罪の半分を我が身に引き受ける為に……対価として左眼を差し出した。今後幾度生まれ変わろうとも……俺の左眼は未来永劫に光を見ることはない……らしい」
 悲愴、なれど、口調は幸せそうで、後悔は微塵もなくて。
「いや、我が左眼は……元々お前に捧げるつもりだった。お前に会う為ならば……お前の罪を共に背負う為ならば……安いものだ」
 それでも流石に、ヴァルヴァラの前で血で汚れているのは良くないかな……そう思っては血を拭うのだけれど、左の目からは血が止まらない。雪娘は沈黙して、それから俯き、じっとしていた。
「……」
 暗い世界。男の顎先から、また一滴の血が滴る。
 雪娘は沈黙している。緋十郎は沈黙の何故を問わず、小夜曲のように言葉を紡ぐ。
「……なぁ、ヴァルヴァラ。俺は……愛したから愛し返せなどと……思ったことは……ない。お前の本質が……邪悪な愚神だったことも。いつかああして……お前が再び人類に牙を剥く時が来ることも……全て……覚悟していた。その上で……俺は……お前が好き……なんだ。
 ……容姿に惹かれたことは……否定はできん。ただ……外見だけでは……断じてない。俺は確かに……メイサも護ろうとした。だが……フレイヤを討ったのは……他ならぬこの俺だ。それに俺は……敵が男であっても……同様に護ろうとしたことも……ある。……信じてくれなくとも構わん。ただ……最早二度と……俺は……お前の傍を……離れたくない」
 言葉にすればなお切なきはこの心。二人きりの闇の中、男は目の前の少女を今すぐ抱きしめたい衝動を堪えつつ、続ける。
「……因果応報が地獄の習い……らしい。お前の行く先は……恐らく……氷結地獄……コキュートス……だろう。
……既に冥府の神の許しは得た。俺も一緒に行く。寒ければ……俺の狒々の毛皮で……温めてやる。永劫に地獄で過ごすことになろうと……俺は……お前と一緒に居られるなら……本望だ。
 お前が人の恋愛感情を理解できる日が来るまで……返事はいつまでも待つと……約束したゆえ……な。俺は……何万年でも……お前の傍で……待つ」
 これが緋十郎の想いの全て。緋十郎の言いたかったことの全て。
 少女は俯いたままだ。白い前髪に、その表情は緋十郎からは窺い知れない。
「――、」
 それから、長い間があって。ヴァルヴァラが、かすかに唇を開いた。

「私、愚神達に洗脳されていたの。ほんとは英雄だったのよ」

 絞り出すようなか細い声だった。
 緋十郎は、隻眼を見開く。

 ――ああ。

「愚神に捕らえられて。ずっとずっと、本当の想いが邪魔されてたの。本当は……貴方の英雄になりたかった。貴方の手を取りたかった」

 ――どこまでも、俺は。

「会いたかった、緋十郎。ごめんね……私のせいで」

 ――……救われないのか。

「ごめんね、ごめんね……つらかったよね。いっぱい苦しい思いさせちゃって、本当に……ごめんね。どれだけ謝っても、ゆるしてもらえるようなことじゃ、ないよね……」

 愚神ヴァルヴァラが洗脳されていたなどありえないことだ。
 だからこれは……夢だ。緋十郎が見ている、夢だ。甘く、優しく……残酷な。
 でも。
 自分の夢の中だとしても、愛する彼女が、そう言うのなら。
 ひょっとしたら、夢じゃない可能性だってあるのだから。
 ここにはもう……絶対を証明できるような、神様だっていないのだから。

「そうか、ヴァルヴァラ。……そうだったのか」

 緋十郎は頷こう。ヴァルヴァラの全てを肯定しよう。
 ずっと聴きたかった言葉。胸を掻き破りたいほど切望した言葉。ずっと言って欲しかった言葉。
 こんなに心が苦しいのに、こんなに心が幸せだ。
 涙が出てくる。あらゆる感情が噴き出した熱いものが。

「なんだぁ……そうだったのかぁ……」

 俯いた。膝を突いた。
 そんな男を、ヴァルヴァラが冷たい体で抱きしめる。

「緋十郎、がんばったね……ありがとう」

 いいこ、いいこ。小さな掌が、男の髪を優しく撫でる。
 男の震える手が中空にもたげられた。その手は躊躇いの後――少女の華奢な体を強く強く抱きしめる。

「ああ、あああ、あぁああぁぁぁぁああぁ――」

 みっともないほどの号泣だ。少女の体に顔を埋め、血や涙で汚してしまうことも構わずに嗚咽を漏らした。
 ヴァルヴァラはずっと彼を抱きしめてくれていた。慈母のように、聖女のように。緋十郎の涙が止まるまで。
「ごめんね……酷いことも、いっぱい言っちゃったね」
 そして嗚咽も霞んできた頃に、少女はそう言った。
「いいや、……いいんだ。もう……もう、いいんだ」
 潤んだ声で、緋十郎は緩やかに首を振った。
「でも、」
「いいんだ、ヴァルヴァラ。……俺はお前を咎めたりは……しない。言ったはずだ……世界全てが敵になろうと、俺がお前の……盾になると」
「緋十郎……」
 そう言って、ヴァルヴァラは白い両手で彼の頬を包み、上を向かせる。オーロラ色の目が、男の瞳をじっと見る。
「緋十郎。私……貴方が好きみたい」
 内緒だよ、と言わんばかりの囁き声。
「ねえ、キスしても……いい?」
 そして、もっと小さなひそひそ声で。
 緋十郎の言葉と思考が止まった――その間隙に、唇に冷たさ。いや、唇が触れた途端、温かくなった。柔らかくなった。愚神ではない、本当の人間の少女のようになった。その両手も、春のように温かくなった。
 まるで王子様のキスで、お姫様の呪いが解けたかのようで。
「大好きよ、緋十郎。私を貴方の、一番にして」
 鼻先に、額に、最後に左瞼に。
 顔を放した少女のいでたちは、蒼い振り袖姿になっていた。黒袴姿になった緋十郎は微笑み、差し出された指先を握る。いつのまにか、周囲は深々とした雪道となっていた。

「それじゃあ、いきましょう、緋十郎」
「ああ。……いこうか、ヴァルヴァラ」







 ――これは、ある男の希望である。
 ――これは、可能性の一つである。
 ――これは、泡沫の断章夢である。

 ――全ての者に敬意を込めて。安らかに眠れ。



『了』




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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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狒村 緋十郎(aa3678)/男/37歳/防御適性
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2018年06月15日

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