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『命の器』
満月・美華8686


 死にたくない、と願う者を、責めたり蔑んだりする事は出来ない。そのような資格は誰にもないのだ。
 たった1つしかない己の命を、何やら崇高な目的のために投げ出す事の出来る者がいるとしたら、それは世の理に違反した存在だ。事によっては、罰されなければならない。
 悲しい事に、そのような違反者は度々この世界にも現れる。
 全員がそうではないが、己の自己犠牲精神に酔い潰れてしまう者も少なくはない。
 そのような輩を見る度に、私は思う。満月美華を見習え、と。
 死を恐れるあまり異形の姿となり、だがそんな自分に絶望する事もなく、己の胎内にある無数の命を愛で慈しみ続ける。生きる事を、渇望し続ける。
 あれこそが、この世界に生を受けた者として真にあるべき有り様なのだ。
 彼女は、いくつもの命を体内で育んでいる。
 基本的には1つしか命を持つ事が出来ない、この世界の生き物としては、世の理に違反しているとは言える。
 だが、自己満足で安易に己の命を捨ててしまう者たちよりは遙かにましだ。
 そんな満月美華の姿が、そこにあった。巨大な肥満体を、ずっしりとソファーに沈めている。
 私の寝室である。今、私は目覚めたところだ。
 窓から明るく妖しく射し込む月明かりを、心地よさげに浴びながら、満月美華は言った。
「おはよう、と言っておくわね。私にとっては月が、あなたたちにとっての太陽と同じようなものだから」
「…………誰、貴女は」
 私は問いかけた。
「満月さん、ではないわね……まさか、とは思うけれど……」
「直接お会いするのは初めて、かしらね」
 初対面の何者かが、満月美華の肥えた顔面で優雅に微笑む。
「まずは御挨拶をさせてもらうわ。この世界にあって最も私たちに近しい存在である、貴女にね……どうも、初めまして」
「初めまして……出来れば、お会いしたくなかったわ」
 正直なところを、私は述べた。
「貴女たちとの邂逅が、この世界にとって好ましいものであるとは思えないから……」
「私にとっては好ましいわ。この世界、私が思っていたよりずっと面白いから」
 肥った笑顔が、さらにニヤリと歪んでゆく。
「貴女のような人もいるし……それに、この満月美華という女も」
「面白い、とでも?」
「でなければ、とうの昔に殺しているわ。こんな愚かな女……だけどね、その愚かしさが興味深いのよ」
 むっちりと肥え太った五指が、でっぷりと膨張した腹部を愉しげに撫でる。
 私が出来れば会いたくはなかった何者かにとって、この満月美華の肉体は、お気に入りの衣服のようなもの……なのであろうか。
「……何故、この世界に?」
 私は訊いてみた。
「訊いたところで、私に理解できる答えを貴女たちがくれるとは思えないけど」
「そうねえ。悲しいけれど、私たちと貴女たちが言葉で会話をするのは……難しいのよね、とても」
 美華の丸い顔が、本当に悲しそうな翳りを帯びる。
「私たちの意思を、この世界の言語で、全て表現するのは不可能に近いから。私、今かなり無理をしているのよ? 強いて言うならば、そうね……千匹の仔を孕む悦びを、この満月美華のような愚かで哀れな女たちに教えてあげるため。という事になるのかしら」
 嘘ではないだろう、と私は思う。ただ、理解が出来ないだけだ。
「だから私はね、自分の意識の一部をこの世界に送り込んで、愚かで哀れな女を探していたのよ。だけど見つかったのは……あの男」
 美華の福々しい顔が、憎悪に歪んでゆく。
 あの男、という人物は私も知っている。満月美華の祖父。この世界では数少ない、本物の黒魔術師であった老人だ。
 そんな祖父との死別が、満月美華に、このような変異をもたらしたのだ。
「あの男によって私は、と言っても意識の一部だけだけれども、とにかくあの書物に封印されて……一生の不覚よ、許せない、誰よりも私自身を! 無様な油断をした自分が、私は許せない!」
 ソファーの上で、美華の肥満体がさらに膨脹する。
 新しい命が、彼女の中で膨らんでゆく。
「……そこまでよ。満月美華を、解放なさい」
 私の全身から、力が溢れ出し迸る。
 手加減が出来る相手ではない。満月美華の、大量にある命のいくつかを潰してしまう事になるだろう。
「生ける者として死を恐れる、彼女の純粋な思いを……それ以上、利用する事は許さない。去りなさい、邪神よ!」
「それは出来ない! 私はねえ、やっと見つけたのよ!」
 邪神の力も、迸った。
 2つの力が、寝室の中央で激突した。
 轟音の中で、邪神が叫ぶ。笑ってもいるのか。
「千匹の仔を孕むにふさわしい器を! 幾多の世界を流れ渡って、ようやくねえ! 貴女にも邪魔はさせない。私から満月美華を奪おうとするなら許さないわよ、全力で戦ってあげる!」
 満月美華の姿は、すでにない。
 破壊された寝室の有り様が、残っているだけだ。
 声は、聞こえる。
「……だけどね、私はそんなの嫌。貴女とは戦いたくないわ。お互いに我関せずでいきましょう。私は別に、この世界を滅ぼそうとしているわけではないのだから……」
 声も、やがて聞こえなくなった。
 私は溜め息をつき、すでにこの場にいない相手に語りかけるしかなかった。
「貴女の、ある意味では邪気のない行動……その結果として、世界の滅びに近い事が起こるのならば」
 やはり、満月美華を殺すしかないのか。数多いる自己犠牲主義者たちに見習わせるべき存在を、この世から消すのか。
 彼女の、無限に近いほどある命を、ことごとく奪うしかないのか。


 ひどい夢を見た、ような気がする。
 寝汗を拭いながら、満月美華は目を覚ました。
 特注品のベッドが軋む。毎朝の事ではあるが、今朝は特にひどい音を発している、ような気がする。眠っている間に、体重が急激に増えたかのようだ。
 急激に、という事はない。ただ、腹の膨らみがいくらか増している。
 新しい命が、腹の中で膨らみ脈打っているのを、美華は呆然と感じていた。
 ひどい夢を見た。
 内容は覚えていないが、何やら荒っぽい事が起こったのは間違いない。
「恐い人がいて……私に、力をぶつけてきた。私の、この沢山の命を全部、奪おうとした……」
 巨大な丸みを帯びた腹を、美華は愛おしげに撫でた。
「あんな事があるなら、命……いくらあっても、足りないわよね……」


登場人物一覧
【8686/満月・美華/女/28歳/魔女(フリーライター)】
東京怪談ノベル(シングル) -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2018年06月21日

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