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『ひとりの日常』
剱・獅子吼8915


 朝、目が覚める。だが動き出さずに寝床でぼんやりしている、このひと時が私は嫌いではない。
 そのまま二度寝をしてしまうのも良い気分だ。
 昼下がり頃に目を覚まし、半日を無為に過ごしてしまった罪悪感に駆られる事もある。まあ早起きをしたところで、やる事がそれほどあるわけでもないのだが。
 勤め人ではないから、時間に追われる事もない。
 やや不安定ながら収入はある。いくらか危険でも割の良い仕事が、月に幾度か舞い込んで来るのだ。
 おかげ様で、良い生活をさせてもらっている。多くを望まなければ、充分に暮らしてゆけるものだ。
 同じような仕事をしている同居人がいる。
 朝起こしてくれる、時もある。放置され、夕方まで寝ていた事もある。
 私としても、起こして欲しい日もあれば、放っておいてもらいたい時もある。
 今朝は、どちらかと言うと起こして欲しかった、かも知れない。
 朝と呼べる時間帯に、しかし私はこうして自力で目を覚ましてしまった。
 ぼんやりと、思い出す。同居人は、昨日から仕事で家にいない。
「ああ……そうか。いないんだよね……」
 本日の、私の第一声である。
 片腕のない私のために、色々と世話を焼いてくれる同居人だ。
 だからと言って、いないと何も出来ないわけではない。片腕でも、大抵の事は私はこなせる。
 必ず帰って来るのはわかっているから、寂しいわけでもない。
 いない。
 その状況を今日1日、受け入れ続けるだけの事だ。


 姓は剱、名は獅子吼。
 初対面の人間は、まず私の姓名を珍しがる。
 同様に、あるいはそれ以上に、この外見を珍しがる。
 私は女だから、眉間を縦断する傷跡を哀れまれる事が多い。美人なのに、と言われた事もある。こんな傷など、あってもなくとも大して違いのない顔だと私自身は思うのだが。
 この隻腕も、奇異と同情の眼差しを向けられる要素の1つだ。
 利き腕である左腕を失って、しばらくの間は確かに不便だった。
 今ではしかし残った右腕が、腕2本分の仕事を充分にこなしてくれる。こんなふうにだ。
「よっ……と」
 くるくると回転しながら宙を舞うパンケーキを、私はフライパンで受け止めた。
 私のフライパン返しの技量は日々、とどまるところを知らず向上し続けている。同居人も、誉めてくれる。
 私は英国人ではないが、午後のティータイムは欠かさない。夕方まで寝てしまった日でなければ、だが。
 ベランダにテーブルを出し、ティーセットを広げる。
 穏やかで心地良い日当たりを堪能しながら、私は紅茶を淹れ、パンケーキにシロップを垂らした。
 フライパン返しは上手くいったが、肝心のパンケーキの焼き上がりはどうか。
 ひとくち、私は味見をした。
「……ちょっと、パサパサしている……かな」
 まあ、シロップを多めにすれば食べられない事もない。どうせ食べるのは私だけだ。
 この程度のものを同居人に、自慢げに振る舞うわけにもいかない。
 1人きりで過ごす、ティータイムであった。
 同居人と2人で過ごす日も無論ある。
 今日は1人、というだけの事だ。
 紅茶をすすりながら私は、二度寝をする寸前の朝のように、ぼんやりとしていた。
 今度はシロップではなく、何かしら季節の果物を合わせてみよう。シロップを自作してみるのも悪くはない。
 勤め人ではない。時間は、たっぷりあるのだ。
 いくらか無理矢理、私はそんな事を考えていた。


 シチューは、そこそこ上手く出来た。だから作り置きをしておいた。
 帰って来て、腹が減っているのなら、それを勝手に食べれば良いのだ。
 夕食も入浴も済ませて私は今、1人リビングでくつろいでいる。適当に音楽を流して時折、本や雑誌を広げながらだ。
 遅くなるから先に寝ていて欲しい。同居人からは夕方頃、そんなメールが来た。
 帰って来るまで起きている。そんな事に、大して意味はない。
 私はただ、何となく眠れないから起きているだけだ。
 1人では眠れない、などと子供じみた事は言わない。
 そもそも私は、1人でいる事には慣れきっている。
 両親には、幼い頃に死なれた。
 それから私の庇護者となってくれた兄とも、結局は今生の別れを告げる事となった。
 人は遅かれ早かれ、いつかは1人になってしまうものなのだ。
 今の同居人と出会ったのも、こうして生活を共にしているのも、成り行きである。成り行きでしかない。
 成り行きで、いつかは別離の時を迎えるのだろうか。
 今日の私は、たまたま1人きりであった。
 その1人きりが、明日以降も果てしなく続くとしたら。
 同居人が、必ず帰って来るのはわかっている。だが、帰って来ない日々が明日から続くとしたら。
 私は想像してみた。想像しても、よくわからない。
 そんな事よりも、玄関で物音がした。
 ここで、迎えに飛び出したりはしない。私は飼い犬ではないのだから。
 起きて待っていた、などとは思われたくない。第一、待っていたわけではないのだから。
 リビングに入って来た同居人に、だから私は、ただ微笑みかけただけだ。
「やあ……お帰りなさい」


 登場人物一覧
【8915/剱・獅子吼/女/23歳/隠遁者】
東京怪談ノベル(シングル) -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2018年06月28日

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