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『本当に、素敵な日々でした。 』
シュルヴィア・エルヴァスティjb1002

 二〇一八年三月、フィンランド。
 冬の終わりとはいえ春は遠く、窓の外の庭は雪化粧。

「じいや。近々大切な……いえ、学校の恩師が訪ねてくる予定なの」

 シュルヴィア・エルヴァスティ(jb1002)は暖房の利いた部屋の中、紅茶片手にそう言った。傍らに控えていた執事が詳細を訪ねる前に、令嬢は、
「見るからに怪しい風体の危険人物っぽい人が私を訪ねて来たら、警察を呼ぶ前に私を呼んで頂戴。あぁそれから……その人が訪ねて来たら、しばらく旅行に行くわ。留守中はよろしく。旅行期間は未定。タブレットは持ってくから、確認が必要な書類は回して」
 と、立て続けに淀みなくそう告げる。じいやは呆気に取られているようだ。主人の行動力が折り紙付きなのは存じ上げているが、それにしても突然で。シュルヴィアはそんな執事の様子に、くつりと笑った。
「家族にはもう伝えてるから。お父様は最後まで渋ってたけど。『そういうのじゃない』って念押しして黙らせたわ」
 男と女の二人旅なんて、飽き飽きするほどドラマの題材になっているモチーフだけれど。冗談っぽく付け加えて、飲みかけの紅茶をまた一口。
 主人の命令を賜った執事は一礼し、幼い頃から見守って来たその横顔を見やり。「よほど心待ちにされておられるようで」と微笑ましさを口ずさんだ。
「なに? ソワソワしてる? 待ち遠しそう? ……そうね。そうかも」
 はにかみを隠すように、令嬢は色素のない髪をかき上げ、耳にかけた。
「最後かもしれないでしょう? なら、後悔するならNO。なのよ」

 そして。
 三月。
 棄棄は来た。
 拍子抜けするほどアッサリと。

「フィンランド寒くね?」
 最初の挨拶はそれだった。ダウンジャケットに防寒帽、ネックウォーマーに埋めた顔の、失明した方の目には眼帯が着けられていた。
「まあ、北欧だもの」
 門まで迎えに来たシュルヴィアは、途中まで走って来たことを感じさせない涼しい顔でそう答えた。それから、棄棄をまじまじと見る。学校で見ていたあの独特な服装ではなく、どこにでも居そうな恰好。それから長い髪は短く切ったようで、これまた“普通の成人男性”の見かけであった。顔に酷い傷痕があることを除けば、であるが。
「……イメチェン?」
「まあな! そっちは変わってないな。相変わらず美人さんだ」
「そちらこそ、お変わりないようで。……で、なんでまた三月に」
「二月はさ、ほら、海行ってた。毎年恒例の」
「あー」
「海行こうぜ」
「はい?」
「三月だし」
「冗談でしょ?」
「フィンランドだし」
「フィンランドですけど」
「決まりだな。水着ある?」
「サウナ用のやつなら……」
「んじゃ行くか」

 フィンランドでは、サウナの後に体を冷やす為にビーチで水浴び、なんてこともあるけれど。
 まさか旅行で最初にやることが極寒の海遊びだとは、流石のシュルヴィアも予想外すぎた。

「死ぬかと思った」

 宿泊したホテルの、男女混同サウナ。水着の正しい使い方。棄棄の隣で、シュルヴィアは海の記憶を思い出す。寒すぎて朧だ。クッソ冷たい水をバシャーっとかけられたのでコノ野郎とやり返すべく本気で追いかけたところまでは覚えている。つかまえてごら〜ん、待て待てコイツ〜、キャッキャウフフ。なお気温マイナス。笑えない。
「俺も死ぬかと思ったよね」
 ウン、と棄棄が遠い目をする。寒すぎてすぐ撤退したよね。
「……退職したって本当?」
 蒸気の中、薄ら見える男の体は古傷だらけだ。シュルヴィアの問いに「ウン」と男はアッサリ頷く。
「そ。じゃあ“先生”って呼ぶのも変かしら」
「はは、確かに。名前で呼んでくれていいぜ」
「……棄棄さん?」
「はーい棄棄さんです」
 おどけるように顔を覗き込んでくる。彼が接近に遠慮がないのは前々からだなぁ、と思いつつ。そっか、もう先生じゃ――“皆の棄棄先生”じゃないんだ。改めてそう感じた。
「だったら、私も生徒であるつもりはないわ」
「友達ってことかい」
「どうかしら」
「勘繰っちゃうぞ?」
「どうぞご自由に」
「部屋一緒がいいとか言っちゃってまあ」
「どうせ話がしたくて部屋に行くんだから、いいじゃない部屋代が浮いて」
「男は狼ですよ」
「私は蝙蝠よ、メエメエ可愛い羊じゃないの」
「あはは……俺にとっては可愛いけどね」
「ほんと減らず口」
「あのさ、シュルヴィア。良く聴いてくれ」
「……なに?」
「俺、これから“朽ちていく”よ。衰えて弱って、醜くなっていくよ。長くて一年。それでもいい?」
 それは、シュルヴィアが初めて見る眼差しだった。この片方だけの彼の目は、もう視力もあまりなく、こうして顔を寄せないとしっかり見えないことも、分かっていた。
「こんなところでそれ言う?」
 令嬢は汗ばんだ肩を竦めた。中途半端な時間帯で、自分達以外に利用客はいない。赤い瞳をすいと落とせば、きつく握られている男の弱った拳があった。
「うん、ごめんな、ごめん」
「謝らないで頂戴、私が悪者みたいじゃないの」
 拳の上に、色のない白い手を置いた。
「……いいのよ。いいの。付いて行くわ。私が決めたことだもの」
「ん。……ほんと、ありがとな」

 最期まで一緒に居て欲しい。男はそう願った。
 服装も変えて、髪型も変えて。弱って朽ちていく自分の姿を、まるで世界から隠すようにしておいて。誰にも知られず、ひっそり朽ちようとしておいて。
「お前の人生の、一年分だけ俺にくれ」と、そう言った。

「いいの。だって、独りは寂しいでしょう」
 夜の帳に、光の帯。不思議な色彩のオーロラが、静寂に揺蕩う。
「独りきりで終わるのは、切ないわ」
 言葉を発すれば白くなる。
「罪に対する罰ならまだしも」
 彼は悪くない。
「貴方は頑張ってきたもの」
 もし罪があるとしても、それを赦そう。
「後悔をね、したくないの」
 シュルヴィアは、オーロラを見上げる男の隣に静かに立つ。
「俺さぁ、シュルヴィア」
「なあに、棄棄さん」
「生きてて良かったよ、マジで」
「そう」
「教師生活は最高だったし、今までが辛かったって訳じゃないけどさ。俺、幸せだわ、今すごく」
「……そう」
 白い息を吐いて、寒いから、暖を取る為に寄り添った。
「なら、良かった」
 彼がオーロラを見ている隙に、春のように微笑んで。シュルヴィアもまた、オーロラを見上げた。
「……綺麗ね」
「お前も綺麗だよ」
「私もう三十路近いのよ」
「お世辞じゃなくて本当さ」
「どうだか、他の女の子にも言ってるんでしょ」
「これからはお前だけに言うよ」
「貴方、恋愛小説の読み過ぎではなくて?」
「ワハハ。じゃあどういうのが好き?」
「別に。ああ、もう、お好きにどうぞ、お好きに」
「愛い奴め」
「……教師だからもう一線引かなくていいかって自覚した途端にこれ?」
「そうです」
「はぁ……イタリア男でもイマドキこんな男いないわよ」
「がはは。あっ、イタリア。イタリアいいな。美味しいピザ食べたい」
「そ。じゃあ、次はイタリアに行きましょうか」
「そんで海行こう、海」
「また海?」
「地中海!」
「ああ、海水浴かと思った。……クルージングとか、いいかもね。海、好きなの?」
「お前の方が好きだぜ……」
「馬鹿」



 ……あと一年。
 たった一年。
 だけど。その三六五日が、二四時間が。
 どうか、どうか。
 世界で一番、素敵で幸せでありますように。


 ――そう願った。
 いつも、ずっと、追い続けていたその背の、隣に並んで。



『了』




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シュルヴィア・エルヴァスティ(jb1002)/女/16歳/ナイトウォーカー
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2018年10月19日

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