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『肉の夢』
満月・美華8686


 この子は将来、美人になるぞ。
 物心ついて間もない頃の、私の頭を撫でながら、誰かがそう言っていた。
 今だって、子供商品のCMに出られそうなくらい可愛いじゃないか。この子は美少女、美女になるよ。わざと暴飲暴食でもして太らない限りはね。
 そんな事を言っていたのは、父であったか、親戚の誰かか、ご近所の人か。もしかしたら、祖父であったかも知れない。
 ともかく。そう言われていた頃の私が、どこかを走っている。路上か、それとも公園か。野原か。
 走ると危ないよ、と言われるような年齢である。
 短い足で、とてとてと危なっかしい足取りで、それでも転ぶ事なく、私は無邪気に笑いながら走っていた。
 まだ無邪気さが許される年齢である。
 目的もなく走り回っている、わけではない。何かを、どこかを、目指している。
 おかあさん、と私は言った。まだ母親に甘えても良い年齢である。
 そんな小さな私が、どうやら母親であるらしいものに飛び付き、しがみついた。
 それは白く、柔らかく、巨大なものであった。
 私の小さな手足が、その中にめり込み、沈み、だが微かに跳ね返される。多少の弾力はある、巨大な肉塊。
 懐かしい、と私は感じた。自分は、この中から出て来たのだと。
 自分はかつて、この柔らかく巨大なものに内包されていた、生命であったのだと。
 上の方から、私を呼ぶ声が聞こえた。
 私に向かって、何かを言っているようだ。
 懐かしく柔らかな温もりの中で私は、それを聞き取る事が出来ずにいた。


 夢には2種類ある、と満月美華は思う。
 見ている最中、これは夢であると認識出来るものと出来ないものだ。
 ここ最近、見ている夢は、どちらかと言うと前者であろうか。
 白く柔らかく巨大なものに抱きついてゆく、幼い自分の姿が、第三者の目で見えているような気がするのだ。
 寝汗をぬぐいながら美華は、特注ベッドの上で身を起こそうとして失敗した。
 上体が、持ち上がらない。巨大な腹のせいで、身体を曲げる事が出来ない。
 変化の魔術には、かなり熟達してきた。
 細身の体型のまま一晩、熟睡する事も出来るようになった。
 だが、この夢を見る度に変化が解け、元の体型に戻りながら目を覚ましてしまう。
 改めて変化の魔術を施そうとしても、何故か上手くいかない。魔力の集中が、出来ないのだ。
 夢のせい、であろうか。
 夢の内容は、確かに気になる。あの白く柔らかく巨大なものは、本当に自分の母なのか。幼い自分は「おかあさん」と呼びかけていたが、何か不吉なものの暗示ではないかという気もする。
 だが、それよりも。美華は1つ、恐ろしい事に気付いていた。
「お母さん……って、どんな人だっけ……」
 巨大なベッドの上で早朝の光を浴びながら、美華は呆然と呟いた。
 勤め人ではないから、時間的にはまだいくらでも眠っていられる。だが、もう眠れそうにない。
 母親の事が、思い出せないのだ。
 両親が亡くなったのは、美華が確かにまだ幼い頃であったが、物心つく前というわけではない。
 父親の事は、覚えている。同時に命を落としたはずの母の事は、何も思い出せない。恐らくは美しかったのであろう容姿も、声も、性格も、美華を包んでいたはずの温もりも。
 母親に関する記憶だけが、すっぽりと失われている。
 今日、突然、忘れてしまったのか。
 それとも今までずっと、母親の事を忘れたまま、それを不審に思わず暮らしていたのか。
 美華の、肥満体のせいで常日頃から圧迫されている心臓に、不安という負荷が加わってゆく。
 動物の中には、寂しかったり不安だったりしただけで死んでしまうものがいるという。
 不安は、生命を脅かす。
 無数ある命のいくつかが、不安によって潰されてしまいそうだった。
 防衛の力が、己の体内で働き始めるのを、美華は止められなかった。
 命が、細胞分裂を起こしたように増えてゆく。いくつか潰れても良いようにだ。
 腹部が、何人もの子を宿したかの如く膨張してゆく。
 起き上がる事が出来ない、どころではなく手足も動かない。四肢の力を、腹に奪われてしまったかのようだ。
 不安と苦しさが、美華の心臓を圧迫し続ける。
 その一方で、何やら妙な温かさ、懐かしさのようなものを、美華はうっすらと感じていた。
「お母さん……」
 手が、辛うじて動いた。膨らんだ腹を撫でてみる。
「……この中に、いるの? ふふっ……まさか、ね……」


 自分が今、夢の中にいると、はっきり認識する事が出来た。
 いつもの夢、ではない。
 そこにいるのは、幼い頃の、小さく愛らしい満月美華ではなかった。
 おぞましく肥満し巨大な肉塊と化した、現在の満月美華である。
 走って、何かに抱きつく事など、出来はしない。そこも、いつもの夢とは違う。
 1つだけ、同じところがあった。
 声が聞こえる。
 懐かしく柔らかな温もりの中で、いつも聞き取れずにいる声。
 美華は、そちらを見た。
 鏡があった。巨大に無様に肥満した、美華の姿が見える。
 いや、鏡ではない。
「お母さん……」
 美華は呼びかけた。
 母が、何かを言った。やはり聞き取れない。
 構わず、美華は飛び付いた。動かぬ肥満体を無理矢理に躍動させた。
 押し潰すような負担が、心臓を襲う。自分の心臓など潰れても構わない、と美華は思った。
 母が、そこにいるのだから。
「おかあさぁん……」
 きらきらと涙を飛び散らせながら、美華は母親に抱き付いていった。
 肥満体と肥満体が、激突した。
 巨大な腹と巨大な腹が、ぶつかり合って潰れたわみ、元に戻りながら反発し合う。
 美華の巨体が、弾き飛ばされて後方へと転ぶ。涙の煌めきを引きずりながらだ。
 母の声が聞こえた。ようやく、聞き取る事が出来た。
「ごめんなさい……美華……」
 母も、泣いていた。


 母も、自分も、泣いていた。
 その一方、笑っている者もいる。
「くふふっ、あっははははははは! たっ楽しいもの、見せてもらったわ。おデブちゃん同士がこう、びたーん! ぼよぉーんって……ああ、お腹痛い。涙出て来ちゃった」
 どこかで、何者かが笑っている。それが美華にはわかる。
 それは、耳で聞く笑い声ではなかった。
「まさか、まさかねえ……今と昔の所有者が、まさか親子だなんて……偶然、ではないわね。私たちにとっても想定外の何か、その力が働いている。ふふん、気に入らないけど面白いわ」
 ここではない、どこかで笑う何者かの存在を、ぼんやりと知覚しながら、美華は自分が上体を起こしている事に気付いた。身体を曲げるのに邪魔な、巨大な腹部が、今はない。
 就寝前に施した変化の魔術が、今日は効いている。
 すっきりと痩せた己の腹を、美華は撫でた。
 腹部そのものが失われてしまったかのように、何やら頼りなくはあった。


 登場人物一覧
【8686/満月美華/女/28歳/魔女(フリーライター)】
東京怪談ノベル(シングル) -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2018年11月05日

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