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『 日常の過ごし方 』
薙原・牡丹7892

 泉、と呼ぶほどには澄んだ場所ではないはずだった。沼、といった方が当たっているかもしれない。だというのに、その水面はただただ白々しい光のまたたきを彼女の瞳に映してくる。鏡のような、白々しさと、冷たさである。
 月が出ている。
 澄み切った煌めきを反射する水面のすぐ下には、あらゆる泥と澱が、永年の時と共にうず高く重ねられ続けているに違いないのだった。
 それを思えばこそ彼女は、月と水面の光を映すその鳶色の瞳の輝きとは裏腹な、不思議な吐息をこぼすのだった。
 その人ならざるものの憂いともいえる趣に惹かれたのか、彼女の側には男がひとり、寄り添うようになった。
 はじめ適当にあしらっていた彼女も、諧謔の性質も手伝ってつい、平気で言い寄ってくるこの物好きの男を邪険にはしなくなっていた。
 時が過ぎた。男もまたいつしか、人ならざるものに変わっていたのだった。里に戻ろうと、家族や周囲からその変じた姿を疎まれ、男は人の中で生きることが出来なくなっていた。
 男は彼女の前から姿を消した。男は彼女を咎める言葉も残さなかったのだった。その人らしいいじらしさが悲しく、彼女はやはり不思議な吐息を深くこぼし、やはり上から水面を煌めかせるものを仰ぐのだった。
 月が出ている。
 片面の、ただ冷たい輝きを放ち続ける下弦の月だった。

 マンションの窓から差し込む朝日に、薙原・牡丹は気だるげな様子で長い髪をかきあげた。あまりよい夢ではなかった。夢としては突拍子の無さが足りていないし、話のひとこまとしても典型的なもの過ぎて面白みというものが無い。
 少し仕事が立て込んでいたせいだろう。前時代的な趣を強めにしてみようかと、明治あたりの作品を少し読み直してみたりもした。
(・・・前時代的、か)
 そんななんともない言葉がおかしくて、牡丹は朝食を摂りながらくすりと笑みをこぼすのだった。500年を超えて生きている自分に、その程度で前時代的も無いものだ。
 おかげでいつもの朝食をまずく感じる、なんてことにはならず、身支度を整えていつもの牡丹の飄とした様子でマンションを後にした。
 こうした郊外は騒がしくなくて、まったく散歩をするためにある、なんて思いながら体を伸ばしたりしながら歩くのだった。歩きながら考える。所詮は夢だ。夢でしかないのだが、
(似たようなことが、あったかな無かったかな)
 記憶が埋没する程度には生きている、うわばみの己を顧みたりするのだった。

 喫茶店の中で、携帯型のメモライターのキーを静かにたたくところ、店員がカップを持ってきた。おたがい顔を覚えてはいるので、少しだけ言葉を交わした。今の時代、喫茶店というだけでもやっていくのは簡単ではあるまい。
 この店はお気に入りなのだった。ぜひ、なくならない程度、混まない程度に客に入って欲しいと牡丹は思う。
 昼食も喫茶店で済ませた。軽食も、悪くない店なのだと、牡丹は頷いた。

 都内の出版社で、担当の編集者と打ち合わせをした。ガンガン来るタイプも多いが、適度にこちらを乗せてくるようなタイプの人だった。
 小説の内容まで強く口出ししてくることも少なくて、その点は助かる。
「いやあ、先生の新しいのを読むのだけが楽しみでしてね」
 …世辞が多めで、そこは話半分に聞いておかなくてはならないが。

 帰りは割と遅くなった。自分でもまだ決めかねている先の展開について話をしていると、つい長くなった。あの編集者も、議論となると意見自体は持っている人なのだ。
 居酒屋で酒も飲んだ。遅くなったのはそれもあるかもしれない。しかし、うわばみなのだからそこは外せないのだった。大事なことである。
 風呂に入りながら思う。
(わりと、人間らしくできていると思うんだけど)
 そう、妖怪であっても人間に溶け込むことは出来るのだ。そんな在り方は、自分だけでなくこの現代の東京を見回せば容易に目にすることが出来る。
 ―あの男は、そのやり方を知らなかっただけだ。
 夢で見たものが突然思い起こされて、牡丹は首を振る。長い髪から水が滴った。
 長い髪は洗うのが面倒だった。
「蛇の体だったらもっとこう、つるっと」
 面倒がないのに、などと。そんな風におどけてみるのだった。

 風呂からあがって、喫茶店から執筆していた携帯ライターの内容を、パソコンに移しておく。移しながら、まあどうしても直したくなるところはあるもので一々キーを叩くのだった。
 話としてもまとまりそうである。あの編集者との議論も、役に立っていることだろう。
 午後の打ち合わせが思い起こされる。
「先生のね、こう書いている妖怪たちってのは人間になりたいんですかね」
「そんなこともないですよ」
 反射的に応えてしまったので少し、続ける言葉に窮してしまったが、
「・・・ただ、妖怪も、自分以外の事を想ってもいいと思いますよ。それが例えば、人間のことであっても」
「ほう」
 なんとなく、あの編集者が嬉しそうな笑みを浮かべていたのが印象的だった。
(寝よう)
 気づけばすでに日が変わっていた。
 改めてカーテンに手をかけて、空を仰いだ。郊外のマンションであるから、見晴らしだけはよく、空ばかりが広い。
 カーテンからのぞいた牡丹の鳶色の瞳は、心なしか鋭い色を帯びていた気がした。
 月は出ていなかった。
 なんとなく、この日だけはそのことに安堵感をおぼえ、牡丹は深い眠りにつくのだった。
 夢を見ることはなかった。


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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【7892@TK01/薙原・牡丹/女性/31/小説家】

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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 お待たせして申し訳ありません。お気に召して頂ければ幸いです。
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東京怪談ノベル(シングル) -
遼次郎 クリエイターズルームへ
東京怪談
2018年11月09日

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