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『戦わない男』
伊武木・リョウ8411


 伊武木リョウは理系である。
 身体を鍛えた事などない。腕っ節には自信がない。
 殴り合いの喧嘩など、する前に謝ってしまう。頭を使っての喧嘩なら、負けた事はない。
 大人は、それで良いのだ。
 こんなふうに顔面に1発喰らったところで、別に恥じる必要はないのである。
「ちょっと、何やってんですかお客さん!」
 店のマスターが、カウンターの奥から飛び出して来た。
 尻餅をついたまま、リョウは鼻血を拭い、眼前の男に微笑みかけた。
「拳ってね、けっこう簡単に怪我するらしいよ? 気を付けた方がいい」
「て……てめ……」
 やはり痛めたのだろう。右の拳を左手で押さえながら、男は息を呑んでいる。酔いの回った赤ら顔が、やや青ざめる。
 恰幅の良い男である。38歳のリョウよりもかなり年上、50代であろうか。恐らくは体育会系、ひたすら根性論を押し通して部下を辟易させる類の上司。この御時世それでは色々と上手くゆかず、飲んだくれて憂さを晴らすしかない真っ最中……とリョウは読んだが無論、そんな事を口に出したわけではない。
 だが、顔には出ていたのかも知れない。男はいきなり激昂し、殴りつけてきたのだ。
「てめえよ、俺の事バカにしてんだろ!」
「してないよ。俺、あんたの名前も知らないし……見ず知らずの俺にいきなり話しかけてきて、だけど何を言ってるのかわからない。バカにするには、あまりにも情報が足りないんだよ」
 言いつつリョウは、鼻をかんだ。ティッシュが血まみれになった。
「あんた、もしかしたら凄い立派な事を言ってたのかも知れないし。ただ言いたい事は頭の中で少し吟味した方がいいよ、酔っ払ってない時に」
「やっぱ、バカにしてんじゃねーかあ!」
「あんた、いい加減にしなさい。監視カメラにちゃんと映ってるんだよ?」
 マスターが加勢してくれた。
「僕もね、リョウさんが一方的に殴られたって証言するから。あとはリョウさんが被害届でも出せば、あんた終わりだよ」
「2度と来ねえよ! こんな店!」
 カウンターに1万円札を叩き付け、男は店を出て行った。
 マスターが言った。
「……リョウさん、どうする? 被害届」
「いいよいいよ、面倒臭いから」
 あの少年が今ここにいなくて本当に良かった、とリョウは思った。


「まずは、不愉快なお話を先に済ませてしまいましょうか」
 リョウは言った。相手は、新入社員のように畏まっている。
 とある製薬会社が、某県山中に所有している研究施設。
 その応接室で伊武木リョウは今、商談を任されていた。相手は、他社の営業社員である。
 恰幅の良い、50代の男。その大きな身体が、しかしソファーの上で、いささか小さくなっている。
 リョウは、不愉快な話を続けた。
「申し訳ないですけど、立場の強い弱いで言ったら、御社より弊社の方が強いと思います。うちの研究成果を欲しがっている会社たくさんありますからね。ただ会社の強弱だけで商売の全てが決まるのなら、こうやって担当者同士が顔を合わせる必要もないわけで……ふむ。関係ない事訊きますけど最近どこかでお会いしました?」
「い、いえ……その……」
 体育会系と思われる、恰幅の良い男が、その脂ぎった顔を青ざめさせている。
 リョウは微笑みかけた。
「俺は、だからこうやって違う会社の人と話す時はね、会社の大小はとりあえず考えないで、相手方の担当者さんが一体どういう人なのかを見るようにしているんですよ。と、いうわけで呑みに行きましょう」
 押しの強そうな男が、泣きそうな顔をしている。
 リョウは、さらに言った。
「ああ、もちろん接待の類は一切お断りですから奢らせていただきますよ。昨日のお店で、ね」


「だからねえ伊武木さん、俺ぁ言ってやったんですよ若い連中に。何にも考えねえでガムシャラに行く事も必要なんだぞって」
 あれほど怯えていた男が、生ビール何杯かで饒舌になった。
「今の若い奴らはねえ、頭はいいんですよ本当に。ネットなんかで要らねえ知識ばっか集めくさって、ひっく」
「根性論が、すっかり悪者にされちゃいましたからねえ」
 リョウは話を合わせた。
「でも意外と、最後の最後で勝負を決めるのは精神主義だったりするんですよねえ」
「勝負! そう、それなんですよ伊武木さん。今の若い連中は勝負をしない! 勝負しなきゃいけねえ時ってのは絶対来るのによお、ひっく」
「……昨日は俺に、そういう話をしようとしたのかな?」
「い、いや……その……」
「まあ呑みましょう」
 リョウは酒を注いだ。
 このような男でも、50代まで社会人として生き抜いてきた人物である。それなりの人脈を持っているのは間違いない。
 利用する。それだけだ。
 そして会社に、研究のための金を出させる。今以上に、際限なく。
(研究一筋、のつもりだったけど……俺も立派な会社人間かな、今や)
 呟きそうになった言葉を、リョウは酒と一緒に飲み干した。


 登場人物一覧
【8411/伊武木・リョウ/男/38歳/研究員】
おまかせノベル -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2018年11月13日

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